カール・フロイント

カール・フロイント
Karl Freund
Karl Freund
生年月日 (1890-01-16) 1890年1月16日
没年月日 (1969-05-03) 1969年5月3日(79歳没)
出生地 ボヘミアケーニヒンホフ
職業 撮影技師
 
受賞
アカデミー賞
撮影賞
第10回大地
その他の賞
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カール・フロイントKarl Freund1890年1月16日 - 1969年5月3日)は、ドイツ撮影技師。担当した映画は100作以上に上る。

来歴[編集]

ユダヤ系の両親、グレイザー・ジュリアス・フロイントと妻マリーの間にボヘミアに生まれる。幼少時にベルリンへ移住し、15歳から映写技師として働き始めた。その後ニュース映画のカメラマンとしてキャリアを積み、1911年にアスタ・ニールセン主演「Heißes Blut」で初めて劇映画の撮影を務める。1920年代には「巨人ゴーレム」(1920)「最後の人」(1924)「メトロポリス」(1927)等の名作のカメラマンとして起用された。実験映画の「伯林 - 大都会交響楽」では監督ヴァルター・ルットマンと共同で脚本も担当している。

1929年にアメリカに渡り、「魔人ドラキュラ」(1931)から「キー・ラーゴ」(1948)まで多くの映画の撮影を担った。「魔人ドラキュラ」では監督のトッド・ブラウニングが仕事のやる気を失っていたため、いくつかのシーンはフロイントが演出を行ったという。[1]「大地」(1937)でアカデミー撮影賞を受賞。また1921年から35年の間に10本の長編映画を監督しており[2]、最も有名なものはボリス・カーロフ主演の「ミイラ再生」(1932)とピーター・ローレ主演「狂恋」(1935)の2本の怪奇映画である。

1951年、フロイントはデジ・アーナズから依頼を受け「アイ・ラブ・ルーシー」の撮影監督に就任。以降はテレビ業界で「Our Miss Brooks英語版[3]などシットコムの人気作をいくつか手がけた。

主な作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ In an interview with author and horror historian David J. Skal, David Manners (Jonathan Harker) claims he was so unimpressed with the chaotic production, he never once watched the film in the remaining 67 years of his life. However, in his DVD audio commentary, Skal adds, "I'm not sure I really believed him." Source: commentary of film in 2-DVD set Dracula: The Legacy Collection, Universal Studios Home Entertainment (2004)
  2. ^ 他に短編を9本監督している。Karl Freund” (英語). IMDb. 2023年5月21日閲覧。
  3. ^ The Life and Films of Karl Freund, Hollywood Innovator

外部リンク[編集]