横田河原の戦い(よこたがわらのたたかい)は、治承・寿永の乱の中の戦いの一つ。信濃で挙兵した源義仲らの諸源氏に対して平氏方の越後の城助職が攻め込んで発生した戦い。 『吾妻鏡』にはこの戦いは、寿永元年(1182年)10月のこと、延慶本を除く『平家物語』では同年9月の...
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の乱における戦いの一つ。 治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。 『平家物語』には横田河原の勝利に呼応して「北陸道七ヶ国の兵共」ら北陸の...
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尾張国・美濃国の境、墨俣川(長良川)で平重衡率いる官軍が源行家軍と戦い、勝利する(墨俣川の戦い)。 5月10日(同3月25日) - 平重衡率いる官軍が京都へ戻る。 7月26日(同6月13日) - 信濃国の横田河原(千曲川)で城長茂率いる官軍が源義仲軍と戦い、敗れる(横田河原の戦い)。 8月25日(同7月14日)...
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源義仲 (category 平安時代の武士)
翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆(平賀氏等)・甲斐衆(上州衆との説もある)など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の...
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ウィキメディア・コモンズには、治承・寿永の乱に関連するメディアがあります。 寿永二年十月宣旨 養和の飢饉(1181年に発生。京都が大混乱に陥った。) 赤間神宮 平家の落人 全国平家会 須磨寺 治承・寿永の乱を題材とした作品 湊川の戦い 関ヶ原の戦い 大坂の陣 戊辰戦争 西南戦争 紅白 ヘイケガニ - 甲羅の...
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市原合戦 (category 治承・寿永の乱の戦闘)
の千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸に当たる横田城に布陣した。こうして横田河原の戦いへと続くこととなった。 ^ 中野市笠原が支配地域と考えられる ^ ただし、市原合戦当時の義仲は滋野氏の支援を受けて拠点を木曽郡から佐久郡・小県郡に移していたとする一志茂樹・菱沼一憲の...
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塩田平 (category すべてのスタブ記事)
塩田平(しおだだいら)は、長野県東信地方の上田盆地の千曲川左岸にある河岸段丘である。「信州の鎌倉」の異名を持つ。 平安時代に国衙領であった小県郡塩田郷が、建春門院に寄進され、承安4年(1174年)に最勝光院領塩田荘が成立した。治承・寿永の乱における横田河原の戦いでは荘官の塩田八郎高光が木曾義仲の...
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磐梯町 (category 1889年設置の日本の市町村)
000は、城助職と共に横田河原の戦いで木曾義仲と戦って敗れる。以後会津地方の支配権は蘆名氏など鎌倉系の武士団の手に移り、慧日寺は衰退していく。1589年(天正17年)には蘆名義広と伊達政宗が戦った摺上原の戦いの兵火を受け、堂塔伽藍のほとんどが焼失した。...
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川中島 (category 日本の地理関連のスタブ項目)
の前哨戦となった。これに対して平家方の城氏が大軍を率いて越後から進駐した。だが横田河原の戦い(長野市篠ノ井横田付近)で敗走し、これによって木曽勢は倶利伽羅峠での大勝の足がかりを得ることとなった。 鎌倉幕府崩壊後にも中先代の乱では北条氏の...
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滝口宗安 (category 鎌倉時代の武士)
の娘を妻とし、前野時綱らを産んだ。 城長茂とともに信濃国横田河原に攻め入り敗戦する(横田河原の戦い)と、宗安は忠度の本陣がある越中国まで退く。そこで源義仲らを迎え撃とうとするが、義仲の策によって大敗し(倶利伽羅峠の戦い)、その後は京都に戻って再起を図ったという。源氏の...
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城長茂 (category 治承・寿永の乱の人物)
同年6月、惣領家の平清盛の命を受けて信濃に出兵した。長茂は同族の平家から絶大な期待を寄せられていたが、長茂は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、1万の大軍を率いていながら3,000ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後、長茂は奥州会津(「藍津之城」=陣が峰城)へ入るが奥州藤原氏の...
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今井兼平 (category 日本の歴史関連のスタブ項目)
横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の...
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一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。 寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いおよび篠原の戦いで源義仲に敗れた平家は兵力の...
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鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の...
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保科氏 (category 日本の氏族)
の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。 正直の子正光は小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ、大名に列した。関ヶ原の戦いの後には旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。さらに大坂の陣での戦功により3万石に加増される。...
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甲斐源氏 (category 日本の歴史関連のスタブ項目)
の政変における後白河院の幽閉が影響があったと考えられている。治承4年(1180年)8月には安田義定が波志田山で石橋山の戦いに勝利した大庭景親と戦い、9月には武田信義らが信濃諏訪郡に攻め込んで影響下に置いた(信濃で競合する木曾義仲は、西上野に進出した後、横田河原の戦い...
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新庄の戦い(しんじょう 越中国、富山県富山市) 1521年 : 行人台の戦い(ぎょうにんだい 下総国) 1521年 : 飯田河原の戦い(いいだがわら 甲斐国) 1521年 : 上条河原の戦い(かみじょうがわら 甲斐国) 1523年 : 寧波の乱(にんぽー 明 - 寧波) 1523年 : 鏡山城の戦い(かがみやまじょう 安芸国)...
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楯親忠 (category 平安時代の武士)
ちかただ)は、平安時代末期の武将。木曾義仲の家臣で、義仲四天王の一人。根井行親の六男。 義仲に従って横田河原の戦いや倶利伽羅峠の戦いなどに参戦し、活躍する。元暦元年(1184年)、宇治川の戦いに父・行親と共に参戦し、六条河原で討ち取られたとされている。 義仲の敗死後に行親の...
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城氏 (平氏) (category 日本の氏族)
養和元年(1181年)、時の当主である城資永(助長)は平家より信濃国で挙兵した源義仲の追討を命じられたがその直後に急死し、後を継いだ弟の資職(助職)が義仲と横田河原の戦いにおいて対戦するが奇襲戦法に敗れた。その後、資職は平家によって越後守に任じられたが、城氏の...
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横田城(よこたじょう)は、長野県長野市横田にあった日本の城。 築城時期は平安時代末と伝えられる。 養和元年(1181年)に木曾義仲の旗揚げを鎮圧するため越後から圧倒的な大軍を率いて城氏が入城したとされている。しかし寡兵の木曾側の奇策によって敗走したとされている。ここ横田河原の戦い...
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養和の北陸出兵(ようわのほくりくしゅっぺい)とは、養和元年(1181年)7月頃から活発化した北陸反乱勢力に対する平家の追討活動のことである(養和元年11月まで)。 治承5年(1181年)6月の横田河原の戦いにおいて源義仲が平家方の越後の雄城資職を打ち破ると、その直後から加賀・能登・若狭の...
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生仁城 (category 日本の歴史関連のスタブ項目)
ら要衝雨宮の渡しを制する重要な城砦であった証左であろう。 登山路の整備は十分でないが土塁や堀切、曲輪跡等の遺構がある。麓にあったとされる生仁館や雨宮館と一体をなしての城郭と考えられている。 横田河原の戦い 大塔合戦 川中島の戦い 川中島 雨宮の渡し 日本の城一覧 屋代城 塩崎城 塩崎新城 表示 編集...
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源親義 (category 日本の歴史関連のスタブ項目)
治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。 その一方、『寛政重脩諸家譜』774頁に記されているおなじ義光流で甥の...
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海野幸親 (category 平安時代の武士)
兄の幸通の跡を継いで海野氏の当主となり、保元2年(1157年)の保元の乱では、300騎を率いて源義朝の下に参じた。寿永2年(1181年)の木曾義仲の挙兵に呼応して、横田河原の戦いに参戦している。そのまま義仲に従って上洛し、寿永2年(1183年)の備中水島の戦いで嫡男の幸広が平教経と戦って戦死している。同年の...
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井上氏 (category 日本の氏族)
源平の戦いとして知られる治承・寿永の乱では同族とされる村山七郎義直が、村上氏の支族とされる栗田氏と共に市原合戦で笠原氏を相手に戦ったのをはじめ、北信濃の源氏方として平家方と戦いを繰り広げ、平家物語では保科党を率いる井上光盛が横田河原の戦いで源義仲方として参陣して活躍し、信濃源氏の代表格として扱われている。その後は源頼朝に従った...
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平賀義信 (category 治承・寿永の乱の人物)
義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。 信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦い...
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河原の戦いで再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みた。 義仲が近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、残ったのは義仲・今井兼平・巴御前・手塚光盛・手塚別当の...
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稲荷山宿 (category すべてのスタブ記事)
の民俗資料等を常時展示している。 ふる里漫画館 :地元出身で、政治漫画・似顔絵で知られる近藤日出造の作品を展示。建物は土蔵風となっている。 舟繋石・鞍掛石 :横田河原の戦いに臨む直前に立ち寄った木曾義仲に因む史跡。 二十三夜塔 :治田神社の大鳥居付近にある月待ち行事「二十三夜講」の石碑。月待塔を参照。...
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大塔合戦 (category 室町時代の戦い)
の守護を兼帯した関東管領上杉朝房の攻撃に対して、これを栗田氏が迎え撃って合戦に及ぶ事件、等(漆田原の合戦)なども続いた。 南北朝合一の後、永らく北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏が念願の信濃守護に再び補任されるのは応永6年(1399年)のことであった。...
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恵日寺 (福島県磐梯町) (category 耶麻郡の画像提供依頼)
横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。 その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦い...
11 KB (1,714 words) - 18:20, 22 December 2022
信濃国 (category 地理座標系の一覧)
原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の...
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