オットー・グラーフ・ラムスドルフ

オットー・グラーフ・ラムスドルフ(1978年)

オットー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フライヘア・フォン・デア・ヴェンゲ・グラーフ・ラムスドルフOtto Friedrich Wilhelm Freiherr von der Wenge Graf Lambsdorff;フォン・デア・ヴェンゲ男爵およびラムスドルフ伯爵1926年12月20日2009年12月5日)は、ドイツ(分断時代は西ドイツ)の政治家自由民主党(FDP)所属。

1977年から1982年までヘルムート・シュミット内閣で、ついで二週間の間を置いて1982年から1984年までヘルムート・コール内閣で、経済大臣を務めた。1988年から1993年まで第10代FDP党首を務める。

経歴[編集]

ノルトライン=ヴェストファーレン州アーヘン出身。ベルリンブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルの騎士アカデミー(貴族を対象とした学校)で学ぶが、第二次世界大戦中の1944年に徴兵され、士官候補生となる。翌年、1945年の4月21日(復活祭の日)に機銃掃射によって重傷を負い左脚を失った。1946年にウンナアビトゥーアに合格。ボン大学ケルン大学法学政治学を学び、1955年に国家司法試験に合格。この間1952年に法学博士号を取得。1955年から1971年まで銀行に勤務。1960年に弁護士免許を取得。1971年から1977年まで保険会社の経営委員を務める。1988年から消防車製造会社であるIVECO Magirus社の監査役を務める。

1951年に自由民主党に入党。1968年に財務担当として党のノルトライン=ヴェストファーレン州代表幹事となる。1972年、ドイツ連邦議会議員に初当選。同年、党の連邦執行部入り。議会会派では経済政策スポークスマンを務める。1977年、ヘルムート・シュミット内閣に経済相として初入閣。しかし1980年の連邦議会選挙後、シュミット首相のドイツ社会民主党(SPD)による社会民主主義政策と、ラムスドルフを代表とするFDPの経済政策の主張は衝突するようになり、1982年9月に他のFDP閣僚と共に辞任した。その結果10月にシュミット内閣は退陣に追い込まれ、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)とFDPの連立によるヘルムート・コール内閣が成立。ラムスドルフはコール内閣に経済相として復帰した。翌年不正献金疑惑であるフリック事件ドイツ語版英語版が発覚、1984年1月27日に大臣職を引責辞任した。ラムスドルフは連邦議会により不逮捕特権を停止され、1年半にわたる審理の結果、1987年に脱税の罪で罰金18万ドイツマルクを課された。なお、献金をしたフレデリック・カール・フリックドイツ語版英語版大財閥フリック当主であり、2006年度世界長者番付で62位となった。

ラムスドルフ党首(右端)らFDP執行部(1990年)

ラムスドルフの主張する市場経済政策に対する党内の支持は強く、1988年にFDP党首に選出され1993年まで務めた。この間ドイツ再統一に伴いFDPは旧東ドイツ自由民主党(LDPD)を吸収合併し、ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー外相の人気も手伝って、連邦議会選挙でFDP史上最高の得票率を得た。党首退任後の1993年からFDP名誉党首。その他党関連の役職として、1991年‐1994年に自由主義インターナショナル総裁、1995年‐2006年にフリードリヒ・ナウマン財団総裁を務めた。1998年を最後に連邦議会から離れ、政界を引退した。

政界引退後はミハイル・ホドルコフスキーのメナテップ・グループ相談役を務めたほか、1999年からは首相特任でナチス・ドイツによる強制労働の被害者に対する補償交渉にあたった。ボンで死去した。

人物[編集]

ラムスドルフは二度結婚して先妻との間に三児をもうけた。欧州議会議員のアレクサンダー・グラーフ・ラムスドルフは甥に当たる。

1992年から2001年まで日米欧三極委員会の欧州議長(現在名誉議長)。ドイツ株式保有保護協会(DSW)名誉会長。2006年から日本美術協会(Japan Art Association)の授賞国際選考委員を務めている。

外部リンク[編集]

先代
マンフレート・ラーンシュタイン
ドイツ連邦共和国経済相
1977年 - 1982年
次代
マンフレート・ラーンシュタイン
先代
マンフレート・ラーンシュタイン
ドイツ連邦共和国経済相
1982年 - 1984年
次代
マルティン・バンゲマン