• ローマ皇帝として戴冠されたカール大帝は、自らの称号を認めるよう東ローマ帝国へ使節を送った。この交渉でエイレーネーは、自身の女帝即位について帝国西方での承認を取り付けるべく、自分とカールとの結婚を提案した。ローマ帝国を統一するこの結婚にエイレーネーは乗り気であったし、カールの側でも提案を好意的に受け止めたという。しかし、失政(詳しくは...
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  • 東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。 女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ...
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  • エイレーネーが自ら史上初のローマ女帝として君臨していた。ローマ教皇はこれを認めず独自の皇帝としてカール大帝を擁立したのである。 新たな帝位の確立は西ヨーロッパがギリシャから完全に独立したことを示していた。帝位はカトリックと密接に結びついており、また神聖ローマ...
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  • 女帝は"empress regnant"といい、皇后は"empress consort"という。 前皇帝の血族である女性が即位する場合と、皇帝家の血族ではない皇后が夫などの死後、女帝として即位する場合が多い。ロシアのエカチェリーナ2世や東ローマ帝国のエイレーネーは後者の例である。...
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  • コンスタンティノス6世 (category エイレーネー (東ローマ女帝))
    この機をとらえたエイレーネーは797年、軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕縛し、実の息子でありながら目をくりぬいて追放した。コンスタンティノス6世の追放後は、帝国東部ではエイレーネーが自らローマ帝国初の女帝を名乗り、帝国西方ではフランク王国の国王カールがローマ...
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  • ギリシア神話における平和を司る女神。 エイレーネー(チチャク) - 東ローマ皇帝コンスタンティノス5世の皇后。 エイレーネー (東ローマ女帝) (752年 - 803年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の女帝エイレーネー・ドゥーカイナ(英語版)(1066年頃 - 1123年または1133年) - 東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの皇后。...
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  • レオーン4世 (category エイレーネー (東ローマ女帝))
    IV ho Khazaros、749年1月25日 - 780年9月8日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第3代皇帝(在位:775年 - 780年)。同王朝第2代皇帝コンスタンティノス5世の子。「ハザロス」は母エイレーネーがハザールの出身だったためにちなむあだ名。...
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  • 成し、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。 797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、ローマ皇帝史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。そこで教皇レオ3世は、800年1...
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  • 8世紀 (category 日本語版記事がリダイレクトの仮リンクを含む記事)
    - 809年)。 クレタ島の大地震、エジプトではアレクサンドリアの大灯台が半壊する。 797年 東ローマ皇帝コンスタンティノス6世が母エイレーネーによって廃位され、エイレーネーローマ帝国初の女帝として即位。 フランク国王カールがアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに使節を送る。 空海が『三教指帰(聾瞽指帰)』を執筆。...
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  • カール大帝 (category フランク人のローマ皇帝)
    東ローマ皇帝は女帝であるが故に帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった。 カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝エイレーネーからはエイレーネーとカールによる東西ローマ...
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  • イサウリア朝 (category 東ローマ帝国の王朝)
    レオーン3世(717年 - 741年) コンスタンティノス5世 “コプロニュモス”(741年 - 775年) レオーン4世 “ハザロス”(775年 - 780年) コンスタンティノス6世(780年 - 797年) エイレーネー(797年 - 802年、女帝)...
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  • 第2ニカイア公会議 (category エイレーネー (東ローマ女帝))
    しかし、長年培われた民衆の画像への執着というものは皇帝の命令1つで変えられるものではない。東ローマ帝国内のヨーロッパ側の民衆や聖職者の反感が高まっていたため、その後を継いだコンスタンティノス6世を後見した母であるアテネ出身の皇后エイレーネーはこの情勢を配慮し、聖像崇敬禁止を撤廃しようと考えた。こうして開かれたのが...
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  • ニケフォロス朝 (category 東ローマ帝国の王朝)
    Νικηφόρου、802年 - 813年)は、ニケフォロス1世を始祖とする東ローマ帝国の王朝。イサウリア朝の女帝エイレーネーの廃位後に帝位を継承した短い王朝であった。その帝権はかつてより脆弱で不安定なものとなっており、財政面でも問題があった。 この期間、東ローマ帝国では国境における戦いが続き、財源が枯渇した。また、過...
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  • 東ローマ帝国皇帝の一覧 名前の後の“ ”内はあだ名。 名前の後の“ ”が付かないものは姓。 王朝による分類は後世の歴史家によるものである。 正式な君主号として「東ローマ皇帝」を意味する単一の称号は存在していない。4世紀には古代ローマ帝国の「インペラートル、カエサル、フラヴィウス、アウグストゥス」等のラテン語の称号がそのまま使用された。...
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  • ローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。 797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネー...
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  • ミカエル1世ランガベー (category 東ローマ皇帝)
    Ostrogorsky 1986, p. 197. ^ これを「西ローマ皇帝」と表記する場合もあるが、ローマ教会側はエイレーネー女帝以降のコンスタンティノープルの皇帝をローマ皇帝として認めていたわけではなく、カールを唯一のローマ皇帝として戴冠していた。「ローマ教会もまた唯一の帝国という理念を抱き、決して第二の帝...
    8 KB (810 words) - 08:36, 24 December 2023
  • 女帝として即位したのは武則天が唯一であった。 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では8世紀にエイレーネー女帝となったが、西ヨーロッパはこれに反発し、カール大帝を西ローマ皇帝とした。東ローマ帝国では以後もテオドラ、ゾエ、エウドキア・マクレンボリティサなど女帝が誕生する。...
    30 KB (3,120 words) - 17:24, 17 February 2024
  • バルセロナ包囲戦でカール大帝がイスラム勢力に勝利しバルセロナ伯を設置。 802年 ジャヤーヴァルマン2世(英語版)がカンボジアを統一し、アンコール朝が成立。 東ローマ帝国で女帝エイレーネーが政変で廃位され、皇帝ニケフォロス1世が即位。 坂上田村麻呂が胆沢城を築く。後に鎮守府を置く。蝦夷の大墓公阿弖流為ら降伏する。...
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  • フランク王(ドイツ王)のオットー1世大帝がイタリア王を兼ねた上で皇帝として戴冠したことで帝位は再興し、以後の実質ドイツ王である皇帝はフランク・ローマ皇帝の後継者であることを自認している。 797年に東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放してローマ皇帝史上初めての女帝...
    22 KB (2,557 words) - 10:13, 28 December 2023
  • - 池戸猫、ギタリスト、YouTuber(datto) 378年 - ウァレンス、ローマ皇帝(* 328年) 803年 - エイレーネー東ローマ皇帝(* 752年) 1048年 - ダマスス2世、第151代ローマ教皇 1107年(嘉承2年7月19日)- 堀河天皇、第73代天皇(* 1079年) 1189年(文治5年6月26日)-...
    51 KB (5,085 words) - 09:27, 12 May 2024
  • スタラ・ザゴラ (category ブルガリアのローマ都市)
    見つかっており、古代から鉱山都市であったと考えられている。 ローマ帝国の支配下では、町はローマ皇帝トラヤヌスの名をとって「アウグスタ・トラヤナ」(Augusta Trajana)と呼ばれた。 東ローマ帝国の時代には。町の名は女帝エイレーネーの名をとって「イリノポリス」(Irinopolis)と名づけ...
    8 KB (569 words) - 09:11, 26 July 2022
  • 紀元前6世紀前半ごろには詩人のサッポーとアルカイオスを出した。 博物学者のテオプラストス(紀元前372年頃 - 紀元前288年頃)も有名である。 中世では東ローマ帝国女帝エイレーネーがレスボス島に追放されてそこで死亡した。 現代では、1979年にノーベル文学賞を受賞した詩人のオデッセアス・エリティス(1911年 -...
    17 KB (1,454 words) - 13:06, 7 November 2023
  • 古代末期のキリスト教 (category 東ローマ帝国)
    ローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」として戴冠され、ヨーロッパ世界の誕生を象徴する事件となった。カールはローマ帝国皇帝の称号を得るために、ビザンツ皇帝の説得にあたったが、ビザンツはカールに「フランク人の皇帝」と名乗ることは許したが、ビザンツと対等とは認めなかった。当時は女帝エイレーネー(在位:797年...
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  • 知らぬことであるとしてイコン擁護にまわった(例:克肖者表信者ヴァシリオス)。 レオン4世およびコンスタンティノス6世の摂政となり、後に女帝となったイリナ(エイレーネー)は、イコン賛成論者だった。787年の第七全地公会は彼女の働きによって召集された。この全地公会議において、754年の「頭なしの会議」の...
    50 KB (7,076 words) - 15:42, 11 July 2023
  • アッバース朝の小アジア侵攻 (782年) (category エイレーネー (東ローマ女帝))
    申し入れたハールーンに対してビザンツ帝国の摂政のエイレーネーが派遣したスタウラキオス(英語版)を初めとする高官たちの使節団を拘束した。このため、エイレーネーは莫大な貢納金の支払いと引き換えに3年間の講和条約の締結を認めざるを得なかった。 エイレーネーはその後バルカン半島の支配力の強化に注力したが、...
    32 KB (4,367 words) - 03:25, 14 November 2023
  • 東ローマ帝国の暗黒時代に建設された数少ない教会堂のひとつで、ギリシャでは、この時代に建設されたもので唯一残る建築物である。 アギア・ソフィアがどのように建設されたかは明確ではない。しかし、内陣にあるモザイクの碑文から、この教会堂は、女帝エイレーネー...
    5 KB (686 words) - 03:21, 3 October 2021
  • ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (category 東ローマ帝国のイコノクラスム)
    815年)。正教会とカトリック教会で聖人。 エイレーネー女帝の宮廷で高位聖職者となる。修道士となってからは敬虔さで知られた。806年にコンスタンディヌーポリ総主教に着座し、聖像破壊運動の再燃を前にイコンを強力に擁護するが、イコン破壊論者のレオーン5世が東ローマ帝国皇帝に即位(813年)して間もなく、そ...
    2 KB (154 words) - 15:06, 4 September 2022
  • ジョヴァンナ1世 1343-1382年 ジョヴァンナ2世 1414-1435年 パルマ公国 マリア・テレーザ 1740-1748年 マリア・ルイーザ 1814-1847年 東ローマ帝国 エイレーネー 797−802年 ゾエ 1028−1042年、1042年、1042−1050年 テオドラ 1042年譲位、1055−1056年...
    14 KB (1,241 words) - 05:44, 13 May 2024
  • マリア・バグラティオニ (category 東ローマ帝国の女性)
    当時アレクシオスには9歳年下の、まだ12歳の妻エイレーネー・ドゥーカイナがいた。やがて反乱は成功し、ニケフォロスは修道院へ押し込められ、1081年にアレクシオスが即位した。しかし、彼はエイレーネーと離婚し、前皇后マリアと結婚するつもりであったため、皇后となったエイレーネーの戴冠を延期させた。しかしエイレーネー...
    5 KB (642 words) - 02:13, 14 September 2019
  • アヤソフィア (category 東ローマ帝国)
    (英語版)に全てのイコンを除く命令を下した。これによって全ての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれた。イコノクラスムはレオーン4世の皇后エイレーネー(後に女帝)が主導した787年の第2ニカイア公会議でいったん終息したが、829年に即位した皇帝テオフィロスはイスラム美術の影響を強く受け、生物の表現一切を禁じた。...
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  • ヴェルフ家出身のハインリヒ獅子公の孫で神聖ローマ皇帝オットー4世の甥であるオットーは伯父の遺領を継承してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世と称した。これに因んでニーダーザクセンのヴェルフ家一門はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家と呼ばれるように至った。...
    36 KB (1,568 words) - 01:56, 30 September 2023