アトレティコ・マドリード

アトレティコ・マドリードスペイン語: Club Atlético de Madrid, S.A.D.スペイン語発音: [ˈkluβ aðˈletiko ðe maˈðɾið])は、スペインマドリードを本拠地とし、スペインプロリーグ機構(ラ・リーガ)に所属するプロサッカークラブである[1]。2024年3月1日現在のUEFAランキングは第13位。

アトレティコ・マドリード
原語表記 Club Atlético de Madrid, S.A.D.
呼称 ATM
愛称 Atlético(アトレティコ)
Colchoneros(マットレス)
Rojiblancos(赤と白)
Indios(インディアン)
創設年 1903年
所属リーグ ラ・リーガ
所属ディビジョン 1部(2022-23
ホームタウン マドリード州の旗 マドリード州マドリード
ホームスタジアム
エスタディオ・メトロポリターノ
収容人数 67,829
運営法人 スペインの旗ミゲル・アンヘル・ヒル・マリン(51%)
イスラエルの旗イダン・オフェル(30%)
スペインの旗 エンリケ・セレソ(19%)
代表者 スペインの旗 エンリケ・セレソ
監督 アルゼンチンの旗 ディエゴ・シメオネ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

これまでに、プリメーラ・ディビシオン優勝11回、コパ・デル・レイ(国王杯)優勝10回、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝1回、コパ・エバ・ドゥアルテ優勝3回を果たし、欧州ではUEFAカップウィナーズカップ優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグ準優勝3回[2]UEFAヨーロッパリーグ優勝3回、UEFAスーパーカップ優勝3回を果たしている。


概要[編集]

ホームユニフォームは赤色と白色の縦縞のシャツに青色のショートパンツ、青色と赤色のソックスである。この組合せは1911年から使用されている。2021-22シーズンのユニフォームサプライヤーはナイキ、ユニフォームスポンサーは、リヤド航空Ria Money Transfer英語版(国際送金業者)[3]現代自動車である。

FCバルセロナに次いで、スペインで2番目、世界では8番目にサポーターが多いクラブである[4]。またマドリード市内でも市内北部の富裕層にファン層の多いレアル・マドリードに対し、比較的南部の庶民層に熱狂的ファン層を持つ[5][6]

2003年から、スペイン国王のフェリペ6世が名誉会長を務めている。また、ソシオの数の面では最も規模の大きなクラブの一つであり、6万5千人を越えるシーズンチケット保持者がいる。また、2部降格時にソシオの数が急激に増加したことでも知られており、降格前は2万4000人だったのに対し、降格後はソシオ申し込みが相次ぎ、4万2000人にまで急増した[7]。これは2部に落ちてもクラブを見捨てないというサポーターのクラブ愛のあらわれである[7]。スタジアムの観客数から見ても、2部での試合にも関わらず、FCバルセロナレアル・マドリードに次ぐシーズン平均観客数だった[7]。2017年3月23日にアトレティコのソシオ数が10万人に達し、スペインで2番目、世界で8番目にソシオ数が多いクラブになった[8]。また、2021-22シーズン開幕前には、スタジアムのシーズンチケットを所有するサポーター数が5,7048人達し、クラブ史上最高数を記録した[9]。一方でフレンテ・アトレティコと呼ばれるウルトラスはクラブにとって長年の課題となっている。

デロイト・トウシュ・トーマツ』によると、2018-19シーズンのクラブ収入は3億6760万ユーロ(約450億円)、欧州第13位、スペインではバルセロナレアル・マドリードに次いで第3位である[10]

これまでの歴史の中、クラブはLos Colchoneros(マットレス、もしくはマットレス屋の意。ホームユニフォームで採用されている赤と白の縦縞がスペインの古風なマットレスと同じ色調であるため。)などの多くの愛称で知られてきた。1970年代は、Los Indios(インディアン)として知られるようになった。これはおそらく外国人選手との契約制限が取り除かれた後に複数の南米選手と契約したことによる。しかしながら、その他にも、スタジアムが河岸にあったため、あるいはLos Indios(インディアン)がLos Blancos(白人の意。アトレティコのライバルであるレアル・マドリードの愛称でもある)の伝統的な敵であったため[11]、など多くの他説もある。

獲得トロフィー

2017-18シーズンからエスタディオ・メトロポリターノを本拠地としている。

2022年、クラブ史上最高額となる年間4200万ユーロ(約57億4600万円)、5年総額2億1000万ユーロ(約287億円)の胸スポンサー契約をWhaleFin(仮想通貨取引を行う企業)と結んだ。

歴史[編集]

創設期[編集]

初代会長のエンリケ・アジェンデ

1903年4月25日から26日にかけての夜、アトレティコ・マドリード(設立時の名称はアスレティック・クルブ・デ・マドリード)設立が決定された。創設に携わったのは、地元マドリードに住むアスレティック・ビルバオサポーターのバスク人学生である[12]。創設の決め手となったのは、先日に行われたレアル・マドリードアスレティック・ビルバオのカップ戦決勝を観戦したことである[12]。アトレティコ・マドリードの本部はマドリード市内の"ラ・クルス通り"の25番地に置かれ[13]、クラブ最初のユニフォームは、青と白のストライプを模したシャツに青一色のズボンとなった[14]。ゆえに、今現在もクラブのズボンカラーは青になることが多い[15]

1903年の創設以降、アスレティック・ビルバオの傘下チームという扱いだったが、1907年2月20日、アスレティック・ビルバオからの独立を果たし、同クラブの兄弟クラブとしてこれ以降公式戦への参加が増加していった[16]。しかし、アスレティック・ビルバオとの関係は絶たれず、両クラブ間での移籍が頻繁に行われた。一例を挙げると、1911年に全国選手権決勝でアスレティック・ビルバオの選手として得点したマヌエル・ガルニカ・セラーノスペイン語版である。彼はマドリード出身であり、1907年から10年間、アトレティコ・マドリードでプレーしていた。1912年になると、アスレティック・ビルバオが現在存在するものよりもさらに厳しいバスク純血主義を掲げたため、こういった動きは徐々に見られなくなった[17]

1911年のメンバー

1912年、元選手のフリアン・ルエテが新たな会長に就任した。就任の翌年に新設された中央地域連盟スペイン語版へ加盟すると1912-13シーズンの地域選手権でレアル・マドリードに1-2で敗れたものの準優勝を果たし[18]、同シーズン中にホームスタジアムをカンポ・デル・レティーロスペイン語版からカンポ・デ・オドンネルへ移した[19]。オドンネルの創設に携わった一人に国内の陸上競技に精通している人物がいたため、当時の首都スタジアムとしては最も進んだスタジアムであった。このオドンネルではマドリードにて初となる国際Aマッチスペイン代表ポルトガル代表が開催され、3-1でスペインが勝利した[20]。スタジアムを遷移して以降はサッカー以外のスポーツ部門の発足や強化にクラブ総出で取り組み、国内でテニスを広く認知させ、スペイン人初の国際テニス殿堂入りを果たしたテニス選手のマニュエル・アロンソマノーロ・ペレス・セオアネ英語版らを輩出した[21]

1910年代から20年代にかけての首都マドリードでは後のレアル・マドリードであるマドリードCFによる各クラブの選手の引き抜きやスモールクラブの吸収または合併を繰り返しており、アトレティコ・マドリードはこの動きによって消滅したクラブに所属していた選手やサポーターを迎え入れていた[22]。この両者の関係性がマドリードダービーの怨恨に繋がったという見方もある[23]

1917年、この年まで兄弟クラブであるアスレティック・ビルバオに敬意を表してクラブのエンブレムをビルバオのエンブレムに類似させていたが、ビルバオからの完全な独立の機運が高まったことでこの年に現在のエンブレムに近似しているものを使用するようになった。1924年10月4日、クラブの首脳陣全員が出席した定例会議にてアスレティック・ビルバオからの完全な独立を公表し、1903年の創設以降初めてアトレティコ・マドリードとして独り立ちした記念すべき日となった[24]

同じマドリードを本拠とするライバルのレアル・マドリードが主に富裕層の支持を受けるクラブであったのに対し、アトレティコは主に労働者階級の支持を受けて発展してきたクラブであり、サポーターは熱狂的なことで有名である。 1930年代後半から1940年代前半には軍隊のチームとなり、アトレティコ・アビアシオンという名称だった時期がある。10回の優勝のうち2回はこの時期に獲得したものである。現在、その名称はアトレティコの下部組織の名前として残っている。現在のクラブ名になったのは、1947年のことであった。この頃から、徐々に勢いを増していった。後にインテルにグランデ・インテルと称される黄金期をもたらすことになるアルゼンチン人エレニオ・エレーラが監督に就任してからは、ラルビ・ベンバレクヘンリー・カールションらを擁するチームは国内リーグを連覇した。エレーラが去った後も勢いを増し、1960年代にかけて黄金期を創り出した。しかし、同時期にアルフレッド・ディ・ステファノレアル・マドリードラディスラオ・クバラFCバルセロナという強大な敵が国内に存在したことから国内でのタイトルを積み上げられず、結果欧州レベルでの実績を挙げることが出来なかった。1959年にはUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)の準決勝まで駒を進めているが、立ちはだかったのは仇敵レアル・マドリードであった。結局、黄金期のアトレティコが得た国際タイトルは、1962年のUEFAカップウィナーズカップ優勝のみに留まった。

エスタディオ・ビセンテ・カルデロン

1966年、ホームスタジアムをエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリーノからエスタディオ・デル・マンサナレスに移転した。エスタディオ・デル・マンサナレスは、1972年にエスタディオ・ビセンテ・カルデロンに改称された。

リーガ3強時代から2部降格へ[編集]

1974年にはUEFAチャンピオンズカップで決勝戦に進出。バイエルン・ミュンヘンを相手に0-0のまま延長戦となり、114分のルイス・アラゴネスのゴールで先制すると、そのまま延長戦終了間際までリードを保っていた。しかし、シュヴァルツェンベックに30メートル以上のミドルシュートを決められ、同点に追いつかれた。結局2日後の再試合では敗れ、準優勝に終わった。しかし、その後出場を辞退したバイエルンに代わって出場したインターコンチネンタルカップでは、アルゼンチンのCAインデペンディエンテを下し、世界一の座に輝いた。なおスペインにおいて、インターコンチネンタルカップを獲得しているクラブは、レアル・マドリードとアトレティコだけである(大会名称が変わったFIFAクラブワールドカップFCバルセロナも獲得している)。

1987年に事業家のヘスス・ヒルが会長に就任。1995-96シーズンには、クラブ史上初めてリーガ・エスパニョーラコパ・デル・レイの二冠を達成、これはヒル会長の行った大型補強の成果といえる。更に、この前年プリメーラ・ディビシオンで得点王を獲得したサルバ・バジェスタが加入した。

1999-00シーズン、アトレティコは戦術家クラウディオ・ラニエリを監督に迎え、10月30日のマドリードダービーではオランダ人ストライカーのハッセルバインクの2ゴールで勝利するなど、明るい話題はいくつかあった[7]。しかし、12月22日、ビセンテ・カルデロンに治安警察の家宅捜索が入り、クラブはピッチ外の問題によって徐々に調子を崩していく。その後、降格圏まであと1ポイントというところでラニエリが解任され、クラブのレジェンドの1人であるアンティッチを再び呼び戻した[7]。それでも状況は好転せず、5月7日、勝てば残留可能でもあったアウェーでのレアル・オビエド戦に2-2と引き分け、セグンダ降格が確定した[7]。2-2の同点後、ハッセルバインクにはPKによる勝ち越し弾のチャンスがあったが、ハッセルバインクはこれを決め損ねた[7]。試合終了後、セグンダ降格という絶望によりスタジアムは静まり返った。また、このシーズンはコパ・デル・レイで決勝に進出していたが、エスパニョールに2-1で敗れタイトル獲得にはならなかった[7]

復活と停滞[編集]

2003年から会長を務めるエンリケ・セレソ

1年での1部復帰が叶わなかったが、ルイス・アラゴネスを招聘し、フェルナンド・トーレスの台頭などもあって、2002-03シーズンに1部復帰を果たした。

2003年にヘスス・ヒルが会長から退任したが、低迷を続けるアトレティコが上昇のきっかけをつかむことはできなかった。新会長エンリケ・セレソは、ヒル時代に蓄積された巨額の負債にも悩まされることとなった。

アトレティコ・マドリードのファン(2005年)

2005-06シーズン[編集]

不振が続く中、カルロス・ビアンチが監督に就任し、マルティン・ペトロフマキシ・ロドリゲスマテヤ・ケジュマンルシアーノ・ガジェッティらを獲得した。優勝候補の一角にも挙げられたが、予想に反しチームは低迷し、前半戦終了を待たずにビアンチは解任された。その後、下部組織からペペ・ムルシアが監督に就任。その後は14年ぶりの6連勝を果たすなど一時調子を上げたが、マキシ・ロドリゲスが代表招集中に怪我をしてから再び失速、最終的には10位でシーズンを終えた。

2006-07シーズン[編集]

メキシコ代表CAオサスナで実績を挙げたハビエル・アギーレを招聘。更に大型補強をし、再建を図った。しかしリーガ最終順位は7位に終わった。

2007年7月にはフェルナンド・トーレスをリヴァプールに放出した。迎えた2007-08シーズンは、不安定な戦いに終始しアギーレも批判を浴びたが、加入2年目のセルヒオ・アグエロが19ゴール、新加入のディエゴ・フォルランが16ゴールを記録し、新加入のシモン・サブローザラウール・ガルシア、下部組織出身のイグナシオ・カマーチョらも活躍した事で最終順位は4位で、1995-96シーズン以来12年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

4シーズン在籍し、リーグ得点王とヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得したディエゴ・フォルラン

2008-09シーズン[編集]

シーズン途中にアギーレが解任されるなど終始不安定ではあったが、終盤戦の6連勝で最終的に4位となり、2年連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。最終節のUDアルメリア戦はエスタディオ・ビセンテ・カルデロンでの1000試合目であり、記念の試合を3-0の快勝で飾った。

2009-10シーズン[編集]

序盤は大きく低迷し、2シーズン連続で出場したUEFAチャンピオンズリーグもグループリーグで敗退。前シーズン途中から監督に就いていたアベル・レシーノを解任しキケ・サンチェス・フローレスを招聘した。冬の移籍期間中に獲得したティアゴ・メンデスの活躍もあり、不振に陥っていたチームの建て直しに成功した。UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で終えていたため、UEFAヨーロッパリーグに決勝トーナメントより参戦した。決勝戦でフラムFCをフォルランの2ゴールで2-1と下し、UEFAヨーロッパリーグの初代チャンピオンとなった。また、リーグ戦の最終順位は9位だったが、スペイン国王杯では1999-2000シーズン以来10年ぶりに決勝に進出。セビージャFCに敗れ、準優勝に終わった。

2010-11シーズン[編集]

UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のインテルを2-0で下したが、UEFAヨーロッパリーグではグループリーグで敗退し、1月から2月前半にかけては8敗を喫した。シーズン終盤のセルヒオ・アグエロのゴールラッシュによって、UEFAヨーロッパリーグ出場圏内の7位にこそ位置したものの、キケはシーズンが終わる前に監督からの退任を宣言した。アグエロは移籍を表明した。なお3月の東日本大震災の際には、スペイン在住記者とGoal.comを通じて日本へ応援メッセージが届けられた[25]

2011-12シーズン[編集]

ヘスス・ガルシア・ピタルチに代わる新スポーツディレクターとしてホセ・ルイス・カミネロを招聘[26]。そして新指揮官には、2003-04シーズンにもチームを率いたグレゴリオ・マンサーノを呼び戻した[27]。移籍の意思を表明していたアグエロが推定4500万ユーロでマンチェスター・シティFC[28]ダビド・デ・ヘアは推定2100万ユーロでマンチェスター・ユナイテッドFC[29]、フォルランは500万ユーロでインテルへ[30]移籍した。その一方、UEFAヨーロッパリーグ得点王のラダメル・ファルカオアルダ・トゥラン、ローンでジエゴを獲得した。また、カンテラーノのガビレアル・サラゴサから呼び戻した。しかし、リーグ戦では苦戦を強いられ同年12月にマンサーノを監督から解任した。

シメオネ体制[編集]

2011年から監督を務めるディエゴ・シメオネ

後任の監督にディエゴ・シメオネが就任すると、持ち前の求心力を発揮し全選手に高い守備意識とハードワークを植え付け、守備徹底と無駄のない効率的な走りを重視し、中盤と最終ラインに強固なブロックを形成。攻撃では奪ったボールをジエゴ、アドリアン・ロペス、トゥラン、ファルカオを生かして最小限の力でゴールを決めるシンプルな戦い方へと舵を切った[31][32][33][34]。その結果チームは調子を取り戻し、マンサーノの時は5試合しかなかった無失点試合がシメオネの時は就任後の6試合を全て無失点で乗り切ったのも含めて10試合に倍増しリーグ戦は5位。決勝トーナメントはおろか、マンサーノが監督だったグループステージ第4節のウディネーゼ戦から9連勝。しかも全て2失点以内に抑えたのもあって2年ぶりにUEFAヨーロッパリーグを制覇した。

2012-13シーズン[編集]

UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のチェルシーを破り2度目のUEFAスーパーカップ制覇を達成した。リーガ・エスパニョーラでもシメオネの掲げる激しいプレスでボールを奪い、素早く攻撃に移るスタイルでジエゴ・コスタが2トップに定着したのに合わせて、当時21歳だったティボ・クルトゥワが、4連覇中だったFCバルセロナビクトル・バルデスからサモラ賞を奪えば、トゥランやコケが中盤の核に定着したのも相まって2強に次ぐ3位の好成績を収める。さらに、レアル・マドリードとのマドリードダービーとなったコパ・デル・レイ決勝では、延長戦の末14年ぶりとなるダービー勝利を果たし、17年ぶり10回目の国王杯優勝を達成した。

2013-14シーズン[編集]

ラ・リーガ優勝セレモニー

2013-14シーズンは、前年度チーム得点王のファルカオがASモナコに移籍したものの、ダビド・ビジャFCバルセロナから獲得した。新加入ビジャとジエゴ・コスタが2トップを形成し、リーグ序盤からバルセロナ、レアル・マドリードと熾烈な優勝争いを展開した。首位で迎えた最終節、敵地カンプ・ノウでの2位バルセロナとの直接対決で引き分け、18年ぶりにリーグ優勝を達成した。 UEFAチャンピオンズリーグでもFCポルトFCゼニト・サンクトペテルブルクに勝利し、グループリーグ首位通過を決めた。決勝トーナメントでも、ベスト16で2007年の王者・イタリアACミランを、準々決勝で同じスペインで2006、2009、2011年の王者バルセロナを、準決勝で2012年の王者イングランドチェルシーFCと歴代のチャンピオンズリーグ王者を次々に破って40年ぶりに決勝に進出。チャンピオンズリーグ史上初の同一都市に所在するクラブ同士の対戦となった決勝戦[35]ではレアル・マドリード相手に後半終了間際まで前半に挙げたディエゴ・ゴディンのゴールで1-0とリードしていたものの、バルセロナとの直接対決となったリーガエスパニョーラ最終節同様強行で先発出場したジエゴ・コスタが早い段階で交代を余儀なくされたツケが、後半ロスタイムにコーナーキックからセルヒオ・ラモスにゴールを奪われた形で回り延長戦に持ち込まれる。延長戦ではそのまま相手の勢いに呑まれて前半こそ無失点で凌いだものの後半5分にアンヘル・ディ・マリアにドリブルで切り裂かれると1億100万ユーロという当時の史上最高額で移籍したガレス・ベイルにこぼれ球を詰められて逆転。その8分後に交代で途中出場したマルセロにミドルシュートを決められ、延長後半終了間際にそれまで抑えていたクリスティアーノ・ロナウドにもPKを決められて3失点を喫し1-4で敗れ、準優勝に終わった。

2014-15シーズン

2014-15シーズン[編集]

夏の移籍市場では、前年シーズンのリーグ優勝とCL準優勝の立役者であったジエゴ・コスタとフィリペ・ルイスをチェルシーへ売却したほか、ビジャはニューヨーク・シティFCへ移籍し、クルトゥワはチェルシーからのレンタル移籍期間満了により退団した。これら昨季の主力選手の抜けた穴を補填する目的で、バイエルン・ミュンヘンからマリオ・マンジュキッチレアル・ソシエダからアントワーヌ・グリーズマントリノFCからアレッシオ・チェルチヘタフェCFよりミゲル・アンヘル・モジャSLベンフィカからヤン・オブラクグラナダCFからギリェルメ・シケイラを獲得した。昨シーズンリーガ王者として戦ったスーペル・コパでは、ライバルのレアル・マドリードを下して29年ぶり2度目の優勝を果たした。冬にはフェルナンド・トーレスがチェルチとの交換トレードでACミランからレンタル移籍し、2006-07シーズン以来7年半ぶりに復帰した。チャンピオンズリーグではラウンドオブ16でバイエル・レバークーゼンをPK戦で下したものの準々決勝で昨季に引き続きレアル・マドリードとのダービーが実現。1stレグは0-0で終えるも、2ndレグでは後半31分にトゥランが退場となった後にチチャリートのゴールが決まり、0-1で敗れてベスト8で敗退。ダービーでの対戦成績では8試合4勝3分け1敗(このシーズン、スペインの国内の3コンペティションでは4勝2分)と大きく勝ち越していたものの、チャンピオンズリーグ決勝でのリベンジは果たせなかった。

2015-16シーズン[編集]

開幕前にFCポルトからジャクソン・マルティネスビジャレアルCFからルシアーノ・ビエット、ASモナコからヤニック・カラスコを獲得し、チェルシーからフィリペ・ルイス、FCポルトにレンタルされていた下部組織出身のオリベル・トーレスが復帰した。リーグ戦では当初、新戦力が噛み合わず勝ち点を落とすこともあったが、ジャクソンに見切りを付けて冬に広州恒大へ売却する一方で、フェルナンド・トーレスの復活やアントワーヌ・グリーズマン、サウール・ニゲス、冬にセルタ・デ・ビーゴから加入したアウグスト・フェルナンデスらの活躍によりFCバルセロナとレアル・マドリードと優勝争いを展開するも最終的に昨年と同じ3位に入り、リーグ戦38試合全てにフル出場して18失点とゴールに鍵をかけ続けたオブラクがサモラ賞を受賞している。チャンピオンズリーグでは2年ぶりに決勝に進出。決勝では2年前と同じくレアル・マドリードとのマドリードダービーとなり、持ち前の4-4-2でブロックを作った守備を発揮したが、前半に先制を許す。後半に途中出場のカラスコのゴールで追いついたが、延長戦を戦い抜いて1-1のままスコアは動かず、PK戦の末3-5で敗れ、再びレアル・マドリードの前に涙を飲んだ。

2016-17シーズン[編集]

夏の移籍市場では、セビージャFCからケヴィン・ガメイロSLベンフィカからニコラス・ガイタンらを獲得したほか、フェルナンド・トーレスの保有権を買い取った。リーグ戦ではレアル・マドリードとバルセロナと上位争いをしたが3位でフィニッシュ。チャンピオンズリーグでは準決勝まで勝ち進み、決勝トーナメントでは4年連続となるレアル・マドリードと対戦との対戦となったが、2戦合計2-4で敗れてベスト4で大会を去った。

2017-18シーズン[編集]

新スタジアム エスタディオ・メトロポリターノにて(2017年)
クラブのアイコン的存在のフェルナンド・トーレス

2017-18シーズンから、本拠地をエスタディオ・ビセンテ・カルデロンから、エスタディオ・メトロポリターノに移転した。新スタジアムでの最初の試合は、2017年9月16日ラ・リーガ第4節アトレティコ対マラガCFで、アントワーヌ・グリーズマンが初得点を決めた。

シメオネは就任7シーズン目となり、冬にチェルシーからジエゴ・コスタが復帰。また、中国・スーパーリーグ大連一方足球倶楽部へと移籍したニコラス・ガイタンヤニック・カラスコの後釜として、セビージャからスペイン代表MFビトーロを獲得。リーグ戦においては、序盤こそは二者に追随を許すも、最終的には2位フィニッシュ。グリーズマンがチーム最多の19ゴール。チャンピオンズリーグではグループCにポット分けされ、ローマチェルシーカラバフと同組になった。勝ちきれない試合が多く、結果、1勝4分1負の成績でヨーロッパリーグへと回った。ここでは持ち前の強さを発揮し、準決勝でアーセナル、決勝でマルセイユを破り5シーズンぶり、3度目の優勝を果たした[36]。またこの優勝により、シメオネがこのクラブで勝ち取ったタイトルが7つになった。2017年3月23日、ソシオ数が10万人に到達し、ソシオ数がスペイン国内ではレアル・マドリードを抜き2番目に、世界では8番目に多いクラブになった。クラブのアイコン的存在であったフェルナンド・トーレスの退団が決まった[37]。最終節のエイバル戦では、スタジアムには6万5000人のファンが訪れ、トーレスはキャプテンマークを付けてフル出場し、2得点を記録。試合後に退団セレモニーが行われた。さらに長年カピタンを務めていたガビもシーズン終了後に退団を表明し、二大功労者がチームを去ることになった。

2018-19シーズン[編集]

フランスASモナコから当時クラブ史上最高額となる約7000万ユーロでトマ・レマルを、国内のビジャレアルからロドリが加入した。シーズン最初の公式戦となったUEFAスーパーカップでは宿敵レアル・マドリードを延長戦の末4-2で破り、8つめとなるタイトルをチームにもたらした。コパ・デル・レイではジローナに敗戦し、大会を去った。優勝が期待されたCLではモナコ、ボルシア・ドルトムントクラブ・ブルッヘとのグループに入り、4勝1分1敗の成績でグループ2位でノックアウトラウンドへ進出。ベスト16の相手はイタリアユヴェントス。1stレグでは2-0と完封勝利を果たすも、2ndレグでクリスティアーノ・ロナウドハットトリックを許し、2戦合計2-3で大会を後にした。

2019-20シーズン[編集]

クラブ史上最高額の移籍金で加入したジョアン・フェリックス

夏の移籍市場では、キャプテンのディエゴ・ゴディンフィリペ・ルイスフアンフランなどの功労者、アントワーヌ・グリーズマンリュカ・エルナンデスロドリなど、主力選手が多数クラブを離れることが決まった。SLベンフィカからジョアン・フェリックスを、クラブ最高額の約1億2600万ユーロで獲得した他、レアル・マドリードからマルコス・ジョレンテアトレチコ・パラナエンセからレナン・ロディトッテナム・ホットスパーからキーラン・トリッピアーポルトからフェリペなど、計8名を新獲得し、 2億4470万ユーロを費やした。冬の移籍期間最終日には、大連人職業から、ヤニック・カラスコの買取オプション付きのレンタルでの復帰が発表された[38]。リーグ戦は得点力不足に悩まされリーグ最多の16引き分けと勝ちきれない試合が多く低迷した。コパ・デル・レイでもラウンド32でセグンダBに所属する、クルトゥラル・レオネサに延長戦の末敗退した。チャンピオンズ・リーグでは、ラウンド16で前回の欧州王者で、当時リーグ戦無敗のリヴァプール相手に1stレグで1-0、2ndレグでは、リヴァプールが公式戦42戦無敗を記録し、難攻不落の要塞と呼ばれた[39]本拠地アンフィールドで、ジョレンテの2ゴールとモラタの決勝ゴールで、2-3で勝利。2連勝をし、2戦合計で4-2と快勝し、昨季王者を下した。リーグ戦再開後は、ジョレンテのフォワードへのコンバートや、カラスコの活躍により、再開後7勝4分の無敗でシーズンを終え、再開前の6位から3位に上げシメオネ就任以降8年連続でのチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。チャンピオンズリーグ準々決勝では、RBライプツィヒに1-2で敗れ、ベスト8で敗退した[40]

2020-21シーズン[編集]

2021-22シーズン[編集]

2022-23シーズン[編集]

2023-24シーズン[編集]

ライバル[編集]

2014年のマドリード・ダービー

レアル・マドリードとアトレティコは、対照的なアイデンティティと非常に異なる運命を持つクラブである。レアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウがマドリード北部の裕福なチャマルティンにあるカステジャーナ通りに誇らしげに建つのに対し、アトレティコのかつてのスタジアムは、マドリードの中心部から1.8kmほど離れたアルガンズエラの労働者階級の中心部にあるビセンテ・カルデロンというあまり華やかではないスタジアムであった。歴史的に、レアル・マドリードはエスタブリッシュメントクラブであると長年見られてきた。その一方で、アトレティコは常に「sentimiento de rebeldía」(抵抗の意識)を特徴としていた。しかし、初期フランシスコ・フランコ時代には、体制に好まれたチームはアトレティコであった[要出典]。1950年代にレアル・マドリードに政権が傾倒するまでは、アトレティコは空軍(Atletico Aviacionと改名)と関連付けられていた。

フランコ政権下の独裁国家はスペインが国際的に孤立していた当時、レアル・マドリードのヨーロピアンカップ制覇を政治的に利用しようとしていた。当時ある大臣は「レアル・マドリードはこれまでで最も優れた使節である」と述べた[要出典]。こういった認識は、集合意識に乗り、マドリードのサッカーアイデンティティに重要な影響をもたらしてきている。アトレティコのファンは「Hala Madrid, hala Madrid, el equipo del gobierno, la verguenza del país(ゆけマドリード、ゆけマドリード、政府のチーム、国の恥)」 という歌の発案者であり、最も頻繁に歌われる歌でもある。

アトレティコ・マドリードは2000年(シーズン後半)から2012-13シーズンまでに、14年間マドリードダービー未勝利という大苦戦を強いられていた。しかし、2013年5月17日、2013年コパ・デル・レイ決勝でアトレティコがサンティアゴ・ベルナベウでライバルを2-1で下したことで、その呪縛は終わりを告げ、2013年9月29日には再びベルナベウで1-0の勝利を収めた。

タイトル[編集]

トロフィールーム

国内タイトル[編集]

1939-40, 1940-41, 1949-50, 1950-51, 1965-66, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1995-96, 2013-14, 2020-21
1959-60, 1960-61, 1964-65, 1971-72, 1975-76, 1984-85, 1990-91, 1991-92, 1995-96, 2012-13
1985, 2014

国際タイトル[編集]

2009-10, 2011-12 , 2017-18
1961-62
2010, 2012, 2018
1974

非公式タイトル[編集]

国内個人タイトル[編集]

国際個人タイトル[編集]

近年の成績[編集]

シーズン ディビジョン 国王杯 他公式戦 欧州カップ 最多得点者
リーグ 順位 選手 得点数
2002-03 プリメーラ 38 12 11 15 51 56 47 11位 準々決勝敗退 スペインの旗 フェルナンド・トーレス 13
2003-04 プリメーラ 38 15 10 13 51 53 55 7位 準々決勝敗退 スペインの旗 フェルナンド・トーレス 20
2004-05 プリメーラ 38 13 11 14 40 34 50 11位 準決勝敗退 UIC 準優勝 スペインの旗 フェルナンド・トーレス 20
2005-06 プリメーラ 38 13 13 12 45 37 52 10位 ベスト16 スペインの旗 フェルナンド・トーレス 13
2006-07 プリメーラ 38 17 9 12 46 39 60 7位 ベスト16 スペインの旗 フェルナンド・トーレス 14
2007-08 プリメーラ 38 19 7 12 66 47 64 4位 準々決勝敗退 UC 3回戦敗退 アルゼンチンの旗 セルヒオ・アグエロ 27
UIC 優勝
2008-09 プリメーラ 38 20 7 11 80 57 67 4位 ベスト16 UCL ベスト16 ウルグアイの旗 ディエゴ・フォルラン 35
2009-10 プリメーラ 38 13 8 17 57 61 57 9位 準優勝 UEL 優勝 ウルグアイの旗 ディエゴ・フォルラン 28
2010-11 プリメーラ 38 17 7 14 62 53 58 7位 準々決勝敗退 USC 優勝 UEL GL敗退 アルゼンチンの旗 セルヒオ・アグエロ 27
2011-12 プリメーラ 38 15 11 12 53 56 56 5位 4回戦敗退 UEL 優勝 コロンビアの旗 ラダメル・ファルカオ 36
2012-13 プリメーラ 38 23 7 8 65 31 76 3位 優勝 USC 優勝 コロンビアの旗 ラダメル・ファルカオ 34
2013-14 プリメーラ 38 28 6 4 77 26 90 1位 準決勝敗退 スーペルコパ 優勝 UCL 準優勝 スペインの旗 ジエゴ・コスタ 36
2014-15 プリメーラ 38 23 9 6 67 29 78 3位 準々決勝敗退 UCL 準々決勝敗退 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 25
2015-16 プリメーラ 38 28 4 6 63 18 88 3位 準々決勝敗退 UCL 準優勝 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 32
2016-17 プリメーラ 38 23 9 6 70 27 78 3位 準決勝敗退 UCL 準決勝敗退 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 26
2017-18 プリメーラ 38 23 10 5 58 22 79 2位 準々決勝敗退 UCL GL敗退 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 29
UEL 優勝
2018-19 プリメーラ 38 22 10 6 55 29 76 2位 ベスト16 USC 優勝 UCL ベスト16 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 21
2019-20 プリメーラ 38 18 16 4 51 27 70 3位 3回戦敗退 スーペルコパ 準優勝 UCL 準々決勝敗退 スペインの旗 アルバロ・モラタ 16
2020-21 プリメーラ 38 26 8 4 67 25 86 1位 2回戦敗退 UCL ベスト16 ウルグアイの旗 ルイス・スアレス 21
2021-22 プリメーラ 38 21 8 9 65 43 71 3位 ベスト16 スーペルコパ 準決勝敗退 UCL 準々決勝敗退 アルゼンチンの旗 アンヘル・コレア 14
2022-23 プリメーラ 38 23 8 7 70 33 77 3位 準々決勝敗退 UCL GL敗退 フランスの旗 アントワーヌ・グリーズマン 16

スタジアム・クラブ施設[編集]

アトレティコ・マドリードは2017年まで収容人数54,990人のエスタディオ・ビセンテ・カルデロンを使用していた[41]。また、創設から1923年まではロンダ・デ・バジェカスを本拠地としていたが、1923年にエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリードを建設すると、ビセンテ・カルデロンに移る1966年までここでプレーしていた。

現在のホームスタジアムであるワンダ・メトロポリターノ

クラブは現在シビタス・メトロポリターノ(旧称 : ワンダ・メトロポリターノ)を本拠地としている[42]。同スタジアムは、マドリードオリンピック構想の際に20,000席拡張されて68,000席ものサイズを誇るスタジアムとなった。先代のビセンテ・カルデロンは2020年6月から取り壊しが行われ、跡地にはマンサナーレス川に面するということで、川沿いの公園として再計画がなされている[43]。2017年9月17日、マラガCFとの試合でシビタス・メトロポリターノのこけら落としが計画され、来賓としてスペイン国王、フェリペ6世が招待された。この試合でアントワーヌ・グリーズマンがシビタス・メトロポリターノにおける最初の公式戦スコアラーとなった[44]

トレーニング グラウンド[編集]

アトレティコ・マドリードのトップチームの練習場はマドリードより北西へ17kmほど上ったマハダオンダにある。練習場の名前はシウダ・デポルティーバ・アトレティコ・デ・マドリード。ここには芝のピッチに加えて筋力トレーニングをするためのジムも併設されており、Bチームやカンテラもこの施設を使うことがある[45]

シウダ・デポルティーバにはエスタディオ・セロ・デル・エスピノという多目的スタジアムが隣接しており、主にクラブのBチームがホームスタジアムとして使用している。また、ルーマニアブカレストにもアトレティコ・マドリードが所有するスタジアムがあり、クラブの下部組織という形で運営されている[46]

現所属メンバー[編集]

ラ・リーガ 2023-24・基本フォーメーション (3-5-2)

括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

(※1)EU圏外だが、リーガ・エスパニョーラでは外国人枠とはみなさない。

選手[編集]

2024年2月1日現在[47]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK ルーマニア ホラツィウ・モルドヴァン
2 DF ウルグアイ ホセ・マリア・ヒメネス ()
3 DF スペイン セサル・アスピリクエタ
4 DF ブラジル ガブリエウ ()
5 MF アルゼンチン ロドリゴ・デ・パウル ( )
6 MF スペイン コケ キャプテン
7 FW フランス アントワーヌ・グリーズマン
8 MF スペイン サウール・ニゲス
9 FW オランダ メンフィス・デパイ ()
10 FW アルゼンチン アンヘル・コレア ()
11 MF フランス トマ・レマル
12 FW ブラジル サムエウ・リーノ
No. Pos. 選手名
13 GK スロベニア ヤン・オブラク (副主将)
14 MF スペイン マルコス・ジョレンテ
15 DF モンテネグロ ステファン・サヴィッチ
16 DF アルゼンチン ナウエル・モリーナ
17 FW スペイン ロドリゴ・リケルメ
18 MF ベルギー アルトゥール・フェルメーレン
19 FW スペイン アルバロ・モラタ
20 MF ベルギー アクセル・ヴィツェル
22 DF スペイン マリオ・エルモソ
23 DF モザンビーク ヘイニウド・マンダーヴァ
24 MF スペイン パブロ・バリオス

リザーブチーム[編集]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
26 MF スペイン アイトール・ヒスメラ
27 DF ギリシャ イリアス・コスティス
28 DF スペイン マルコ・モレノ
29 DF スペイン ハビエル・ボニャール
30 FW モロッコ サリム・エル・ジェバリ
31 GK スペイン アントニオ・ゴミス
No. Pos. 選手名
32 FW スペイン アドリアン・ニーニョ
35 GK スペイン セルヒオ・メストレ
36 MF スペイン アレックス・カラトラバ
40 MF スペイン セルヒオ・ゲレーロ
45 MF スペイン ライアン・ベライ
49 MF スペイン ダリオ・フレイ

ローン移籍[編集]

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF ウルグアイ サンティアゴ・モウリーニョ (レアル・サラゴサ)
-- DF スペイン ハビ・ガラン (レアル・ソシエダ)
-- DF トルコ チャーラル・ソユンジュ (フェネルバフチェ)
-- MF スペイン ハビ・セラーノ (シュトゥルム・グラーツ)
-- FW ポルトガル マルコス・パウロ (サンパウロFC)
-- FW スペイン ビクトル・モジェホ (レアル・サラゴサ)
No. Pos. 選手名
-- FW スペイン ボルハ・ガルセス (エルチェ)
-- FW アルゼンチン ジュリアーノ・シメオネ (アラベス)
-- FW スペイン カルロス・マルティン (ミランデス)
-- FW スペイン ヘルマン・バレラ (レアル・サラゴサ)
-- FW スペイン サム・オモロディオン (アラベス)
-- FW ポルトガル ジョアン・フェリックス (バルセロナ)

スタッフ[編集]

テクニカル・スタッフ[編集]

ディエゴ・シメオネ, 2011年12月23日から監督を務める
地位 スタッフ
ヘッド・コーチ アルゼンチンの旗 ディエゴ・シメオネ
アシスタント・マネージャー アルゼンチンの旗 ネルソン・ビバス
アルゼンチンの旗 グスタボ・ロペス
ゴール・キーパー・コーチ アルゼンチンの旗 パブロ・ベルセローネ
フィットネス・コーチ ウルグアイの旗 オスカル・オルテガ
理学療法士 スペインの旗 イバン・オルテガ
スペインの旗 ヘスス・バスケス
スペインの旗 エステバン・アレバロ
スペインの旗 ダビド・ローラス
スペインの旗 フェリペ・イグレシアス・アローヨ
リハビリテーション・
フィジオ
スペインの旗 オスカル・ピティージャス
スペインの旗 アルフレード・ハロディフ
テクニカル・
アシスタント・チーム
スペインの旗 カルロス・メネンデス
スペインの旗 ダニエル・カストロ
チーム・デリゲート スペインの旗 ペドロ・パブロ・マテサンツ
医療部長 スペインの旗 ホセ・マリア・ビヤロン
クラブ・ドクター スペインの旗 ゴルカ・デ・アバホ
ドクター スペインの旗 オスカー・ルイス・セラダ
テクニカル・チーム スペインの旗 クリスチャン・バプテスト
ロシアの旗 ディムチョ・ピリチェフ
スペインの旗 フェルナンド・サンチェス・ラミレス
スペインの旗 マリオ・セラーノ

経営陣[編集]

地位 スタッフ
会長 スペインの旗 エンリケ・セレソ
最高責任者 スペインの旗 ミゲル・アンヘル・ヒル・マリン
強化担当 イタリアの旗 アンドレア・ベルタ
取締役 スペインの旗 ラサーロ・アルバラシン・マルティネス
スペインの旗 アントニオ・アロンソ・サンス
フランスの旗 アントワーヌ・ボニエ
スペインの旗 セベリアーノ・ヒル・イ・ヒル
取締役秘書 スペインの旗 パブロ・ヒメネス

ソース: Atlético Madrid

ユニフォーム[編集]

チームカラー[編集]

  •   赤 /  
    • 1909年にイングランドへ渡り、クラブのユニフォームを調達した際にサウサンプトンFCから譲り受けた赤と白のストライプを模したユニフォームが由来である[48]

ユニフォームスポンサー[編集]

2023-24シーズンのスポンサー
掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
リヤド・エア英語版 RIYADH AIR 2023年 -
背中下部 リア・マネー・トランスファー英語版 ria Money Transfer 2021年 -
現代自動車 Hyundai 2018年 -
歴代スポンサー
期間 メインスポンサー その他
1903-1987 なし
1987-1990 三田工業 なし
1990-1993 マルベーリャ なし
1993-1994 アンテナ3 なし
1994-1996 マルベーリャ なし
1996-1997 バンダイ / たまごっち なし
1997-1999 マルベーリャ なし
1999-2000 なし
2000-2002 Idea Electrodomésticos なし
2002-2003 Idea Electrodomésticos / Centenario del club なし
2003-2004 コロンビア ピクチャーズ Racer
2004-2005 AXN
2005-2006 起亜自動車
2006-2008 京セラ / ASISA
2008-2011 京セラ / Ålands Penningautomatförening
2011-2012 Rixos Hotels / ファーウェイ 京セラ / Doyen Group
2012-2013 ファーウェイ / Azerbaijan, Land of Fire 京セラ
2013-2014 Azerbaijan, Land of Fire 京セラ / ファーウェイ
2014-2015 ファーウェイ / Plus500
2015-2016 Plus500 Azerbaijan, Land of Fire / ファーウェイ
2016-2018 なし
2018-2019 現代自動車 / セーブ・ザ・チルドレン
2019-2020 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン
2020-2021 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン / VERSUS
2021-2022 現代自動車 / Ria Money Transfer / セーブ・ザ・チルドレン
2022-2023 WhaleFin
2023- RIYADH AIR

ユニフォームサプライヤー[編集]

期間 サプライヤー
1903-1950 なし
1950-1980 Deportes Cóndor
1980-1982 Meyba
1982-1998 プーマ
1998-2001 リーボック
2001- ナイキ

歴代ユニフォーム[編集]

ホームユニフォーム
1903-1909
1909-1911
1928-1929
1932-1933
1939-1940
1949-1950
1955-1956
1974-1976
1982-1983
1983-1992
1992-1994
1994-1995
1995-1996
1996-1997
1997-1998
1998-1999
1999-2000
2000-2001
2001-2002
2002-2003
2003-2004
2004-2005
2005-2006
2006-2007
2007-2008
2008-2009
2009-2010
2010-2011
2011-2012
2012-2013