トマス・シン (初代バース侯爵)

初代バース侯爵トマス・シン
Thomas Thynne
1st Marquess of Bath
生年月日 1734年9月13日
没年月日 (1796-11-19) 1796年11月19日(64歳没)
死没地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国・イングランド・ロンドン・セントジョージ・ハノーバー広場英語版
出身校 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ英語版
所属政党 トーリー党
称号 初代バース侯、3代ウェイマス子爵、3代シン男爵、4代準男爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)

内閣 (1)大ピット内閣、グラフトン公内閣
(2)ノース卿内閣
在任期間 (1)1768年1月20日 - 1768年10月21日
(2)1779年3月7日 - 1779年10月27日

内閣 (1)グラフトン公内閣、ノース卿内閣
(2)ノース卿内閣
在任期間 (1)1768年10月21日 - 1770年12月12日
(2)1775年11月9日 - 1779年11月24日

在任期間 1765年6月5日 - 1765年8月7日
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初代バース侯爵トマス・シン: Thomas Thynne, 1st Marquess of Bath, KG, PC1734年9月13日 - 1796年11月19日)は、イギリスの政治家、貴族。大ピットからノース卿までの内閣において国務大臣を務めた。

歴史[編集]

1734年9月13日に第2代ウェイマス子爵トマス・シンとその妻ルイーザ・シン(第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットの娘)の間の長男として生まれる[1][2][3]

1751年1月12日に父の死により第3代ウェイマス子爵位を継承した[3][1]ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ英語版へ進学し、1753年にマスター・オブ・アーツ英語版の学位を取得[3]

1760年から1763年まで寝室侍従卿英語版、1763年から1765年まで主馬頭英語版を務めた[3][2]。1765年4月から7月にかけてアイルランド総督に就任しているが、アイルランドへ赴くことはなかった[1][3]。1765年5月29日に枢密顧問官に列する[3]

1768年1月から10月にかけて初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(大ピット)を首相とする内閣で北部担当国務大臣に就任し[4][1]ジョン・ウィルクス事件の処理とそれに伴うミドルセックス選挙区英語版の選挙を迅速に実施した。この際に彼はウィルクスから誹謗を受けたが、それによってウィルクスは庶民院から除籍されている[1]

1768年10月に成立した第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイの内閣と続く1770年1月に成立したノース卿フレデリック・ノースの内閣においては南部担当国務大臣に就任したが[4]、スペインとの間にフォークランド諸島危機が起こる中の1770年12月に辞職した[1]

1775年12月に再度ノース卿内閣の南部担当国務大臣に任命された。1779年中には数カ月だけ北部担当国務大臣も兼務したが、同年秋に両職とも辞した[1]

1775年3月から11月にかけてと1782年から1796年にかけてグローム・オブ・ザ・ストール英語版の地位にあった[2][3]

1789年8月18日グレートブリテン貴族爵位バース侯爵に叙せられた[2][3]

1796年11月19日にロンドンのセントジョージ・ハノーバー広場英語版のアーリントン通り(Arlington Street)で死去した[3]。爵位は長男トマス・シンが継承した[2][3]。また初代バース侯の弟ヘンリー・カートレット英語版は、初代バース侯のヤンガーサン(次男以下)を特別継承者(special remainder)とする規定を付けられたカートレット男爵位を与えられており[5]、1826年にヘンリー・カートレットが死去すると初代バース侯の次男ジョージ・シンが2代カートレット男爵[6]、ついで三男ジョン・シンが3代カートレット男爵位を継承している(いずれにも男子が無かったのでジョン・シンの死去とともに廃絶した)[7]

栄典[編集]

爵位/準男爵位[編集]

1751年1月12日に父トマス・シンが死去したことにより以下の爵位・準男爵位を継承した[2][3]

  • 第3代ウェイマス子爵 (3rd Viscount Weymouth)
    (1682年12月11日勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • ウォルトシャー州におけるウォーミンスターの第3代シン男爵 (3rd Baron Thynne, of Warminster in the County of Wiltshire)
    (1682年12月11日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • ケース城の第4代準男爵 (4th Baronet "of Caus Castle")
    (1641年6月15日の勅許状によるイングランド準男爵位)

1789年8月18日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]

勲章[編集]

家族[編集]

1759年3月22日に第2代ポートランド公爵ウィリアム・ベンティンクの娘エリザベス・キャヴェンディッシュ=ベンティンク(Elizabeth Cavendish-Bentinck,1735-1825)と結婚。彼女との間に以下の子供らを儲けた[2][3]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Bath, Thomas Thynne". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press.
  2. ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “Bath, Marquess of (GB, 1789)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年11月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Lundy, Darryl. “Thomas Thynne, 1st Marquess of Bath” (英語). thepeerage.com. 2017年11月25日閲覧。
  4. ^ a b 今井宏(編) 1990, p. 323.
  5. ^ Lundy, Darryl. “Henry Frederick Carteret, 1st Baron Carteret of Hawnes” (英語). thepeerage.com. 2017年11月25日閲覧。
  6. ^ Lundy, Darryl. “George Thynne, 2nd Baron Carteret of Hawnes” (英語). thepeerage.com. 2017年11月25日閲覧。
  7. ^ Lundy, Darryl. “John Thynne, 3rd Baron Carteret of Hawnes” (英語). thepeerage.com. 2017年11月25日閲覧。

参考文献[編集]

公職
先代
初代ハーコート伯爵
シャーロット王妃主馬頭英語版
1763年 - 1765年
次代
第3代アンカスター=ケスティーヴァン公爵
先代
第2代ノーサンバーランド伯爵
アイルランド総督
1765年
次代
初代ハートフォード伯爵
先代
ヘンリー・シーモア・コンウェイ
北部担当国務大臣
1768年
次代
第4代ロッチフォード伯爵
先代
第2代シェルバーン伯爵
南部担当国務大臣
1768年 - 1770年
次代
第4代ロッチフォード伯爵
先代
第3代グラフトン公爵
貴族院院内総務
1770年
次代
第4代ロッチフォード伯爵
先代
第4代ロッチフォード伯爵
南部担当国務大臣
1775年 - 1779年
次代
初代ヒルズバラ伯爵
先代
第12代サフォーク伯爵
北部担当国務大臣
1779年
次代
第7代ストーモント子爵
先代
第12代サフォーク伯爵
貴族院院内総務
1779年
次代
第7代ストーモント子爵
宮廷職
先代
第2代アシュバーナム伯爵
グローム・オブ・ザ・ストール英語版
1782年 - 1796年
次代
第3代ロクスバラ公爵英語版
名誉職
先代
第4代ミドルトン男爵英語版
サットン・コールドフィールドの家政長官英語版
1781年 - 1796年
次代
ヘニッジ・フィンチ
グレートブリテンの爵位
爵位創設 初代バース侯爵
1789年 - 1796年
次代
トマス・シン
イングランドの爵位
先代
トマス・シン
第3代ウェイマス子爵
1751年 - 1796年
次代
トマス・シン