モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは9度行われ、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の...
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1318年)以降の高麗世子は禿魯花(ダルガチ:daruγa-či、turqaq)としてモンゴルの宮廷で育てられ、モンゴル女性の婿となって、高麗王就任以前はモンゴルのカアンの宮廷に長らく滞在してカアンの側近に仕えるなど、モンゴルの宮廷で生活しほとんどモンゴル貴族となり、父の死後、高麗王に任命されるのが慣例となる。...
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タタール 元寇 白藤江の戦い (1288年) モンゴルの侵攻と征服(英語版) モンゴル帝国の分裂(英語版) ウィキメディア・コモンズには、モンゴル帝国に関連するカテゴリがあります。 ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。 モンゴル帝国 モンゴル帝国 Genghis Khan and the Mongols...
119 KB (16,009 words) - 11:54, 14 May 2024
の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている。 韓洪九は、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)、モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)、日本(文禄・慶長の役)、満州(丁卯胡乱)からの...
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モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太アイヌへの攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の...
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西京の洪福源などが反乱を起こす。 12月 西京の反乱が鎮圧される。洪福源はモンゴルに逃げる。 1235年 モンゴルの第3次侵攻。 1239年 モンゴル軍、王族の入朝を条件に高麗の講和要請を受けて撤退。その後も高麗が約束を守らなかったため、侵攻が再開される。 1247年 モンゴルの第4次侵攻。 1249年 11月 崔瑀、死去。崔沆が政権を承継する。...
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遼 (category モンゴルの歴史)
-』刀水書房〈刀水歴史全書59〉、2018年10月。ISBN 978-4-88708-446-9。 『遼史』 南遼 北遼 東遼 西遼 燕雲十六州 契丹 契丹の高麗侵攻 契丹文字 契丹国志 高麗 五代十国時代 西夏 澶淵の盟 テュルク諸語 東丹国 北宋 モンゴル諸語 耶律氏 遊牧民 全モンゴリア(英語版)...
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太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが、1259年に父の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して江都で即位した(詳細はモンゴルの高麗侵攻を参照)。その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る。...
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1230年代 (category すべてのスタブ記事)
1月18日(文暦元年12月28日) : 日本の九州にて、霧島山御鉢が大噴火を起こす。 朝鮮にて、モンゴルの高麗侵攻のさなか、高麗八万大蔵経の板木(初雕本)が焼失する。 モンゴルのルーシ侵攻が始まる。 ルーシにて、ウラジーミル大公国・リャザン公国がモンゴル帝国軍の攻撃を受け、諸都市が陥落する。 タイで、スコータイ王朝が成立。...
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20世紀後半まで正式な国交を結ぶことはなかった。 モンゴル帝国(元朝)は高麗(現在の朝鮮半島)制圧後、皇帝クビライ(元の世祖)の意向もあり日本列島への侵攻を計画した。 フビライは1268年に複数の使節団を日本に送り込み、日本の「王」に対してモンゴル帝国に臣従することを求めた。この使節団が無視もしく...
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『元史』 『元高麗紀事』 『高麗史』 『高麗史節要』 『東国通鑑』 旗田巍『元寇 --蒙古帝国の内部事情』(中央公論社、1965年9月) 山口修「蒙古と高麗<1231>--蒙古の第1次高麗侵攻」(『聖心女子大学論叢』40、1972年12月) 杉山正明『モンゴル帝国の興亡 下』(講談社現代新書、1996年 ISBN...
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元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。 なお、弘安の...
464 KB (81,269 words) - 13:40, 19 April 2024
の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている。 韓洪九は、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)、モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)、日本(文禄・慶長の役)、満州(丁卯胡乱)からの...
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クビライ (category 元の皇帝)
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253年 - 1258年)の総指揮を取った。クビライは後方の...
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元朝時代には、朝鮮は代々大都のモンゴルの帝室から娘を娶って高麗王の皇后とするなど永くモンゴルの帝室の婿殿の立場であり、元朝は朝鮮王の子が新たに朝鮮王になると、モンゴルから妻を降嫁させ朝鮮をコントロールした。朝鮮はモンゴルの歓心を得ることに必死で、元寇も高麗・忠烈王が、義父の...
13 KB (1,884 words) - 13:37, 8 June 2022
江華島 (category すべてのスタブ記事)
13世紀前半、元が朝鮮半島に侵攻(モンゴルの高麗侵攻)。 1232年、高麗朝廷がモンゴルの侵攻に耐えかね、首都の開京を放棄し、江華島への遷都が行われた。江華の名称は江都に変わった。また、国難退散を願い、島内で高麗八万大蔵経の製作が行われた。 1270年、高麗は江都を放棄。開京に還都した。 1637年、清が朝鮮に侵攻(丙子の乱)。清軍により江華島が陥落。...
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元 (王朝) (category モンゴル帝国)
高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。忠宣王以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった。...
94 KB (15,794 words) - 06:20, 12 May 2024
の100年間を指す世紀。 13世紀は、チンギス・カンの興したモンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。...
120 KB (14,346 words) - 11:32, 25 February 2024
南宋 (category 中国の王朝)
に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。 宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス・カンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化し...
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忠烈王 (category 14世紀高麗の人物)
高麗王の系図と一覧 高麗王后 高麗王妃王后の一覧、出目 高麗年表高麗の年表 モンゴルの高麗侵攻 高麗史 16 (奎章閣 韓国ソウル大学韓国学研究院 高麗史) 高麗史、高麗列伝(国会図書館近代デジタルライブラリ) 元史 台湾 中山大学 歴史伝記 'クビライ牛年(1277-1289)聖旨(1)のパスパ文字' 吉池孝一...
22 KB (3,687 words) - 10:12, 15 June 2023
武臣政権 (category 高麗)
高麗へも圧力がかかるようになる。モンゴルからの国使が高麗領内で殺害された事件をきっかけに、1231年からカアンのオゴデイの命令で高麗侵攻が開始された。武臣政権の崔瑀は自ら兵を率いてモンゴル軍を迎撃したが、モンゴルは一気に首都開城を陥落させたため、高麗は貢物・奴隷を差し出し、モンゴルの...
28 KB (4,690 words) - 15:05, 8 April 2024
タタールのくびき(タタールの軛)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、ロシア語: Монголо-татарское иго、タタール語: Татар-монгол игосы、英語: Mongol-Tatar Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻...
76 KB (11,421 words) - 10:47, 1 January 2024
高麗国外の高麗人」を高麗国王は大都まで向かうサウリ(ジャムチ/駅伝の一種)として大元ウルスの承認の下微発していた。国外の高麗人を公的に徴発するというのは奇異にも思えるが、これも「高麗国外の高麗人」を「高麗王家の投下」として徴発していたと捉えれば、他のモンゴル諸王の投下領の...
155 KB (22,479 words) - 23:24, 23 December 2023
北元 (section 後史(北元の滅亡後のモンゴル))
モンゴル自身はモンゴルを自称とし続けたにもかかわらず、これ以降のモンゴルのことを「韃靼」(だったん:本来はモンゴル高原の一遊牧部族タタル部のこと)と呼んだ。 明の歴史を記した『明史』でも、この時代のモンゴルの歴史は「韃靼伝」に記されている。明の滅亡後、韃靼の呼称は用いられなくなり、清ではモンゴルの...
24 KB (3,464 words) - 04:48, 14 May 2024
崔忠献によるクーデター。崔氏政権の始まり。 1232年 モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。 1259年 高麗の太子(のちの元宗王)がクビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。 1260年 忠烈王は、カアンに即位したクビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の...
70 KB (10,297 words) - 16:44, 1 May 2024
女真 (category 出典を必要とする記述のある記事/2014年1月)
1618年 ヌルハチが明に侵攻し、撫順城を攻略。 1619年 サルフの戦い。ヌルハチが明・朝鮮連合軍を撃破。 1626年 ホンタイジ即位。 1634年 後金軍、モンゴルの一大拠点フフホトを占領。 1635年 ドルゴンがモンゴル帝国最後の君主エジェイ・ハーンを降伏させる。エジェイが大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジに献上。...
41 KB (6,136 words) - 20:43, 17 December 2023
モンゴル・南宋戦争(モンゴル・なんそうせんそう)は、13世紀にモンゴル帝国と南宋との間で行われた戦争。1235年から1279年まで断続的に行われたが、時期によって第1次(オゴデイ治下のクチュの南征、1235年 - 1241年)、第2次(モンケ治下のクビライの南征、1253年 - 1259年)、第3次(南宋滅亡1268年...
10 KB (1,623 words) - 21:15, 22 July 2023
洪福源 (category 13世紀高麗の人物)
1258年)は、高麗の軍人。高麗北部の国境を守る軍人だったが、モンゴルの侵攻を受けると、1233年に高麗に背いて即座に降伏した。その後、モンゴルへ逃亡し、モンゴルの高麗侵攻の案内役を果たした。『元史』によると、先祖は唐から高麗に派遣された8人の才子の一人であり、生粋の高麗人ではなかった。韓国ではモンゴルに迎合した「売国奴」として指弾されている。...
2 KB (273 words) - 02:44, 25 April 2023
東アジア (category 出典を必要とする節のある記事/2020年5月)
Asia)は、アジアの東部にあたる国々を指す地域区分である。東亜などとも呼ばれる。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、日本列島などを含む。 東アジアは太平洋に接するユーラシア大陸東岸に位置し、約1176万平方キロメートルの面積を占める地域である。 地理学的な区分として、北は天山山脈からモンゴル...
44 KB (4,567 words) - 13:52, 30 April 2024
李成桂 (category 14世紀高麗の人物)
の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の恭愍王を廃し、恭愍王の叔父である徳興君王譓を王位に就かせようとしたが、高麗...
52 KB (8,941 words) - 10:56, 26 December 2023
洪茶丘 (category 13世紀高麗の人物)
1291年)は、高麗人として元朝に仕えた軍人。名は俊奇、茶丘(čarγu、チャーグ)はモンゴル名で小字(幼名)。主君のクビライ・カアンから常に小字で呼ばれていた。洪福源の次男。唐城の出身。 父の洪福源は高麗北部の国境を守る軍人であったが、モンゴルの攻撃を受けて1231年(辛卯)に降伏したうえ、モンゴルの高麗侵攻...
4 KB (657 words) - 04:15, 23 December 2023