セクストゥス・ポンペイウス(ラテン語: Sextus Pompeius, 紀元前67年 - 紀元前35年)は、共和政ローマ末期の軍人・政治家。第一回三頭政治の一角であったグナエウス・ポンペイウスと3番目の妻ムキアの次男。グナエウス・ポンペイウス・ミノル(小ポンペイウス...
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ポンペイウスも父の配下として働いた。 父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。 紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウス...
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ウスとクレオパトラの軍は約230隻の大型の軍艦を投入した。対してオクタウィアヌス軍の実質的な指揮官であるアグリッパは、大きさは劣るものの機動力で勝る軍艦約400隻を投入した。アグリッパはローマ人には珍しく海戦を得意とした将軍であり、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウス軍に圧勝した実績もあった。...
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ウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、永久独裁官(英語版)(ディクタトル・ペルペトゥ...
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トゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという。キケロは幼い頃から負けず嫌いで、文筆活動や哲学は余興に過ぎず、政治に関わることこそが美徳であり、政治家として名を揚げることこそが本望であった。 17才となったキケロは、紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・スト...
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ポンペイウス(・マグヌス)・ミノル((Gnaeus) Pompeius (Magnus) minor)とも称される。母は父の3番目の妻・ムキアで、セクストゥス・ポンペイウスの兄。 紀元前49年、父がガイウス・ユリウス・カエサルとの内戦に突入すると、小ポンペイウス...
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ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年) (category グナエウス・ポンペイウス・マグヌス)
ウスらは殺害された。さらにカエサル軍はウティカを攻撃しウティカに籠城していたカトは支えきれずに自殺、ユバも逃亡を図ったがペトレイウスと共に自殺してヌミディア王国は断絶した。 ポンペイウスの長男グナエウス・ポンペイウスと次男セクストゥス・ポンペイウス、そしてティトゥス...
19 KB (2,192 words) - 13:12, 10 January 2024
チャパ・デ・コルソの石碑2号に刻まれる。 東匈奴の呼韓邪単于が西匈奴の郅支単于を倒し匈奴を再統一する。 ナウロクス沖の海戦でオクタウィアヌス派がセクストゥス・ポンペイウスに勝利、レピドゥスが失脚。 紀元前33年 - 匈奴の呼韓邪単于が再び前漢に入朝し、王昭君が呼韓邪単于に嫁ぐ。...
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父はブルトゥスが生まれた時、ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが率いる閥族派と民衆派の内乱に巻き込まれていた。マリウス死後、マルクス・アエミリウス・レピドゥスによる蜂起に加わった父はグナエウス・ポンペイウスによって殺害されたとされる。未亡人となった母セルウィリアは、マリウス...
25 KB (2,806 words) - 18:55, 22 October 2023
クィントゥス・マルキウス・クリスプス 紀元前35年 セクストゥス・ポンペイウス, ルキウス・コルニフィキウス suff. プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ, ティトゥス・ペドゥカエウス 紀元前34年 マルクス・アントニウス II, ルキウス・スクリボニウス・リボ suff. ルキウス・センプロニウス・アトゥラティヌス...
97 KB (5,393 words) - 14:39, 23 March 2024
紀元前36年、シチリア沖のナウロクス沖の海戦でオクタウィアヌスがセクストゥス・ポンペイウスを破ると、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗した。汚職と反乱の疑いをかけられ、終身職である最高神祇官を除く役職を全て剥奪され、ローマから離れた田舎で死ぬまで隠棲、紀元前13年に亡くなった。最高神祇官の職はアウグストゥス...
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トゥス・カッシウス・ロンギヌス(英語版)と共に護民官の職権である拒否権を発動して反カエサル派に抵抗した。その中でアントニウスはポンペイウスを痛烈に批判し、反カエサル派の敵意を高める事となった。 やがて、アントニウスとカッシウス...
45 KB (4,962 words) - 23:44, 2 May 2024
1月1日よりユリウス暦施行。 執政官はガイウス・ユリウス・カエサル単独であった。 ローマ内戦 3月17日 - ムンダの戦いでティトゥス・ラビエヌスとグナエウス・ポンペイウス・ミノルを破り、内戦は終結した。ラビエヌスは戦場で死亡し、ポンペイウスは処刑されたが、セクストゥス・ポンペイウスは大西洋岸まで逃亡した。...
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ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。...
27 KB (3,692 words) - 14:43, 31 July 2024
ローマ内戦で、元老院派(ポンペイウス派)が押さえていたシチリアを、カエサル派が奪取。 44BC 〜 36BC シケリア戦争。(オクタウィアヌス派とセクストゥス・ポンペイウス率いるポンペイウス派の争い) 36BC ナウロクス沖の海戦 。シチリアを拠点にイタリア半島南部を封鎖したセクストゥス・ポンペイウス率いるポンペイウス...
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ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus、23年 - 79年8月または10月25日頃(推定))は、古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。一般には大プリニウス(羅:Plinius Maior)と呼ばれる。...
10 KB (1,512 words) - 19:11, 9 September 2024
クス沖の海戦ではオクタウィアヌスの海軍を指揮しセクストゥス・ポンペイウス軍に勝利する。紀元前31年のアクティウムの海戦ではマルクス・アントニウス派およびプトレマイオス朝連合軍を破り、勝利へ導いた。 帝政樹立が進められる中、アグリッパはアウグストゥス...
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Caesaris, 紀元前39年 - 紀元14年)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスとその2番目の妻スクリボニア(英語版)(セクストゥス・ポンペイウスの親族)との娘で、アウグストゥスの唯一の実子である。 ユリアの名はユリウス氏族の娘や皇帝一族の娘に共通の名前であるため、娘の小ユリアと区別して、大ユリア(Julia...
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シチリア (section シチリアの晩祷と王国分裂、スペイン支配)
イウス・ユリウス・カエサル派が奪取した。ポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスは、父が殺害され、内戦で元老院派が敗北した後も反カエサルを貫き、第二回三頭政治にも反対してシチリア島を本拠にイタリア半島を海上封鎖した。これにより、ローマとセクストゥス...
52 KB (5,939 words) - 02:02, 13 February 2024
セクストゥス・ポンペイウス(ラテン語: Sextus Pompeius、生没年不明)は紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前35年に執政官(コンスル)を務めた。 プレブス(平民)であるポンペイウス氏族の出身。氏族が高位政務官に就任するようになったのは紀元前2世紀になってからで、氏族最...
5 KB (442 words) - 13:05, 23 July 2022
ユダヤ暦 : 3725年 - 3726年 9月3日 - ナウロクス沖の海戦でマルクス・ウィプサニウス・アグリッパに率いられたアウグストゥスの艦隊は、セクストゥス・ポンペイウスとマルクス・アエミリウス・レピドゥスの軍を破った。 マルクス・アントニウスがパルティアに大規模な攻撃をしかけたが、泥沼化し、エジプ...
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ポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残した。 カエサルは紀元前45年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺された。この後、カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥス...
21 KB (2,670 words) - 12:26, 16 June 2024
シチリア、サルデーニャ、コルシカ島とペロポネソス半島を支配していたセクストゥス・ポンペイウスは、第二回三頭政治側とミセヌム条約を結んだ。この条約によって、ローマの穀物の収穫が安定した。 大アントニア、マルクス・アントニウスの娘(+ 25年) ユリア、アウグストゥスの娘(+ 14年) クィントゥス・ラビエヌス、ローマの軍人...
2 KB (412 words) - 00:34, 6 March 2024
ウス・カルボ、マリウスの子小マリウスがこれを迎え撃ったが、グナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッスス、ルキウス・セルギウス・カティリナ、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスらがスッラに合流してこれを破り、翌紀元前82年に再びローマに入ったスッラはマリウス...
57 KB (7,747 words) - 05:17, 24 August 2024
ムンダの戦い (category ガイウス・ユリウス・カエサル)
また、タプススの戦いでカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウス、プブリウス・アッティウス・ウァルス及びガリア戦争でカエサルの腹心であったティトゥス・ラビエヌスも合流した。元老院派は3つのローマ軍団(2つは従来からあるベテラン中心の軍、...
11 KB (1,540 words) - 18:54, 22 October 2023
この年の12月10日、サトゥルニヌスらは結局殺害され、次の年の護民官、クィントゥス・ポンペイウス・ルフスらが、メテッルス・ヌミディクスを呼び戻す法案を提出したが、マリウス派の護民官が反対している。 そして翌紀元前99年、元老院はローマの公敵としてアップレイウス...
117 KB (15,824 words) - 03:43, 1 August 2024
ポンペイウスと3番目の妻ムキアの娘ポンペイアがコンモドゥスから数えて9代前で、ポンペイウスが10代前にあたるという。つまり、コンモドゥスの父母はポンペイウスの雲孫(玄孫の玄孫)、コンモドゥスはポンペイウスの雲孫の子ということになる。 165年、存命だった父アウレリウス...
62 KB (8,416 words) - 20:17, 9 September 2024
ナウロクス沖の海戦(ナウロクスおきのかいせん、英: Battle of Naulochus)は、紀元前36年9月3日に反カエサルを貫いたセクストゥス・ポンペイウスと、カエサル派であったオクタウィウスとアグリッパを主力とする共和政ローマとの海戦。シチリア島ナウロクス沖で戦われたため、この名がある。...
4 KB (399 words) - 19:03, 22 October 2023
アクティウムの海戦 (category マルクス・アントニウス)
クス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海のアクティウム沖(現在のギリシャ共和国プレヴェザ)だったことに因む。 グナエウス・ポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスが処刑され、第二回三頭政治の立役者の1人で、最高神祇官でもあったマルクス・アエミリウス...
6 KB (611 words) - 20:11, 11 August 2023
ポンペイウス・ストラボはストラボ、三頭政治で有名なポンペイウスはポンペイウスと表記する。コグノーメンのストラボは「斜視」の意である。 ポンペイウス氏族は、紀元前141年に初めて執政官クィントゥス・ポンペイウスを出している。ストラボはセクストゥスとルキリアの子である。 紀元前104年頃、クァエスト...
19 KB (2,288 words) - 14:36, 18 November 2022
- 3727年 イリュリアがローマ帝国の州になった。 シサクを征服したアウグストゥスがパンノニアを攻撃したが、パンノニアは征服されなかった。 セクストゥス・ポンペイウス、共和政ローマ末期の軍人(* 紀元前67年) アリストブロス3世、聖職者(* 紀元前53年) 注釈 出典 [脚注の使い方]...
2 KB (419 words) - 01:38, 26 January 2022