セルゲイ・ラフマニノフ

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов
1921年
基本情報
出生名 Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов
生誕 1873年4月1日
ロシア帝国
ノヴゴロド州 セミョノヴォ
出身地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ノヴゴロド州 オネグ
死没 (1943-03-28) 1943年3月28日(69歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ
学歴 モスクワ音楽院ピアノ科
モスクワ音楽院作曲科
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家
ピアニスト
指揮者
担当楽器 ピアノ
活動期間 1892年 - 1943年

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフСерге́й Васи́льевич Рахма́ниновロシア語: [sʲɪrˈɡʲej vɐˈsʲilʲjɪvʲɪt͡ɕ rɐxˈmanʲɪnəf]、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[注釈 1]1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家ピアニスト指揮者

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ラフマニノフ(1885年)

1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、モルダヴィア公シュテファン3世の孫で "Rachman" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫とされる[1][2]父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[注釈 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 3]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。

4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[4]ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

音楽家としての出発[編集]

ズヴェーレフとその弟子たち

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキー和声を、セルゲイ・タネーエフ対位法を学んだ。のちにはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイ正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。このあと、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)を完成させた。

1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作としてオペラ『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で『前奏曲 嬰ハ短調《鐘》』(作品3-2)を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(作品9)を作曲した。

挫折[編集]

ラフマニノフは1895年に『交響曲第1番 ニ短調』(作品13)を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性[注釈 4]や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第2指揮者に就任し、おもに演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の1人として立ち会った。

ラフマニノフ(1899年)

1898年にはシャリアピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、『交響曲第1番』の初演以降に作曲した数少ない作品のひとつである歌曲『運命』(作品21-1)を披露した。しかしこのベートーヴェンの『交響曲第5番』に基づく作品は老作家の不興を買い[注釈 5]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。

作曲家としての成功[編集]

つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していた『ピアノ協奏曲第2番』の第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。[要出典]

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための『組曲第2番』(作品17)と『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)という2つの大作を完成させた。特にダーリに献呈された『ピアノ協奏曲第2番』は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した『12の歌曲集』(作品21)には妻に捧げた『ここは素晴らしい』(第7曲)や、のちに自身でピアノ独奏曲にも編曲した『ライラック』(第5曲)といった作品が含まれている。

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた『交響曲第2番 ホ短調』(作品27)は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムウィレム・メンゲルベルクとの共演で『ピアノ協奏曲第2番』を演奏した[6]

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリン同名絵画複製画に着想を得た交響詩『死の島』(作品29)を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のために『ピアノ協奏曲第3番 ニ短調』(作品30)を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだでき上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。

ラフマニノフ(1910年代)

このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集(作品34)を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』(作品34-14)が収められている。

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『』(作品35)を作曲した。1915年1月には正教会奉神礼音楽の大作『徹夜禱』(作品37)を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、『ピアノ協奏曲第1番』の大がかりな改訂作業を行った。

母国を離れて[編集]

1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった(1930年6月の『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)。

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行ったあと、1918年の秋にアメリカに渡り、以後はおもにコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、きわめて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音もたびたび行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

ロシア出国後は作曲活動はきわめて低調になった。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという[3]。それでも1926年にはロシア出国後初の作品となる『ピアノ協奏曲第4番 ト短調』(作品40)を作曲した。

1931年、スイスルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。『パガニーニの主題による狂詩曲』(作品43)と『交響曲第3番 イ短調』(作品44)はここで作曲された。1939年8月、ルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第1番』と自作の狂詩曲を演奏した[7]

ラフマニノフの墓。八端十字架が建てられている

やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる『交響的舞曲』(作品45)を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州ビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして悪性黒色腫のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された[注釈 6]

音楽[編集]

作曲家として[編集]

作風[編集]

チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲んでおり、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴とした。一方で、作曲を志した時期には五人組に代表される国民楽派とモスクワ楽派との対立が次第に緩和されつつあったため、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた[3]。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる[8]

作品に特徴的に見られる重厚な和音は、幼いころからノヴゴロドやモスクワで耳にした聖堂の響きを模したものといわれる。半音階的な動きを交えた息の長い叙情的な旋律には、正教会聖歌やロシアの民謡などの影響が指摘される。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』を好んで用いたことでも知られ、主要な作品の多くにこの旋律を聴くことができる。

すべての作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢はロシアを出国した以後の作品でも貫かれた。モスクワ音楽院の同窓で1歳年長のスクリャービンが革新的な作曲語法を追求し、後の調性崩壊に至る道筋に先鞭をつけたのとはこの点で対照的だった。

ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。

私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。

自身が優れたピアニストだったこともあり、ピアノ曲については特に従来から高く評価されてきた。ロシア的旋律に共通する息の長い旋律を、減衰曲線しか描かないピアノの音で表現するという相反する要素を、夥しい数の音符を用いて書き切った作風はロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者といえる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。ピアノ協奏曲の第2番第3番前奏曲音の絵などのピアノ独奏曲は今日のピアノ音楽における重要なレパートリーとなっている。

メロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めている(2分の2拍子の場合だと半拍遅れ)。

評価[編集]

甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品の数々は一般的な聴衆からは熱狂的に支持された一方、批評家や一部の演奏家からはその前衛に背を向けた作風を保守的で没個性的とみなされ、酷評されることが多かった。ロシアに在住していたころから、ヴャチェスラフ・カラトィギンやレオニード・サバネーエフといった批評家からの徹底した批難の対象だった。この傾向は没後も続き、『グローヴ音楽辞典』の1954年版では、「単調なテクスチュア」「つくりものめいた大げさな旋律」と一蹴され、「彼の存命中にいくつかの作品が享受した圧倒的な人気は長くは続かないだろうし、音楽家によって支持されたことはかつてなかった」と切り捨てられた。

ハロルド・C・ショーンバーグはこうした風潮を非道なまでのスノビズムだとして批判し、「作曲家に関して重要なのは、いかに個性を発揮したか、いかによく自己を表現したか、着想がどれほど強固か、であり、これらの点でラフマニノフは大半の作曲家よりも優れている」と主張した[9]デリック・クックが「演奏家や聴衆からの熱狂的な支持ゆえに、プッチーニとラフマニノフは否定的な評論の集中砲火にもかかわらず我々の音楽体験の中に生き続けている」と述べた[10]ように、『グローヴ音楽辞典』1954年版の予言は現実のものとならなかった。『ニュー・グローヴ音楽大辞典』の1980年版においては、彼の音楽の特性は「顕著な叙情性、表現の幅広さ、構成における独創性、オーケストラの豊かで特徴的な色彩のパレット」と記述された。近年はそれまで演奏される機会の多くなかった作品にも光が当たるようになってきており、熱烈な愛好家もその数を増している[3]

2014年5月20日、ロンドンのサザビーズにて、ラフマニノフ本人による直筆の楽譜が出品、120万ポンドで落札された。楽譜は、交響曲第2番で320ページに及ぶもの[11]

演奏家として[編集]

ピアノ演奏[編集]

ラフマニノフとピアノ

ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である[8]。彼は身長2メートルに達する体躯と巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターヴ半上のソの音を鳴らすことができた)。また指の関節も異常なほど柔軟であり、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターヴ上のドを押さえ、さらに余った親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたという。恵まれたこの手はマルファン症候群によるものとする説もある[12]

ロンドンで彼のピアノ演奏にたびたび接した音楽評論家の野村光一は「彼のオクターヴは普通の人が6度を弾くときぐらいの格好」になったと証言している。野村はさらに続けて次のように述べている[8]

ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。

ラフマニノフは楽譜を恣意的に取り扱う傾向という点においても19世紀以来のヴィルトゥオーソの伝統を受け継ぐピアニストであり、彼の楽曲解釈は当時から物議を醸すことがあった。アメリカの音楽評論家、ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンがラフマニノフによるショパンの『ピアノソナタ第2番《葬送》』の演奏について述べた次のような言葉[7]からも、そうした機微を窺うことができる。

彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の3つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は全ての旧習を投げ捨て、作曲者の指示を翻案さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳だった。それも素晴らしい訳文だった…。

この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画は論破できないもので、宣言は威厳に満ちていた。われわれはラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。

指揮[編集]

ピアニスト、作曲家としての業績の大きさゆえに今日一般に見過ごされがちだが、ラフマニノフは指揮者としても大きな足跡を残している。マモントフ・オペラやボリショイ劇場で、彼は優秀なオペラ指揮者として信頼を置かれていた。演奏会においても自作のみならずチャイコフスキーやボロディン、リムスキー=コルサコフの作品などで、音楽評論家のユーリイ・エンゲルからアルトゥル・ニキシュグスタフ・マーラーエドゥアール・コロンヌにも比肩し得る「生まれながらの天才的指揮者」と評された[3]。ロシアを出国後、1918年にアメリカに渡ったのも、結局受諾しなかったもののボストン交響楽団から演奏会の申し出を受けたのがひとつのきっかけだった。ロシア出国後にピアニストとしての活動に重点を置くようになってからも指揮活動を行っており、自作の交響曲第3番などの録音も残している。

録音[編集]

ビクター社の広告(1921年)

ラフマニノフが演奏活動を行ったのはすでに録音技術が実用化されていた時期のことで、現在でも録音によってその演奏に接することができる。決して数は多くないものの、その録音は資料的価値のみならず、演奏としても非常に貴重なものである。彼はまず1910年代にエジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードと契約し、録音を行った。彼は自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを望んだが、おそらく単純な不注意のためエジソンレコードは未承認の録音を販売してしまい、ラフマニノフの怒りを買った。これを機に彼はエジソンレコードを去り、以後はビクタートーキングマシン社(のちのRCAビクター社)と契約を結び、多くのレコードを生み出した。

RCAからCDで発売された『ラフマニノフ全集』(10枚組、日本盤発売1992年、再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残されたすべてのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩『死の島』、多くのピアノ作品、歌曲を含む。フリッツ・クライスラーとの共演によるグリーグの『ヴァイオリンソナタ第3番』などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらのいくつかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。

これらアコースティック録音のほかに、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。はじめは1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったラフマニノフだが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、「みなさま、私はたった今、私自身が演奏するのを聞きました!」と述べたと伝えられる。アムピコのための録音は、1929年ごろまで続いた。

人物[編集]

生真面目で寡黙な性格だったとされる。彼の人格形成には、幼いころの一家の破産や両親の離婚、姉との死別[注釈 7]などが影響したと指摘される。敬愛したチャイコフスキーの急逝も彼の性格に影を落とした。決定的だったのは交響曲第1番の初演の失敗で、友人に宛てた手紙には「ペテルブルクから帰るときに自分は別人になった」とまで書いている。特にロシアを出国してからは限られた人にしか心を開かなくなり、イーゴリ・ストラヴィンスキーからは「6フィート半のしかめ面」と評された[13]。その一方でシャリアピンの持ち寄るアネクドートにはいつも腹を抱えて笑っていたとも伝えられる。

イワノフカの別荘

1902年に作曲した歌曲『ライラック』作品21の5は広く愛され、ラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになった。彼の愛したイワノフカの別荘の庭にもライラックは咲き乱れていた。匿名の熱烈な崇拝者からコンサート会場など彼の行く先々に白いライラックの花が届けられるという謎めいた現象が生じたこともあった[注釈 8]

聖金口イオアン聖体礼儀』(1910年)と『徹夜禱』(1915年)という正教会奉神礼音楽の大作を作曲しているが、決して熱心な正教徒というわけではなかったとされる。その彼がこうした宗教音楽の大作を創作したことは同時代人には驚きをもって受け止められたという。ただし『聖金口イオアン聖体礼儀』や『交響的舞曲』の手稿には彼自身の手で「完成、神に光栄」と書きつけられている。

気前のよさでも知られ、ロシア出国後にピアニストとして成功し豊かな収入を得るようになると、革命後の混乱の中で困窮する芸術家や団体を金銭的に支援することを惜しまなかった。彼の援助を受けた団体には、マリインスキー劇場の合唱団や、ロシアに在住していたころから縁のあったモスクワ芸術座などが含まれる。またソビエト連邦ナチスの侵攻を受けて窮地に立たされた際には、ソ連政府を支援するためのチャリティー・コンサートを開催した。

貴族の出身で革命後は国外での生活を選択したラフマニノフだが、革命前の1905年には「自由芸術家宣言」に署名して帝政ロシア当局から目をつけられたという一面もある。この年はボリショイ劇場で不穏な動きがあり、指揮者を務めていたラフマニノフも危険人物の1人とみなされた。ロシアを出国したあとは、亡命ロシア人たちのグループによる政治的な活動からは距離を置いていた。晩年にはヨシフ・スターリンが帰国を迎え入れようとする計画もあったと言われる[14]

一時期、レフコという名の愛犬を飼っていた。

最先端の機械に興味があり、開発者を助けるためにヘリコプターで有名なシコルスキー社に5,000ドル(今日の約10万ドル)の投資をした。また自動車が好きで、1912年には妻のために初期のガソリンエンジン車(Leigh Company製)を購入した。本人も運転がうまく高速で走ることを好んでいた。当時のロシアにはほとんど車はなかったが、メルセデスやブガッティなど、速度の出るスポーツ車を購入して自ら高速ドライブを楽しんだ。

交友関係[編集]

作曲家[編集]

チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたことはよく知られる。チャイコフスキーから『アレコ』や幻想曲『』作品7を称賛されたことを生涯誇りとした。2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』作品5はチャイコフスキーに献呈された。1893年にチャイコフスキーが急逝すると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。これはかつてチャイコフスキーがニコライ・ルビンシテインを偲んでピアノ三重奏曲を作曲したのに倣ったものである。

『交響曲第1番』の初演を指揮したアレクサンドル・グラズノフとはその後も交流が続いた。初演の翌年の1898年にはグラズノフの『交響曲第6番』を四手のピアノのために編曲している。

モスクワ音楽院で同窓だったスクリャービンとは作風が対照的で、ラフマニノフには彼がせっかくの才能を浪費しているようにしか考えられなかったといわれるが、それでも音楽家として互いに信頼し尊敬し合う仲だった。1915年にスクリャービンが亡くなるとラフマニノフは追悼演奏会を開催した。彼はスクリャービンの前衛的な作品をもプログラムに含めることを厭わなかったが、この2人はピアニストとしての奏法も対照的で、楽曲解釈をめぐってはスクリャービンの支持者から反発を受けた[注釈 9]。ラフマニノフが残したスクリャービン作品の録音は『前奏曲 嬰ヘ短調』作品11-8のみである。ただし、最晩年の『ピアノ協奏曲第4番』ではスクリャービンの影響が指摘されている。

スクリャービンと同じく当時のロシアを代表するピアニスト、作曲家だったメトネルとも親しい間柄だった。ラフマニノフはピアノ協奏曲第4番をメトネルに、メトネルも自身のピアノ協奏曲第2番をラフマニノフに、それぞれ献呈した。メトネルはラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』の第1楽章第1主題を聴くと「ゆるやかな鐘の音とともに、ロシアがそのおおきな体いっぱいに立ち上がるような気が」すると述べた[3]。ラフマニノフはメトネルのおとぎ話ホ短調作品14の2「騎士の行進」を「奇跡」と評した[15]

演奏家[編集]

ジロティ(左)とラフマニノフ

従兄のジロティはモスクワ音楽院入学のきっかけを作ったのみならず、その後も生涯を通じてラフマニノフと深く関わり続けた。ナターリヤとの結婚式ではジロティが花婿の介添人を務めた。ピアノ協奏曲第1番と『10の前奏曲』作品23はジロティに献呈され、ピアノ協奏曲第2番の初演はラフマニノフのピアノとジロティの指揮により行われた。

モスクワ音楽院時代からの演奏家の友人にはユーリ・コニュスアナトーリー・ブランドゥコーフパーヴェル・パプストアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルなどがいる。ラフマニノフはそれぞれと演奏家として共演したり、作品を献呈したりしている。のちにラフマニノフの次女はコニュスの息子と結婚した。

シャリアピン(左)とラフマニノフ

シャリアピンとはマモントフ・オペラで出会って以来、終生の友情を結んだ。カンタータ『』のバリトン独唱パートやオペラ『けちな騎士』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の主役はシャリアピンを想定して作曲されたものである。

ロシアを出国後に親交を結ぶようになったピアニストとしてベンノ・モイセイヴィチがいる。1919年のモイセイヴィチのアメリカ・デビュー・コンサートにラフマニノフが聴衆の1人として立ち会ったことから両者の交流が始まった。ラフマニノフはモイセイヴィチによるピアノ協奏曲第2番などの演奏を自分よりも優れていると称賛した[16]

アメリカでラフマニノフと親交を結んだもう1人のピアニストがウラディミール・ホロヴィッツである。ホロヴィッツは1928年のアメリカ・デビュー・コンサートの4日前にラフマニノフと初対面を果たし、ピアノ協奏曲第3番を2台のピアノのための版で演奏した(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持った)[17]。のちにラフマニノフはこの曲の演奏をホロヴィッツなどより若い世代のピアニストに委ね、自分では演奏を避けるようになったという[18]

その他の芸術家[編集]

ラフマニノフがチャイコフスキーと並んで崇拝した芸術家がアントン・チェーホフだった[注釈 10]。ラフマニノフは1893年にチェーホフの短篇小説『旅中』に着想を得た幻想曲『』(作品7)を作曲した。1898年にはシャリャーピンとの演奏旅行で訪れたヤルタでチェーホフと出会い、直接の親交を結んだ。初対面の際にチェーホフがかけた「あなたは大物になります」という言葉を、彼は生涯の宝物とした。チェーホフの没後の1906年には戯曲『ワーニャ伯父さん』のセリフを元に歌曲『わたしたち一息つけるわ』(作品26-3)を作曲した。

マリエッタ・シャギニャンとは、彼女が “Re” というペンネームでラフマニノフに手紙を送ったことから交際が始まった。彼女はその後もしばらくは匿名で手紙を交わしたが、のちに彼女の正体はラフマニノフの知るところとなり、両者は直接会うようにもなった。ラフマニノフの自宅でメトネル夫妻を交えて会食したこともあった。1912年には彼女の選んだ詩を元に歌曲集(作品34)を作曲し、第1曲『ミューズ』をシャギニャンに献呈した。

文学者としてはこのほかにマクシム・ゴーリキーアレクサンドル・ブロークイヴァン・ブーニンと親交があった。ゴーリキーはラフマニノフの作品を聴いて、「彼は静寂を聴くことができるんですな」と感嘆したと伝えられる[7]

コンスタンチン・スタニスラフスキーをはじめとするモスクワ芸術座のメンバーとも交流があった。1908年に開催されたモスクワ芸術座の10周年記念行事では、当時ドレスデンに滞在中で参加できなかったラフマニノフがスタニスラフスキーに宛てた手紙形式の祝辞を歌曲に仕立て上げ、それをシャリアピンが歌うという一幕があった。

女優のヴェラ・コミサルジェフスカヤとも親しかった。1910年に彼女が天然痘のために急逝すると、ラフマニノフは追悼のために歌曲『そんなことはない』(作品34-7)を作曲した。

作品[編集]

前奏曲嬰ハ短調作品3の2、再現部

作品番号で45の作品が残されているが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれている。完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、オペラがある。すべての作品はイギリスの楽譜出版社、ブージー・アンド・ホークスが版権を持っている。ラフマニノフの完全な全集を作る試みがロシア本国で始まった[20]が、中断中である。

調性としては短調が非常に多く、特にニ短調を好んで用いた。また、前述のとおり「怒りの日」がしばしば使われている。

管弦楽作品[編集]

  • 交響曲 ニ短調 (1891年)
    • 単一楽章。第1楽章だけで、あとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
  • 交響曲第1番 ニ短調 作品13(1895年)
  • 交響曲第2番 ホ短調 作品27(1906年 - 1907年)
    • 第3楽章の甘美なメロディーは広く知られる。
  • 交響曲第3番 イ短調 作品44(1936年)
    • 遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
  • 幻想曲『』作品7(1893年)
  • ジプシーの主題による綺想曲作品12(1894年)
  • 交響詩『死の島』作品29(1909年)
  • 交響的舞曲 作品45(1941年)

ピアノと管弦楽のための作品[編集]

  • ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 作品1(1890年 - 1891年、初稿と改訂稿がある。)
  • ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18(1900年 - 1901年)
    • その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでももっともポピュラーな作品のひとつ。映画『逢びき』『旅愁』『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
  • ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 作品30(1909年)
    • 第2番に知名度では劣るものの、高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。技術的・音楽的要求においてピアノ協奏曲の中で最難関のひとつとも言われている。
  • ピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40(1927年、初稿と改訂稿がある。)
  • パガニーニの主題による狂詩曲 イ短調 作品43(1934年)
    • 変奏曲の形態を取った狂詩曲。第18変奏は反行形で作曲され、ラフマニノフならではの叙情性に溢れており特に有名。

室内楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

ラフマニノフのピアノ独奏作品の演奏は極めて難しく、2020年の現在をもってしても全ピアノ作品の録音に成功したピアニストは、マイケル・ポンティルース・ラレードウラディミール・アシュケナージハワード・シェリーイディル・ビレットセルジオ・フィオレンティーノ[21]アルトゥール・ピサロの7人しかいない。

声楽曲[編集]

オペラ[編集]

ラフマニノフを扱った作品[編集]

エフゲニー・ツィガノフ主演の映画。ただし、本編最後にロシア語で「まったくの創作で事実とは無関係」と書いてある通り、評伝データとしての価値はない。

回想・評伝[編集]

  • 『ラフマニノフの想い出』沓掛良彦監訳、平野恵美子・前田ひろみ訳、水声社、2017年。12名の回想記
  • ソコロワ 『ラフマニノフ その作品と生涯』佐藤靖彦訳、新読書社、1997年、新版2009年。
  • マックス・ハリソン 『ラフマニノフ 生涯、作品、録音』森松皓子訳、音楽之友社、2016年。
  • 一柳富美子『ラフマニノフ、明らかになる素顔』「ユーラシア・ブックレット」東洋書店、2012年。 
  • ユリイカ 詩と批評 特集ラフマニノフ』2008年5月号、青土社
  • ニコライ・バジャーノフ『伝記 ラフマニノフ』小林久枝訳、音楽之友社、1983年、新版2003年。

その他[編集]

小惑星(4345) Rachmaninoffはラフマニノフの名前にちなんで命名された[22]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 姓はRachmaninoffRachmaninow, Rakhmaninovなどと表記されることがある。名も同様に、SergeySergeなどとも表記される。ラフマニノフ自身は欧米でSergei Rachmaninoffと綴っていた。
  2. ^ 生地は従来オネグとされてきたが、教会の洗礼の記録からセミョノヴォで生まれたことが判明している[3]
  3. ^ 父ヴァシーリイは幼い子供たちにピアノを弾いて聴かせるのを習いとし、後にラフマニノフは父が演奏した曲を元に『V.R.のポルカ』という作品を作曲している。
  4. ^ サーチン家の人々はこの時グラズノフは酒に酔っていたと証言している。
  5. ^ 晩年のトルストイは宗教的な回心を経て独自の芸術観に到達しており、ベートーヴェンなどの音楽に対して否定的な立場をとっていた[5]
  6. ^ 後の1958年に第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したヴァン・クライバーンは、凱旋帰国した際にアレクサンドル・ネフスキー大修道院の構内にあるチャイコフスキーの墓から土を持ち帰り、ラフマニノフの墓前に供えた。
  7. ^ セルゲイの姉、エレーナは声楽の才能に恵まれ将来を嘱望されていたが、17歳で夭逝した。
  8. ^ この贈り物は国外にいる時にも届けられ、革命後に彼がロシアを離れた後にも続いた。添えられた短い手紙には「Б. С.」(おそらくは白いライラックを意味する Белая Сирень のイニシャル)とのみ署名されているのが常だったが、1918年にフョークラ・ルソという女性が自ら名乗り出て、この時初めて贈り主が判明した[7]
  9. ^ スクリャービンは軽くやわらかなタッチを特徴とするピアニストで、明確な打鍵により楽曲の骨格を明瞭に浮かび上がらせるラフマニノフの演奏スタイルはスクリャービン作品の本質を貶めるものと受け取られた。
  10. ^ ラフマニノフはチェーホフとチャイコフスキーについて次のように述べている[19]。「かれ(チャイコフスキー)は、わたしがかつて出会ったもっとも魅惑的な芸術家、人物のひとりでした。…わたしは、あらゆる点でかれに似ていたもうひとりの人に出会いました。それはチェーホフでした。」

出典[編集]

  1. ^ Harrison, Max (2006). Rachmaninoff: Life, Works, Recordings. London: Bloomsbury Publishing. ISBN 978-0-826-49312-5. https://archive.org/details/rachmaninofflife0000harr  p.5
  2. ^ Unbegaun, Boris Ottokar; Uspenskiĭ, Boris Andreevich (1989) (Russian). Русские фамилии. Moscow: Progress Publisher. ISBN 978-5-01-001045-4. OCLC 21065596. https://archive.org/details/russiansurnames  p.108
  3. ^ a b c d e f ニコライ・バジャーノフ著、小林久枝訳『伝記 ラフマニノフ』第3版、音楽之友社、2003年 ISBN 978-4276226210
  4. ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、2006年2月10日、249ページ。ISBN 4-7872-7208-X
  5. ^ トルストイ著、中村融訳『芸術とはなにか』角川文庫、1952年 ISBN 978-4042089223
  6. ^ Robert Matthew-Walker: Rachmaninoff, Omnibus Pr., 1984 ISBN 978-0711902534
  7. ^ a b c d Sergei Bertensson, Jay Leyda, Sophia Satina: Sergei Rachmaninoff: A Lifetime in Music, Indiana Univ Pr, 2002. ISBN 978-0253214218
  8. ^ a b c 『ピアノとピアニスト2003』音楽之友社、2003年 ISBN 978-4276961357
  9. ^ ハロルド・C・ショーンバーグ著、亀井旭、玉木裕訳『大作曲家の生涯』(下)共同通信社(1984年) ISBN 978-4764101548
  10. ^ Deryck Cook; "The futility of Music Criticism", The Musical Newsletter, Jan. 1972
  11. ^ “ラフマニノフ手書きの楽譜、約2億円で落札 英国”. AFPBBNews (フランス通信社). (2013年5月21日). https://www.afpbb.com/articles/-/3015517?ctm_campaign=nowon 2014年5月24日閲覧。 
  12. ^ D A B Young: "Rachmaninov and Marfan's syndrome", British Medical Journal 293, 1986 Dec 20-27, pp1624-6
  13. ^ Max Harrison: Rachmaninoff: Life, Works, Recordings, Continuum, 2005 ISBN 0-8264-5344-9
  14. ^ 日本ロシア音楽家協会『ロシア音楽事典』河合楽器製作所出版部、2006年 ISBN 978-4760950164
  15. ^ Marc-André Hamelin: Introduction to the Fairy Tales - The International Medtner Foundation (Retrieved 2010-05-16)
  16. ^ Jonathan Summers: RACHMANINOV: Piano Concertos Nos. 1 and 2 (Moiseiwitsch, Vol. 4) (1937-1948) - ClassicsOnline (Retrieved 2010-05-16)
  17. ^ Jonathan Summers: RACHMANINOV: Piano Concerto No. 3 / LISZT: Paganini Etudes (Horowitz) (1930) - Classical Music - Streaming Classical Music (Retrieved 2010-05-16)
  18. ^ RACHMANINOV: Piano Concertos Nos. 2 and 3 - Classical Music - Streaming Classical Music (Retrieved 2010-05-16)
  19. ^ エウゲーニイ・ゼノノヴィチ・バラバノーヴィチ著、中本信幸訳『チェーホフとチャイコフスキー』新読書社、1996年 ISBN 978-4788070288
  20. ^ Practical Urtext Editions”. www.boosey.com. 2019年9月26日閲覧。
  21. ^ Sergio Fiorentino - complete Rachmaninoff live”. www.rhineclassics.com. Rhine classics. 2020年7月5日閲覧。
  22. ^ (4345) Rachmaninoff = 1979 HD3 = 1981 UR19 = 1986 TJ5 = 1988 CM2”. MPC. 2021年10月7日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

全般[編集]

作品個別(試聴等)[編集]