淝水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に淝水(現在の安徽省淮南市寿県の南東)で激突した戦い。 華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、氐族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、第3代皇帝苻堅が宰相王猛の...
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寿県 (category 淮南市の行政区画)
淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」・「風声鶴唳」・「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。 隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「寿州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。...
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五胡十六国時代 (category 中国の名数5)
淝水(現在の安徽省寿県)を挟んで対峙する。前秦軍は一旦、兵を後退させ、東晋軍が河を渡ったところで攻撃しようとした。しかし後退させたことで陣形が崩れ、そこを東晋軍に突かれて大混乱に陥り、前秦軍は大敗した(淝水の戦い)。 前秦軍は様々な民族の混成であり、先の戦い...
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後燕 (category 満洲の歴史)
燕 後燕の領域。 後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(現在の河北省定州市)に都し、華北東部と遼西を領有した。 後燕の...
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慕容垂 (category 後燕の皇帝)
Chuí)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 当初は前燕の皇族で、桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。末年に太子の慕容宝が参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中、病を患って死去した。 鮮卑慕容部の出身。前燕の...
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太元 (東晋) (category 中国の元号)
太元8年 5月:桓沖らが襄陽・蜀に対する攻勢を試みる。 7月:前秦の先鋒軍が武当で西府軍により撃破される。 8月:前秦の苻堅が東晋征伐のために南下。 10月20日:謝玄の率いる東晋軍が淝水で前秦の南伐軍を大破する(淝水の戦い)。 12月:禁酒令が解かれ、税米三石を五石に上げる。 太元9年 2月27日:桓沖死去。...
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4世紀 (category 書きかけの節のある項目)
373年) - 東晋の政治家・軍人・土断法の実施や軍事的成功により政権を掌握し禅譲を望むが失敗 支遁(314年 - 366年) - 東晋の僧侶・老荘思想の概念で仏教を解釈する格義仏教の中心人物・著作に『文翰集』がある 謝安(320年 - 385年) - 東晋の宰相・桓温の簒奪の阻止し淝水の戦いを勝利に導く...
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謝 (category 書きかけの節のある項目)
東晋の将軍。謝安の甥。淝水の戦いで最前線に立ち、苻堅を破った。 謝霊運 - 東晋・南朝宋の詩人・文学者。謝玄の孫。 謝裕 - 東晋末の官僚 謝恵連 - 南朝宋の詩人・文学者。謝玄の孫。 謝朓 - 南朝斉の詩人。 謝赫 - 中国南北朝時代の斉から梁 の間に活躍した画家・評論家 謝覚哉 - 中国の政治家、教育家...
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謝安 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
太元10年8月22日(385年10月12日))は、東晋の貴族政治家。字は安石。本貫は陳郡陽夏県。桓温の簒奪阻止や淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。謝裒の三男。兄は謝奕・謝拠。弟は謝万・謝石・謝鉄。従兄は謝尚。正室は劉惔の妹の劉夫人。子は謝琰。孫は謝混。 名族の...
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苻堅 (category 前秦の皇帝)
けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の...
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慕容沖 (category 西燕の皇帝)
ちゅう)は、五胡十六国時代の西燕の初代皇帝。なお、皇帝を名乗っていないが西燕の実質的な創建者は慕容泓である。前燕の初代皇帝慕容儁の子で、第3代慕容暐の弟。 383年の前秦の淝水の戦いでの大敗の後、慕容泓の独立政権を部下に擁立されて継ぎ、長安の周辺を支配した。386年、鮮卑の...
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南燕 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。 南燕の始祖慕容徳は前燕の皇族で、370年11月に前燕が前秦の苻堅により滅ぼされた際、甥の皇帝慕容暐と共に長安に連行され、前秦の奮威将軍として仕えた。383年の淝水の戦いでも前秦軍の将軍として参戦している。しかしこの戦い...
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- 4144年 383年のカレンダー(ユリウス暦) 11月30日、淝水の戦い - 前秦軍が東晋軍に大敗し、華北は再び争乱状態に陥る。 8月25日 - グラティアヌス、ローマ皇帝(359年) 聖ウルスラ、ブリタニア出身とされるキリスト教の聖女(生年不詳) 注釈 出典 [脚注の使い方]...
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4143年 382年のカレンダー(ユリウス暦) 中国で、淝水の戦いが起こる 畺良耶舎、劉宋代に活躍した西域出身の訳経僧(+ 443年) 安帝、東晋の第10代皇帝(+ 418年) 注釈 出典 [脚注の使い方] ウィキメディア・コモンズには、382年に関連するカテゴリがあります。 年の一覧 年表 年表一覧...
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西燕 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
370年11月に前燕が前秦皇帝の苻堅により滅ぼされた際、前燕最後の皇帝慕容暐以下鮮卑人4万戸は長安に連行された。この際、慕容暐の弟の慕容泓と慕容沖も連行されるが、両者は前秦の北地長史、平陽郡太守として用いられた。383年に苻堅率いる前秦軍は淝水の戦いで東晋軍に大敗し、以後華北における前秦の...
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後秦 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
姚襄が敗死すると、弟の姚萇は部を率いて前秦に降伏した。前秦の英主苻堅は姚萇を重用し、姚萇は前秦の南郷遠征(366年)、略陽討伐(367年)、前燕遠征(370年)、前仇池遠征(371年)、益州遠征(373年)、前涼遠征(376年)、襄陽遠征(378年)に従事して多大な功績を挙げた。383年、前秦が淝水の戦い...
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親征 (category すべてのスタブ記事)
スウェーデン王カール12世の大北方戦争 蜀の劉備の呉への親征(夷陵の戦い) 魏の曹丕の呉への親征(濡須口の戦い) 前秦の苻堅の東晋への親征(淝水の戦い) 遼の太宗の後唐と後晋に対する遠征 北宋の太宗の燕雲十六州への親征 遼の聖宗の高麗に対する遠征(契丹の高麗侵攻) 明の永楽帝のタタールとオイラトに対する遠征 明の英宗のオイラトに対する親征...
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桓沖 (category 東晋の人物)
の刺史職に任命されているが、これは桓氏の兵権を荊州の軍閥である「西府軍団」のみに制限したようなものだった。 だが桓沖は兄と違って忠実で、西府軍団の長として謝安の政権に参画した。太元8年(383年)の淝水の戦いでは前秦の大軍が迫る中で都の守護のために西府兵の中から3000人の...
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龍城 (category 中国の歴史的地域)
の根拠地とした。 354年に皇帝を称した慕容儁は都を薊城(北京大興区)に移し、龍城には留台を置いた。やがて前燕は西方に起こった前秦と対立し、370年に前秦の苻堅に滅ぼされる。383年には淝水の戦いで敗れた前秦が崩壊するなかで後燕を樹立した慕容垂は華北の...
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後涼 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
の地方への進軍を諦め帰還を決断した。ところが高昌郡太守楊翰が抵抗したため、385年9月に呂光は楊翰を降伏させて高昌を征した。ここで呂光は、淝水の戦いでの前秦軍の敗北、その後の長安の混乱を聞き知る事となった。 東進した呂光は玉門(現在の甘粛省玉門市)に入り、かつては前秦配下の...
8 KB (1,325 words) - 11:44, 12 May 2023
慕容徳 (category 南燕の皇帝)
淝水の戦いで前秦が大敗し、五兄の慕容垂(成武帝)が自立して後燕を建国すると、これに加わって車騎大将軍に任命され、范陽王に封じられた。前秦に留まっていたすぐ上の同母兄の慕容納や慕容徳の諸子たちは慕容徳らの叛乱を理由に全員殺害された。 建興11年(396年)に成武帝が崩御し甥の...
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西秦 (category 五胡十六国の王朝)
の勃寒が隴右を犯したため、苻堅は乞伏司繁に命じてこれを討伐させ、そのまま勇士川(苑川)を領することになった。376年に乞伏司繁は死去し、子の乞伏国仁が跡を継いだ。383年の淝水の戦いでは乞伏国仁は前将軍として従軍を命じられていたが、その直前に乞伏国仁の叔父の...
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拓跋窟咄 (category 日本語版記事がリダイレクトの仮リンクを含む記事)
- 386年)は、代の王族。甥にあたる北魏の道武帝と対抗した。 拓跋什翼犍の子として生まれた。拓跋什翼犍の死後、前秦の苻洛は窟咄が代の王族中で年長であるため、長安に移させた。苻堅は窟咄を礼遇し、書学を学ばせた。淝水の戦いの後の前秦の混乱により、窟咄は慕容永の東遷に従い、西燕の新興郡太守となった。...
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北魏 (category 日本語版記事がリダイレクトの仮リンクを含む記事)
月に拓跋什翼犍の時に前秦の苻堅に滅ぼされた。この際、拓跋什翼犍の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に、母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた。その前秦が383年10月の淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する。384年10月に劉庫仁が死去す...
24 KB (3,821 words) - 16:53, 23 February 2024
乞伏国仁 (category 西秦の君主)
こくじん)は、五胡十六国時代の西秦の創建者。隴西鮮卑人。在位期間中、正式には秦王を称していない。 父の乞伏司繁は前秦の苻堅より南単于に封じられており、前秦建元12年(376年)に司繁が死去すると国仁がその地位を継承した。建元19年(383年)淝水の戦いに際し、苻堅は国仁を前将軍に任じ作戦に参加させている。 前秦の臣下としての...
2 KB (276 words) - 08:16, 12 July 2020
慕容超 (category 南燕の皇帝)
ちょう)は、五胡十六国時代の南燕の第2代(最後)の皇帝。 建熙11年(370年)、前燕が前秦により滅ぼされると、父の慕容納は前秦に仕え、後に張掖に移った。慕容納の弟の慕容徳は前秦苻堅の命により東晋討伐軍に参加した。建元19年(383年)に前秦が淝水の戦いで敗北すると、慕容納・慕容徳の...
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柴壁の戦い(さいへきのたたかい)は、中国の五胡十六国時代末期の402年5月に北魏と後秦との間で起こった合戦である。柴壁とは現在の山西省臨汾市襄汾県である。 383年、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化すると、配下部族の自立が相次いだ。その中で羌の姚萇が後秦を、代の皇族の...
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朱序 (category 東晋の人物)
南において前秦の驃騎将軍張蚝に敗れた。その後、前秦軍は北に引いて淝水の近くに陣を布いたので、両軍は淝水を挟んでにらみ合いの状態となった。 謝玄は苻融の下へ使者を派遣して「君は敵陣深く入り込んでおり、水辺近くに陣を布いている。これは持久の計であり、速戦ではないぞ。もし軍を少し引き、将士に陣を移すよう命...
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謝霊運 (category 人物の画像提供依頼)
六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。父の謝瑍(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。南朝斉の謝朓の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では族弟の...
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東晋 (category 魏晋南北朝時代の王朝)
の奮戦もあり、数で圧倒的に劣った東晋軍は前秦軍を撃退した(淝水の戦い)。 この勝利により、謝安は以後も東晋を運営していく。しかし孝武帝が成長し、またその弟の司馬道子が次第に謝安を政敵として対立したため、晩年の謝安政権は思うように運営がままならなかった。そして385年に謝安は死去した。 謝安の...
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道武帝 (category 日本語版記事がリダイレクトの仮リンクを含む記事)
長安にて拓跋什翼犍が死亡。後継者である拓跋珪の措置を燕鳳が「長安に戻し、のちの代の支配者として育成すべし」と苻堅に論じる。 太元8年(383年)、淝水の戦いで苻堅が大敗。苻堅を護衛し長安に一度帰還した慕容垂に合流し、中山に移動した。 登国元年(386年)、代北にて代王即位。 ここで拓跋什翼犍の死亡については、魏書における説「魏の...
8 KB (1,042 words) - 03:03, 13 June 2023