スタッフォード・ノースコート (初代イデスリー伯爵)

初代イデスリー伯爵
スタッフォード・ノースコート
Stafford Northcote
1st Earl of Iddesleigh
生年月日 1818年10月27日
出生地 イギリスイングランドロンドン
没年月日 (1887-01-12) 1887年1月12日(68歳没)
死没地 イギリス、イングランド、ロンドン
出身校 オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
所属政党 保守党
称号 第8代准男爵、初代イデスリー伯爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC)
配偶者 セシリア

内閣 第3次ダービー伯爵内閣
在任期間 1866年7月6日 - 1867年3月8日[1]

内閣 第3次ダービー伯爵内閣
第1次ディズレーリ内閣
在任期間 1867年3月8日 - 1868年12月3日[1]

内閣 第2次ディズレーリ内閣
在任期間 1874年2月20日 - 1880年4月18日[1]

内閣 第2次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1886年8月3日 - 1887年1月12日[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ダドリー選挙区英語版
スタンフォード選挙区英語版
ノース・デヴォン選挙区英語版[2]
在任期間 1855年3月8日 - 1857年3月27日
1858年7月17日 - 1866年
1866年5月9日 - 1885年7月3日[2]

その他の職歴
イギリスの旗 貴族院議員
1885年7月3日 - 1887年1月12日[2]
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初代イデスリー伯爵スタッフォード・ヘンリー・ノースコート: Stafford Henry Northcote, 1st Earl of Iddesleigh, GCB, PC1818年10月27日 - 1887年1月12日)は、イギリスの政治家、貴族。

ヴィクトリア朝保守党政権で閣僚職を歴任した。1881年に保守党党首ベンジャミン・ディズレーリが死去すると貴族院保守党の指導者ソールズベリー侯爵とともに党首を務めた。しかし庶民院保守党を固めきれず、やがてソールズベリー侯爵が保守党の主導的地位を確立していき、1885年の保守党の政権奪還の際にもソールズベリー侯爵が首相職に就いている。

イデスリー伯爵位を与えられる前の1851年から1885年にかけてはサー・スタッフォード・ノースコート准男爵の称号を使用した。

経歴[編集]

1870年10月8日の『バニティ・フェア』誌に描かれたノースコート。

ヘンリー・スタッフォード・ノースコート(第7代准男爵スタッフォード・ヘンリー・ノースコートの長男)の長男として生まれる。母はアグネス・コックバーン(東インド会社社員トーマス・コックバーンの娘)[3]

イートン校を経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジへ進学[3]

1843年から1845年にかけてウィリアム・グラッドストン通商大臣の秘書官を務める。1847年には通商省の法務秘書官英語版となる[3]

1851年バース勲章コンパニオンを受章。同年3月に祖父の死により(父は祖父に先立って1850年に死去)、第8代ノースコート准男爵位を継承する[3]

1855年から1857年までダドリー選挙区英語版1858年から1866年までスタンフォード選挙区英語版、1866年から叙爵される1885年までノース・デヴォン選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[3][2]

保守党に所属し、保守党政権下で閣僚職を歴任した。第3次ダービー伯爵内閣期と第1次ディズレーリ内閣期の1866年から1868年にかけては通商大臣、ついでインド大臣を務めた[3]

自由党政権の第1次グラッドストン内閣期の1872年には野党議員でありながらグラッドストンの信任を受けてオックスフォード大学国際法教授モンタギュー・バーナード英語版とともにアメリカに派遣され、南北戦争中に起きたアラバマ号英語版事件についての英米交渉を任された。その中で賠償金額についてアメリカが当初要求していた額の三分の一まで減額させることに成功した[4]

1874年から1880年に成立した第2次ディズレーリ内閣では大蔵大臣を務めた[3]1875年スエズ運河買収にはノースコートは慎重な立場だったが、ディズレーリの説得に折れて賛成に転じている[5]。また1879年ズールー戦争の戦費調達をめぐってはノースコートは茶税を導入しようとしたが、世論の反発を買うことを恐れたディズレーリによって退けられ、結局公債で軍事費を賄っている[6]

1876年にディズレーリがビーコンズフィールド伯爵に叙されて貴族院へ移籍した際、ディズレーリの指名で代わって庶民院院内総務に就任している[7]

1880年に保守党は総選挙に敗れて下野し、1881年には党首ディズレーリが死去した。これに伴い、保守党は庶民院保守党をノースコートが、貴族院保守党をソールズベリー侯爵が指導するという二党首体制に移行した。当時から庶民院議員には貴族院の風下に置かれることを好まない風潮があったため、すぐに政権交代があったならばノースコートが首相になっていた可能性が高かった。しかし実際に政権交代があったのは1885年7月であり、その時までにノースコートの権威は失墜してしまっていた[8]。その原因はランドルフ・チャーチル卿ウィンストン・チャーチルの父)を中心とする保守党反執行部グループ「第四党英語版」の造反だった。ノースコートはもともと温和な性格の上、グラッドストンの個人秘書官だった過去からグラッドストンに対して常に敬意を抱いており、野党指導者として政権攻撃力が弱かった。これに不満を抱いたランドルフ卿らはノースコートを差し置いて激しいグラッドストン批判を展開して注目を集めていったのである[9]

「第四党」の活躍を前にノースコートの影は薄くなり、首相になる可能性も失っていった。1885年7月に第二次グラッドストン内閣が総辞職した際、ヴィクトリア女王が大命を下したのはソールズベリー侯爵だったが、これは女王の独断ではなく、保守党全体の空気を追認したものに他ならなかった[10]。ノースコートは第1次ソールズベリー侯爵内閣第一大蔵卿として遇され、またイデスリー伯爵とセント・サイラス・オブ・ニュートン・セント・サイラス子爵(Viscount Saint Cyres of Newton Saint Cyres)の爵位を与えられて、貴族院へ移籍した[2]

1886年7月に成立した第2次ソールズベリー侯爵内閣には外務大臣として入閣したが、人のいいイデスリー卿ではドイツ帝国の「鉄血宰相」ビスマルクと渡り合っていくのが難しく、ソールズベリー卿は苦渋の決断ながら(ソールズベリー卿とイデスリー卿は仲が良かった)、イデスリー卿の更迭と自身が外相を兼ねることを決意した。ソールズベリー卿はそのことをイデスリー卿に伝えるのが忍びなかったため黙っており、イデスリー卿が自分の解任を知ったのは内閣改造発表当日の1887年1月12日だった。驚愕したイデスリー卿は、その日の午後に首相官邸へ向かったが、そこで心臓発作に襲われて急死した[11]。68歳だった[3]

栄典[編集]

爵位[編集]

勲章[編集]

その他[編集]

家族[編集]

1843年にセシリア・フランセス・ファラー(Cecilia Frances Farrer)と結婚し、彼女との間に以下の10子を儲けた[3]

  • 第1子(長女)マーベル(Mabel)(?-1851年
  • 第2子(次女)マーガレット(Lady Margaret)(?-1947年
  • 第3子(長男)第2代イデスリー伯爵ウォルター(Walter)(1845年-1927年
  • 第4子(次男)初代ノースコート男爵ヘンリー英語版1846年-1911年
  • 第5子(三女)アグネス・メアリー嬢(Lady Agnes Mary)(1848年-1921年
  • 第6子(三男)牧師ジョン閣下(Rev. Hon. John)(1850年-1920年
  • 第7子(四男)牧師アーサー・フランシス閣下(Rev. Hon. Arthur Francis)(1852年-1943年
  • 第8子(五男)ヒュー・オリバー閣下(Hon. Hugh Oliver)(1854年-1900年
  • 第9子(六男)エドワード・ルイス(Edward Louis)(1857年-1872年
  • 第10子(七男)エイミアス閣下(Hon. Amyas)(1864年-1923年

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 秦(2001) p.509
  2. ^ a b c d e UK Parliament. “Sir Stafford Northcote” (英語). HANSARD 1803–2005. 2013年12月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Lundy, Darryl. “Stafford Henry Northcote, 1st Earl of Iddesleigh” (英語). thepeerage.com. 2013年12月17日閲覧。
  4. ^ 永井(1929) p.191-192
  5. ^ 坂井(1967) p.34
  6. ^ 坂井(1967) p.64
  7. ^ ブレイク(1979) p.162
  8. ^ ブレイク(1979) p.163
  9. ^ 神川(2011) p.320
  10. ^ ブレイク(1979) p.165-166
  11. ^ 神川(2011) p.403/407-408

参考文献[編集]

  • 神川信彦 著、君塚直隆 編『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028 
  • 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年。ASIN B000JA626W 
  • 永井柳太郎グラッドストン実業之日本社、1929年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187734 
  • ブレイク男爵英語版 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年。ASIN B000J73JSE 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 

外部リンク[編集]

公職
先代
トマス・ミルナー・ギブソン英語版
イギリスの旗 通商大臣
1866年 - 1867年
次代
第6代リッチモンド公爵
先代
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 インド大臣
1867年 - 1868年
次代
第8代アーガイル公爵
先代
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 大蔵大臣
1874年1880年
次代
ウィリアム・グラッドストン
先代
ベンジャミン・ディズレーリ
イギリスの旗 庶民院院内総務
1876年1880年
先代
ウィリアム・グラッドストン
イギリスの旗 第一大蔵卿
1885年1886年
先代
第5代ローズベリー伯爵
イギリスの旗 外務大臣
1886年 - 1887年
次代
第3代ソールズベリー侯爵
党職
先代
ベンジャミン・ディズレーリ
保守党庶民院院内総務
1876年 - 1885年
次代
サー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵
先代
初代ビーコンズフィールド伯爵
保守党党首
庶民院の保守党のみ指導
貴族院保守党は第3代ソールズベリー侯爵が指導

1881年-1885年
次代
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの爵位
先代
創設
初代イデスリー伯爵
1885年 - 1887年
次代
ウォルター・スタッフォード・ノースコート
イングランドの準男爵
先代
スタッフォード・ヘンリー・ノースコート
第8代准男爵
1851年 - 1887年
次代
ウォルター・スタッフォード・ノースコート