サッカーイラク代表

サッカーイラク代表
国または地域 イラクの旗 イラク
協会 イラクサッカー協会
FIFAコード IRQ
愛称 أُسُودُ الرَّافِدَيْنِ
Usood Al-Rafidain
ウスード・アッ=ラーフィダイン
(メソポタミアライオンたち)
監督 スペインの旗 ヘスス・カサス英語版
最多出場選手 ユニス・マフムード(148試合)
最多得点選手 フセイン・サイード英語版(78得点)
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合
 モロッコ 3-3 イラク イラク
(レバノンの旗 ベイルート, 1957年10月29日)
最大差勝利試合
 イラク 13-0 エチオピア エチオピア
(ヨルダンの旗 イルビド, 1992年8月18日)
最大差敗戦試合
 トルコ 7 -1  イラク
(トルコの旗 アダナ, 1959年12月6日)
 ブラジル 6-0 イラク イラク
(スウェーデンの旗 マルメ, 2012年10月11)
 チリ 6-0  イラク
(デンマークの旗 コペンハーゲン, 2013年8月14日)
FIFAワールドカップ
出場回数 1回(初出場は1986
最高成績 グループリーグ敗退 (1986)
AFCアジアカップ
出場回数 10回
最高成績 優勝 (2007)
FIFAアラブカップ
出場回数 6回
最高成績 優勝 (1964, 1966, 1985, 1988)
ガルフカップ
出場回数 16回
最高成績 優勝 (1979, 1984, 1988, 2023)
FIFAコンフェデレーションズカップ
出場回数 1回
グループリーグ敗退 (2009)

サッカーイラク代表(サッカーイラクだいひょう、アラビア語: مُنْتَخَبُ الْعِرَاقِ لِكُرَةِ الْقَدَمِ‎)は、イラクサッカー協会(IFA)によって構成される、イラクサッカーナショナルチームである。ホームスタジアムは、バスラにあるバスラ・スポーツシティ

概要[編集]

西アジアサッカー選手権2002や、AFCアジアカップ2007では優勝を果たしている[1]。さらにガルフカップ優勝4回、FIFAアラブカップ優勝4回など、輝かしいタイトル獲得経歴を誇る。

1980年モスクワ五輪1984年ロサンゼルス五輪1986年メキシコW杯に出場するなど、1970年代後半から1980年代半ばにかけてアジア最強の一角を占めていたが、1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争、1991年の湾岸戦争とその後の西側諸国による経済制裁、さらに2003年のイラク戦争の影響でサッカーを取り巻く環境が著しく悪化した。

歴史[編集]

イラク代表の誕生[編集]

1951年のイラク代表

1948年10月8日、イラクサッカー協会が設立され[2]FIFAには1950年に加盟した。イラク代表の最初の国際試合はベイルートで開催された1957年アラブ競技大会におけるサッカー競技英語版における、モロッコ戦で、3-3の引き分けであった[3][2]

1962年、初めての外国人監督となるコルネル・ドラグシン英語版ルーマニア)が監督に就任。1964年、初タイトルとなるアラブカップ1964での優勝を果たした。自国開催となった1966年大会でも決勝戦でシリアを破り連覇を果たした[2]

1970年代[編集]

AFCアジアカップには1972年大会で初出場となったが、1勝も挙げることなく大会を終えた。翌年3月、1974 FIFAワールドカップ・予選に初参加。そのアジア・オセアニア予選では、1次予選でオーストラリアに次ぐ2位に終わり最終予選には進めなかった。その後ガルフカップ1976で準優勝、AFCアジアカップ1976で4位、自国開催のガルフカップ1979で優勝と結果を出し始めた[4]

1980年代 第1次黄金時代[編集]

1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選では1次予選敗退に終わったが、同年のアジア競技大会で金メダルを獲得。84年にはガルフカップで2大会ぶり優勝、85年にはアラブカップ1985年アラブ競技大会におけるサッカー競技英語版で共に優勝と、立て続けにタイトルを獲得した。

1986W杯[編集]

1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では、西アジアのチームが集まる西地区予選に入り、1次予選でカタールヨルダンに競り勝って、2次予選に進出。2次予選はUAEホーム・アンド・アウェー方式で対戦。敵地ドバイでの第1戦を3-2で勝利した後、ホームでの第2戦を1-2で落とした。合計スコアは4-4で並んだが、アウェーゴール数が多いイラクが勝者となり、最終予選進出を決めた。勝てば本大会出場となる最終予選では、シリアと同様に対戦。敵地ダマスカスでの第1戦を0-0で終えた。ターイフでの第2戦を3-1で勝利し、合計スコアは3-1となりFIFAワールドカップ初出場を決めた。

本大会ではパラグアイベルギー、開催国メキシコと共にグループBに振り分けられた。初戦のパラグアイ戦で0-1の黒星を喫すると、2戦目のベルギー戦はアーメド・ラディがW杯初得点を決めるも1-2のスコアで敗戦し、グループリーグ敗退が決まった。メキシコとの最終戦も0-1で敗れ3連敗でW杯メキシコ大会を去った。

連続出場を狙った1990 FIFAワールドカップ・アジア予選では1次予選でカタールに及ばず最終予選進出を逃している。

政治との関係[編集]

イラク国内のスポーツを統括し、イラクサッカー協会会長を兼務していたサッダーム・フセインの長男ウダイは、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問を行い、52人ものスポーツ選手を拷問によって死に至らしめたと言われている。ウダイの恐怖政治かつ、非人道的な手段は、イラク国内すべてのスポーツにおいて、暗い影を落とすことになる。のちに米軍によってイラク制圧後にウダイが使用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。1993年から1997年までイラク代表のDFだった現イラクサッカー協会副会長のシャラル・ハイダルは、ウダイの拷問についてのサッカー界の最初の証言者である。ハイダルによると、「1994年アメリカW杯アジア予選前に、ウダイは敵対国アメリカのW杯に出場するようイラク代表に物凄い圧力をかけてきた。それ以前に2度にわたり、バグダッド郊外のアル・ラドワニアの刑務所に投獄され満身創痍の状態だったため、イラク代表から外してほしいと懇願した所、同刑務所に3度目の投獄を受け、木靴で蹴りつける・足の裏を木の棒で叩くファラカという拷問等を受け、6カ月投獄された」という[5][6]

1993年に行われたアメリカW杯アジア地区最終予選の日本対イラク戦(通称:ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが証言している。1997年、イラクは第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、ウダイは代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちを行った上、打放しコンクリートの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数の打放しコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を監禁したという。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した[7]

第2次黄金時代[編集]

イラク国内では危機的な状況の中、AFCユース選手権2000で19歳以下の代表が優勝を飾り、若年層に才能が育っていたことはアジアのサッカー界に驚きをもって受け止められた。この世代の選手たちが中心となり、イラク戦争・ウダイ死亡後には2004年の中国アジアカップでベスト8、同年のアテネ五輪で4位、2006年のアジア大会で準優勝と、立て続けに国際大会で好成績を上げた。

さらにAFCアジアカップ2007では大会初優勝を飾り、再びアジア列強の地位を取り戻している。この大会でイスラム教シーア派の選手とスンニ派の選手、クルド人の選手が共に優勝を喜ぶ姿は国内外でも大きく注目を集めた。しかし2008年の南アフリカW杯アジア予選では、3次予選で敗退し最終予選に進出できなかった(なお、その前のドイツW杯アジア予選でも最終予選進出に失敗)。前回王者として出場したAFCアジアカップ2011では、準々決勝で敗退となった。

2011年8月29日より元日本代表監督のジーコが監督に就任したが、ジーコは2012年3月から、スタッフは2011年10月から給料未払いとなり[8]2014年ブラジルW杯アジア4次予選B組第6節終了後、2012年11月27日にジーコ監督はイラクサッカー協会の契約不履行を理由に辞任した[9][10]。2013年6月11日、日本に0-1で敗れ、2014年ブラジルW杯アジア予選4次予選での敗退が決まった。

新生イラク代表[編集]

AFCアジアカップ2015では平均年齢が23歳以下と非常に若いチームで臨み、準々決勝で隣国のイランを延長PK戦の末下し、2大会ぶりにベスト4へと進出したが、準決勝で韓国、3位決定戦でアラブ首長国連邦に敗れ、4位となった。2018年のロシアW杯アジア予選では最終予選に進出したが、開幕3連敗を喫する[11]など第8節で予選敗退が決定した。なお、後半戦の第6節以降は好調で2勝2分1敗であった。

自国開催となったガルフカップ2023では決勝戦でオマーンを破り1988年大会以来35年ぶりとなる優勝を果たした[12]

AFCアジアカップ2023ではグループDに組み分けされ、初戦のインドネシアを3-1で下すと、第2戦の日本戦では後半に1点を返されるも前半にアイメン・フセインの2ゴールの活躍でグループリーグ1位通過を決めた。3戦目のベトナム戦では前半42分に先制点を奪われ、後半に2点を奪って一時は逆転するも、試合終了間際にグエン・クアン・ハイのゴールで同点にされてしまう。それでも最後の最後にフセインがPKを決めて3-2で競り勝ってグループリーグ3連勝でヨルダンとの決勝トーナメント1回戦に挑んだ。前半終了間際にヤザン・アル・ナイマトに先制ゴールを決められるも、後半にサード・ナティク・ナジとアイメン・フセインの活躍で逆転に成功した。しかし、このまま逃げ切るかと思われた試合終了間際にヤザン・ムーサ・マフムード・アブ・アル・アラブに同点ゴールを決められて、最後はニザール・マフムード・アフマド・アル=ラシュダンに逆転ゴールを決められたところで試合終了。ベスト8目前でベスト16敗退に変わってしまった[13]

成績[編集]

FIFAワールドカップ[編集]

FIFAワールドカップ FIFAワールドカップ・予選
開催年 結果 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点
ウルグアイの旗 1930 不参加 不参加
イタリアの旗 1934
フランスの旗 1938
ブラジルの旗 1950
スイスの旗 1954
スウェーデンの旗 1958
チリの旗 1962
イングランドの旗 1966
メキシコの旗 1970
西ドイツの旗 1974 予選敗退 6 3 2 1 11 6
アルゼンチンの旗 1978 不参加 不参加
スペインの旗 1982 予選敗退 4 3 0 1 5 2
メキシコの旗 1986 グループリーグ敗退 3 0 0 3 1 4 8 5 1 2 13 11
イタリアの旗 1990 予選敗退 6 3 2 1 11 5
アメリカ合衆国の旗 1994 13 7 4 2 37 13
フランスの旗 1998 4 2 0 2 14 8
大韓民国の旗日本の旗 2002 14 6 3 5 37 15
ドイツの旗 2006 6 3 2 1 17 7
南アフリカ共和国の旗 2010 8 3 2 3 11 6
ブラジルの旗 2014 16 7 3 6 20 12
ロシアの旗 2018 16 6 5 5 24 18
カタールの旗 2022 18 6 8 4 23 16
合計 1/22 3 0 0 3 1 4 118 48 28 27 199 99

AFCアジアカップ[編集]

開催年 結果 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点
香港の旗 1956 不参加
大韓民国の旗 1960
イスラエルの旗 1964
イランの旗 1968
タイ王国の旗 1972 グループリーグ敗退 3 0 2 1 1 4
イランの旗 1976 4位 4 1 0 3 3 6
クウェートの旗 1980 棄権
シンガポールの旗 1984
カタールの旗 1988
日本の旗 1992 不参加
アラブ首長国連邦の旗 1996 ベスト8 4 2 0 2 6 4
レバノンの旗 2000 4 1 1 2 5 7
中華人民共和国の旗 2004 4 2 0 2 5 7
インドネシアの旗 マレーシアの旗 タイ王国の旗 ベトナムの旗 2007 優勝 6 3 3 0 7 2
カタールの旗 2011 ベスト8 4 2 0 2 3 3
オーストラリアの旗 2015 4位 6 2 1 3 8 9
アラブ首長国連邦の旗 2019 ベスト16 4 2 1 1 6 3
カタールの旗 2023 4 3 0 1 10 7
合計 10/18 43 18 8 17 54 52

西アジアサッカー選手権[編集]

開催年 結果 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点
ヨルダンの旗 2000
3位
5
3
2
0
10
2
シリアの旗 2002
優勝
4
3
1
0
6
2
イランの旗 2004
4位
4
1
0
3
4
8
ヨルダンの旗 2007
準優勝
4
2
1
1
5
2
イランの旗 2008
不参加
ヨルダンの旗 2010
準決勝敗退
3
2
0
1
6
3
クウェートの旗 2012
準優勝
4
2
1
1
4
2
カタールの旗 2014
グループリーグ敗退
2
0
2
0
0
0
イラクの旗 2019
準優勝
5
3
1
1
5
3
合計
8/9
31
16
8
7
40
22

ガルフカップ[編集]

ガルフカップ
開催年 結果 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点
バーレーンの旗 1970
不参加
サウジアラビアの旗 1972
クウェートの旗 1974
カタールの旗 1976
準優勝
7
4
2
1
23
8
イラクの旗 1979
優勝
6
6
0
0
23
1
アラブ首長国連邦の旗 1982
棄権
オマーンの旗 1984
優勝
7
4
2
1
12
5
バーレーンの旗 1986
6位
6
1
3
2
8
9
サウジアラビアの旗 1988
優勝
6
4
2
0
8
1
クウェートの旗 1990
棄権
カタールの旗 1992
資格停止
アラブ首長国連邦の旗 1994
オマーンの旗 1996
バーレーンの旗 1998
サウジアラビアの旗 2002
カタールの旗 2004
グループリーグ敗退
3
0
2
1
5
7
アラブ首長国連邦の旗 2007
3
1
1
1
2
2
オマーンの旗 2009
3
0
1
2
2
8
イエメンの旗 2010
準決勝敗退
4
1
3
0
5
4
バーレーンの旗 2013
準優勝
5
4
0
1
7
3
サウジアラビアの旗 2014
グループリーグ敗退
3
0
1
2
1
4
クウェートの旗 2017
準決勝敗退
4
2
2
0
6
2
カタールの旗 2019
準決勝敗退
4
2
2
0
6
3
イラクの旗 2023
優勝
5
4
1
0
12
2
合計
16/25
73
37
25
11
132
64

FIFAコンフェデレーションズカップ[編集]

開催年 結果 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点
南アフリカ共和国の旗 2009 グループリーグ敗退 3 0 2 1 0 1
合計 出場1回/優勝0回 3 0 2 1 0 1

オリンピック[編集]

歴代監督[編集]

歴代選手[編集]

脚注[編集]

  1. ^ サッカー=アジア杯優勝のイラク代表、UAEで歓迎”. ロイター (2007年8月2日). 2023年7月16日閲覧。
  2. ^ a b c Mubarak, Hassanin (2013年3月21日). “Iraqi Football History” (英語). IraqSport. 2018年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月22日閲覧。
  3. ^ Iraq and Morocco draw 3–3”. The Iraq Times (1957年10月21日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  4. ^ Trophy Cabinet” (英語). 2019年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月11日閲覧。
  5. ^ イラクのサッカー界は復活したか?“負けたら拷問”時代からの復興。P1 - number・2018年3月1日
  6. ^ イラクのサッカー界は復活したか?“負けたら拷問”時代からの復興。P2 - number・2018年3月1日
  7. ^ 大住良之著『アジア最終予選 サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』P217
  8. ^ ジーコの主張 イラクのピッチだけに留まらぬ諸問題-ジーコ公式HP2012年7月28日
  9. ^ イラク代表監督の契約解消 -ジーコ公式HP2012年11月28日
  10. ^ ジーコ氏 イラク代表監督を辞任 給与未払いが理由か-スポニチ2012年11月28日
  11. ^ 最後は10人で失点、3連敗のイラク監督は恨み節「負けたのはレフェリーのせい」”. ゲキサカ (2016年10月6日). 2023年12月24日閲覧。
  12. ^ 元日本代表の李忠成が「史上最強」と太鼓判!アジアカップに挑む森保ジャパンの“武器”とは”. plus.tver.jp (2023年11月26日). 2023年12月24日閲覧。
  13. ^ 【アジア杯】イラク悲劇の敗退…日本戦2発アイメンがゴールパフォで退場 ヨルダンに逆転負け”. 日刊スポーツ (2024年1月29日). 2024年2月8日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]