ゲルマン祖語

(ゲルマンそご、: Proto-Germanic)は、インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)から分化した言語の一つであり、ゲルマン語派に属する言語、すなわちドイツ語英語オランダ語デンマーク語ノルウェー語スウェーデン語アイスランド語などの祖先の言語(祖語)である。文献が全くないので他の言語の知識から復元(再構)して考察されている。

歴史[編集]

ゲルマン民族の大移動の推移;紀元前750年-1年(ペンギン世界歴史地図帳1988から引用):
  • 赤:移動前 紀元前750年
  • 橙:紀元前500年
  • 黄:紀元前250年
  • 緑:1年

ゲルマン人は血統的には非印欧語系スカンジナビア原住民、球状アンフォラ文化の担い手など様々な混血である。ゲルマン語をもたらした集団はヤムナ文化より分化し、バルカン半島、中央ヨーロッパを経由してスカンジナビア半島南部にやってきた集団(ケルト語イタリック語の担い手と近縁)とする説、戦斧文化の担い手の子孫(バルト・スラブ語派と近縁)とする説、あるいはゲルマン祖語は両者の混合であるとの見方もある。他の印欧語と異なる起源の語彙が多いことから、ゲルマン祖語に非印欧語系基層言語を認める説(ゲルマン語基層言語説)もある[1]。ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、紀元前5世紀にゲルマン祖語が成立、その後西ゲルマン語群東ゲルマン語群北ゲルマン語群に分化した。

ゲルマン祖語の祖先であるインド・ヨーロッパ語族の北西語群は、その存在と起源を非常に古い時代にまで求めることができるが、ゲルマン祖語自体はそれほど古いものではない。ゲルマン祖語は、北部ドイツヤストルフ文化にて、 ゲルマン語派のみに特徴的な音声変化とされるもの(訛り)が前5世紀から発生したことにより成立したと推定される[2]。その後このヤストルフ文化が周囲に伝播していく過程でこの音声変化の流行も共に伝播していくことで、ゲルマン語派の各地の言語が成立したものと考えられる。北西語群のうちこの音声変化の伝播から外れた諸言語もあり、たとえばスラヴ語派バルト語派の諸言語がそれと考えられている。スラヴ祖語バルト祖語はその成立過程においてスキタイ人やサルマタイ人、あるいはそれらより昔の時代にウクライナステップに侵入したこれらイラン語群遊牧民社会との接触によって彼らから音声的特徴の影響を強く受けてサテム化している。

音韻[編集]

子音[編集]

子音 両唇音 歯茎音 軟口蓋音 両唇軟口蓋音
無声閉鎖音 p t k
無声摩擦音 ɸ θ x
有声摩擦音 β ð ɣ ɣʷ
鼻音 m n ŋ
歯擦音 z, s
流音, 半母音 w r, l j

摩擦音[β], [ð], [ɣ]音素でなく異音であるので閉鎖音と区別せずに /b/, /d/, /g/ と書く場合も多い。

グリムの法則[編集]

グリムの法則とは、ゲルマン祖語が印欧祖語から分化するときに破裂音に起こった重要な変化である。紀元前6世紀頃から紀元前2世紀までにかけて起こったとされる。

グリムの法則
  破裂音から
摩擦音
有声音から
無声音
有気音から
無気音
唇音 /p/ > /ɸ/ /b/ > /p/ /bʰ/ > /b/
歯音 /t/ > /θ/ /d/ > /t/ /dʰ/ > /d/
軟口蓋音 /k/ > /x/ /ɡ/ > /k/ /ɡʰ/ > /ɡ/
唇軟口蓋音 /kʷ/ > /xʷ/ /ɡʷ/ > /kʷ/ /ɡʷʰ/ > /ɡʷ/, /w/, /g/

ヴェルナーの法則[編集]

ヴェルナーの法則とは、無声摩擦音が有声音へと音韻推移する現象に関する法則である。

  • 無声摩擦音 (/s/, /f/, /θ/, /x/) はアクセントのない音節に続くとき有声化してそれぞれ[z], [v], [ð], [ɣ]になる。
    • 言い換えると語頭またはアクセントのある音節に続くときに無声のままである。
    • ここでいうアクセントとは、印欧祖語から引き継いだ「位置の変わるアクセント」である。
    • ヴェルナーの法則の変化の直後に第一音節に強勢がある現在のようなアクセントになった。
    • アクセントの変化の後 /s/の有声の/z/が音素になった。
    • 有声の /f/, /θ/, /x//b/, /d/, /ɡ/ と混同されることがある。

母音[編集]

  前舌 中舌 後舌
/i(ː)/   /u(ː)/
半狭 /e(ː)/   /o(ː)/
狭めの広 /æː/    
  /a/  
  • 短母音4つ(i, u, e, a)、長母音5つ(ī, ū, ē, ō, æ)がある。詳しい音は不明である。
  • 印欧祖語の ao はゲルマン祖語で a になり、āōō になった(スラヴ語にも類似の変化がみられる)。
  • ēæ はそれぞれ ē1 , ē2 のように番号をつけて書かれることもある。復元した単語の数が少ないこともあり æ (ē2) の音価は不明である. 言語学者のクラーエ(Krahe)の説では æī と同じ音であるとし、印欧祖語の ei または ēi が二重母音から単母音へ変化している途中を表しているのではないかとしている。「エー」に近い音が二つあったことはルーン文字(古層)に二字あること(ᛇとᛖ)と合致する。
  • 強勢のない音節に来る母音は祖語末期から減少しはじめ、各言語で変化をたどった。

語形[編集]

名詞形容詞主格対格属格与格具格呼格の6つの格がある。 代名詞副詞にわずかに所格奪格の名残が見られる。具格呼格は複数形が不明である。具格西ゲルマン語呼格ゴート語のみにのこる。

動詞代名詞には単数、複数形にくわえ双数形がある。代名詞の双数形は三群の古層まで続いたが動詞はゴート語のみに残る。名詞形容詞の双数形は記録上の最古の年代より前に消失した、あるいはイタリック語派と同じくゲルマン語派に分派する前にすでになかったと推測されている。

動詞の活用の体系[編集]

ゲルマン祖語の動詞

によって変化する。未来形がないのが特徴である。

名詞[編集]

  • 名詞の変化は大体印欧祖語の体系を引き継いでいる。語幹によって/a/型, /ō/型, /n/型, /i/型, /u/型の五種類に分類される。
  • 前三者 /a/ 型, /ō/ 型, /n/ 型は形容詞の変化形と同じなので特に重要である。他の種類の名詞もこの型に影響されることがある。
  • /a/型, /ō/型はさらに/ja/型、/wa/型、/jō/型、 /wō/型とそれぞれ二種が属する。
  • /n/型の名詞は/an/型(男性), /ōn/型 (女性、中性), /īn/ (大部分は女性の抽象名詞)型がある。
  • 数は少ないが他に語根名詞 (子音で終わる)、親族名詞(/er/で終わる)、 /z/型の中性名詞 (ドイツ語ではこの型が一般化した)、 現在分詞など /nd/で終わる名詞がある.
  • 中性名詞は男性・女性名詞と異なり、主格対格が同形である。
  -a-幹名詞 -i-幹名詞
単数 複数 単数 複数
主格 *wulfaz *wulfōs, -ōz *gastiz *gastijiz
対格 *wulfan *wulfanz *gastin *gastinz
属格 *wulfisa, -asa *wulfōn *gastisa *gastijōn
与格 *wulfai, -ē *wulfamiz *gastai *gastī
呼格 *wulfa *gasti
具格 *wulfō *gastī

形容詞[編集]

形容詞は修飾する名詞と性、数、格が同じ形をとる。特定のものを表す形(強変化)と不特定のものを表す形(弱変化)の二種類がある。特定のものを表すことからドイツ語では弱変化形を名詞に指示代名詞や定冠詞がつくときに用いるようになる。"強"変化"弱"変化という名称はドイツ語、英語など後代の言語を意識してつけられたものであるが、祖語をはじめゴート語などでは語尾に大きな差はない。強変化は/a/型 と/ō/型、弱変化は/n/型の変化を行う。

  強変化 弱変化
男性 女性 中性 単数 複数
単数 複数 単数 複数 単数 複数
主格 *blindaz *blindai *blindō *blindōz *blinda, -atō *blindō *blindanō *blindaniz
対格 *blindanō *blindanz *blindana *blindaniz, -anuniz
属格 *blindez(a) *blindaizō *blindezōz *blindaizō *blindez(a) *blindaizō *blindeniz *blindanō
与格 *blinde/asmē/ā *blindaimiz *blindai *blindaimiz *blinde/asmē/ā *blindaimiz *blindeni *blindanmiz
具格 *blindō

指示詞[編集]

ゲルマン祖語では指示形容詞と指示代名詞の区別はなく、後に定冠詞、指示代名詞に分化する。

  男性 女性 中性
単数 複数 単数 複数 単数 複数
主格 *sa *þai *sō *þōz *þat *þō, *þiō
対格 *þen(ō), *þan(ō) *þans *þō
属格 *þes(a) *þezō *þezōz *þaizō
与格 *þesmō, *þasmō *þemiz, *þaimiz *þezai *þaimiz
具格 *þiō
所格 *þī

脚注[編集]

  1. ^ Feist, Sigmund (1932). “The Origin of the Germanic Languages and the Europeanization of North Europe”. Language (Linguistic Society of America) 8 (4): 245–254. doi:10.2307/408831. JSTOR 408831. 
  2. ^ J. P. Mallory and D. Q. Adams, Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn Publishers, London and Chicago, 1997, “Jastorf culture”

参考文献[編集]

  • Antonsen, E. H., On Defining Stages in Prehistoric Germanic, Language 41 (1965), 19ff.
  • Bennett, William H. (1980). "An Introduction to the Gothic Language". New York: Modern Language Association of America.
  • Campbell, A. (1959). "Old English Grammar". London: Oxford University Press.
  • Fausto Cercignani, Indo-European ē in Germanic, Zeitschrift für vergleichende Sprachforschung, 86/1 (1972), 104-110.
  • Cercignani, Fausto, Indo-European eu in Germanic, Indogermanische Forschungen, 78 (1973), 106-112.
  • Cercignani, Fausto, Proto-Germanic */i/ and */e/ Revisited, Journal of English and Germanic Philology, 78/1 (1979), 72-82.
  • Cercignani, Fausto, Early Umlaut Phenomena in the Germanic Languages, Language, 56/1 (1980), 126-136.
  • Krahe, Hans and Meid, Wolfgang. Germanische Sprachwissenschaft, 2 vols., de Gruyter, Berlin (1969).
  • Lehmann, W. P., A Definition of Proto-Germanic, Language 37 (1961), 67ff.
  • Ramat, Anna Giacalone and Paolo Ramat (Eds.) (1998). The Indo-European Languages. Routledge. ISBN 0-415-06449-X.
  • Joseph B. Voyles, Early Germanic Grammar (Academic Press, 1992) ISBN 0-12-728270-X

関連項目[編集]

ゲルマン語派に属する諸言語[編集]

その他[編集]