ダニス・タノヴィッチ

ダニス・タノヴィッチ
Danis Tanović
Danis Tanović
生年月日 (1969-02-20) 1969年2月20日(55歳)
出生地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ゼニツァ
国籍 ボスニア・ヘルツェゴビナ
職業 映画監督 脚本家 作曲家
ジャンル 映画
活動期間 2001年 -
主な作品
ノー・マンズ・ランド
鉄くず拾いの物語
 
受賞
アカデミー賞
外国語映画賞
2001年ノー・マンズ・ランド
カンヌ国際映画祭
脚本賞
2001年『ノー・マンズ・ランド』
ベルリン国際映画祭
銀熊賞(審査員グランプリ)
2013年鉄くず拾いの物語
2016年サラエヴォの銃声
国際映画批評家連盟賞
2016年『サラエヴォの銃声』
ヨーロッパ映画賞
脚本賞
2001年『ノー・マンズ・ランド』
ロサンゼルス映画批評家協会賞
外国語映画賞
2001年『ノー・マンズ・ランド』
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
2001年『ノー・マンズ・ランド』
セザール賞
新人監督作品賞
2001年『ノー・マンズ・ランド』
その他の賞
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ダニス・タノヴィッチDanis Tanović, 1969年2月20日 - )はユーゴスラビア(現在はボスニア・ヘルツェゴビナ)出身の映画監督脚本家である。

略歴[編集]

ボスニア中央部の都市ゼニツァ生まれ。両親共にボシュニャク人。サラエボ大学音楽院でピアノを専攻した。その後舞台芸術アカデミーで学んだが、1992年にボスニア紛争が勃発。サラエヴォ包囲により勉強の中止を余儀なくされた。

ボスニア軍にカメラマンとして参加し、最前線で紛争の様子を撮影した。タノヴィッチと彼のクルーが撮影した映像は、ボスニア紛争の資料映像としてニュースでよく使われた。

その後勉強を再開するためにベルギーに移り、1997年に卒業。ボスニアとベルギーの二重国籍を持つ。

ボスニア紛争を題材にした初監督作品『ノー・マンズ・ランド』で、カンヌ国際映画祭脚本賞やアカデミー外国語映画賞を受賞をはじめ42の賞を受賞。アカデミー賞受賞演説では「この映画は私の国、ボスニアのためにある」と締めくくった。

2002年には、アメリカ同時多発テロ事件をテーマに11カ国の監督がオムニバス形式で綴った『11'09''01/セプテンバー11』のボスニア編を担当。イギリス編はケン・ローチ、日本編は今村昌平、アメリカ編はショーン・ペン、メキシコ編はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが担当している。

2005年にはポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督が遺した三部作(天国編・地獄編・煉獄編)のうち、『地獄編』を『美しき運命の傷痕』としてフランスで映画化した。『天国編』はトム・ティクヴァ監督により2002年に『ヘヴン』として映画化された。

2007年までパリに住み、現在は妻と5人の子どもとサラエヴォに戻り、舞台芸術アカデミーで教授職に就いている。2008年にはサラエヴォを拠点に草の根政党「Naša Stranka」を設立し、10月の地方選挙から参加した。2011年、サラエヴォ大学から名誉博士号を授与。

2013年の『鉄くず拾いの物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)と主演男優賞を受賞。

2014年の『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』では、ネスレが製造販売する粉ミルクによって乳幼児が病気になってゆく状況に抗議した元ネスレ社員、サイヤド・アーミル・ラザをモデルに、良心による多国籍企業ラスタとの闘いを描いた[1]。この作品は日本を含む全世界で公開されたが、ネスレは公式サイトの特設ページで映画とアーミルの主張を全面否定した[1]

フィルモグラフィー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 境分万純(著)、小林和子(編)「映画 ネスレ元社員の良心による闘い」『週刊金曜日』第25巻第8号、株式会社金曜日、2017年3月3日、52-53頁、2017年6月5日閲覧  第1126号、通巻1146号

外部リンク[編集]