トロイカ体制

トロイカ体制(トロイカたいせい、ロシア語:Tройкаラテン文字表記の例:Troika)とは、複数の共同指導者により組織を運営する体制のことである。名前の由来はロシアの3頭立ての馬橇であるトロイカ。

概説[編集]

原義は、ソビエト連邦においてレーニンの死後、トロツキースターリンの対立により、スターリン、ジノヴィエフカーメネフによって形成された集団指導体制のことである。

その後に同国で、スターリンの死後、権力が書記長一人に集中するのを防ぐために、3人に権限を分散させた集団指導体制のこともトロイカ体制と呼ぶようになった。最初の分散先役職は第一書記最高会議幹部会議長国家元首)、閣僚会議議長(首相)。

また、上記から転じて、ソビエト連邦以外の様々な組織における、複数の共同リーダーで組織を運営する体制のこととしても使用される(ソ連以外の社会主義国転用を参照)。

トロイカ体制とされるもの[編集]

レーニン死後のトロイカ[編集]

左からスターリン、ルイコフ、カーメネフ、ジノヴィエフ。レーニン没後、スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフは「三人組」(トロイカ)を組み、ルイコフら党内右派とも組んで、トロツキーが代表する左派を失脚させた。(1925年6月27日撮影)[1]

レーニンが持病の脳卒中で倒れた時、党の事務を統括する書記長の地位にあったスターリンにとって、革命と赤軍の英雄であり、また急進的な共産主義を望むトロツキーは邪魔な存在でしかなかった。そのため、レーニンの直参であり後継者とも目されていた政治局のジノヴィエフ、スターリンと親友であったカーメネフと組み、トロツキーの追い落としにかかる。

トロツキーは丁度ドイツとの軍事提携や白軍との戦いが最終段階に入っていた事もあり、仕事が忙しくてレーニンの見舞いにもあまり行けなかった。スターリンはこれを利用し、レーニンにトロツキーを批判させる。トロツキーは政治意欲を失い、政治局や赤軍から追放されてしまう事となった。

その後スターリンは必要の無くなったトロイカ体制を解消。ジノヴィエフとカーメネフにトロツキー主義に近いとレッテルを貼って追い落とすなど権力闘争を激化させて行き、1936年には最終的に2人を見世物裁判により処刑して実権を掌握した。

スターリン死後のトロイカ[編集]

1953年にスターリンが死去すると、マレンコフが党筆頭書記、首相を兼任し権力を掌握した。しかし集団指導体制を目指すマレンコフは党筆頭書記をフルシチョフに譲った(フルシチョフは後に党第一書記に就任)。最高会議幹部会議長にはヴォロシーロフが就任しトロイカ体制が成立する。

権限の分散を狙ったマレンコフであったが、党が国家を指導するという社会主義国家では必然的に党第一書記の発言力が強くなった。フルシチョフとの対立の結果マレンコフはわずか2年で首相の座を追われた。後任にはブルガーニンが就いた。フルシチョフは1956年に自身の失脚を画策したマレンコフらに反党グループの烙印を押し逆に完全に失脚させ、実質的なソ連の最高権力者となった。ブルガーニンはこの時フルシチョフ支持を明確にしなかったことが原因で1958年に首相を解任させられる。首相職はフルシチョフが兼任することになり、トロイカ体制は終焉する。

フルシチョフ失脚後のトロイカ[編集]

ブレジネフ書記長(壇上最前列左)、コスイギン首相(壇上最前列右から2人目)、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(旗を受け取る人物)のトロイカ

1960年にヴォロシーロフの辞任にともないブレジネフが最高会議幹部会議長に就任した。ブレジネフは1963年にはフルシチョフの後継者とされたフロル・コズロフの後任として第二書記も兼ねたが、間もなく最高会議幹部会議長は長老派のミコヤンに譲らされる。ブレジネフは表向きはフルシチョフに忠実であったが裏では他の政治局員とともにフルシチョフ追放を画策する。1964年10月にフルシチョフを失脚させると第一書記に就任、最高会議幹部会議長はミコヤンが続投、首相にはコスイギンが就任し、トロイカ体制が復活する。しかしフルシチョフに近すぎたミコヤンはブレジネフに疎まれ翌1965年12月には辞任した。(政治局から改編された幹部会会員には1966年4月まで留まる)ミコヤン辞任後はポドゴルヌイが最高会議幹部会議長に就任した。

ブレジネフは1966年に第一書記という呼称をスターリン時代の書記長に戻す。権力の集中強化に努めたブレジネフは1977年にポドゴルヌイを追い落とし最高会幹部会議議長に就任、書記長と兼務した。ブレジネフの書記長、最高会幹部会議議長の兼任によりトロイカ体制は名実ともに終わりを告げた。

ゴルバチョフ時代のトロイカ[編集]

ブレジネフの死後、アンドロポフチェルネンコと高齢の指導者による短期政権が続いた後、1985年ゴルバチョフが書記長の座に就いた。ゴルバチョフはコスイギンのあとをうけ首相を務めていた高齢のチーホノフを解任しルイシコフを就けた。また、長年外相を務めたグロムイコを最高会議幹部会議長に祭り上げ、ここに三度トロイカ体制がスタートする。

ゴルバチョフは外相にシェワルナゼを任命し新思考外交を展開、内政的には改革開放路線であるペレストロイカ政策を推し進めた。1988年にグロムイコが辞任すると、ゴルバチョフは自ら最高会議幹部会議長に就任しトロイカ体制は終わる。しかしゴルバチョフは他のトロイカ体制を終わらせた指導者たちのように権力を強化することはできなかった。改革派と守旧派の対立の中で難しい政権運営を迫られており、ゴルバチョフの求心力は著しく低下していた。この後ゴルバチョフは新しく大統領制や最高会議を改組した人民代議員大会をスタートさせるも政権を安定させることはできなかった。1990年にルイシコフにかわって首相に就けたパブロフらが起こした1991年8月クーデターにより、クーデターそのものは失敗に終わるものの、これをきっかけにゴルバチョフの権威は決定的に失墜、代わってクーデター鎮圧を主導し、ロシア共和国を権力基盤に政界での存在感を増していた急進改革派のエリツィンに政局の主導権が移行し、彼の脱ソ連的政策により間もなくソビエト連邦の崩壊へと突き進むこととなった。

ソ連以外の社会主義国等[編集]

ドイツ民主共和国(東ドイツ)[編集]

ドイツ民主共和国では、1949年の建国の翌年には国家元首である大統領ヴィルヘルム・ピーク首相オットー・グローテヴォールドイツ社会主義統一党(SED)書記長(第一書記)のヴァルター・ウルブリヒトによるトロイカ体制が採られたが、1960年にピーク大統領が死去し、ウルブリヒトが新たに新設された国家評議会議長を兼務して国家元首となり、トロイカ体制はいったん終了した。

1971年、ソ連共産党指導部との関係が悪化したウルブリヒトは「健康上の理由」からSEDの第一書記の退任に追い込まれ、後継にはエーリッヒ・ホーネッカーが就任。ウルブリヒトは国家評議会議長の座には留まったため再び元首と実質的な最高指導者であるSEDの指導者、閣僚評議会議長(首相)が分離した体制となった。1973年にウルブリヒト国家評議会議長が死去した後も、ホーネッカーは国家評議会議長の座には就かず、閣僚評議会議長だったヴィリー・シュトフが後任の国家評議会議長となり、閣僚評議会議長ホルスト・ジンダーマンと共にトロイカ体制を維持した。しかし、1976年にホーネッカーは国家評議会議長兼務となり、シュトフは閣僚評議会議長(再任)、ジンダーマンは実権の無い人民議会議長へとそれぞれ格下げされて、トロイカ体制は終了した。

ハンガリー人民共和国[編集]

1956年のハンガリー動乱後のハンガリー人民共和国では、実質的最高指導者であるハンガリー社会主義労働者党中央委員会書記長カーダール・ヤーノシュは2度閣僚評議会議長(首相)を務めたものの、引退する1988年までの大半の期間は国家元首であるハンガリー国民議会幹部会議長、実務を担う首相の3職を分離させるトロイカ体制を敷いていた。

1988年のカーダールの退任後、カーロイ・グロースが首相を退任して書記長に就任したが、民主化の一環で党と政府が分離されるとグロースの後任の首相に就任した急進改革派のネーメト・ミクローシュらの権限が拡大し、1989年6月になるとグロースは党の最高指導者からも外されて事実上失脚した。

中華人民共和国[編集]

中華人民共和国では1978年から事実上の最高指導者となった鄧小平は自身が1981年中央軍事委員会主席となった上で、胡耀邦を1981年に総書記に、趙紫陽1980年首相にそれぞれ据えたことによる政治体制は鄧・胡・趙によるトロイカ体制と呼ばれ、1987年に胡耀邦が総書記を解任されるまで続いた。

ベトナム社会主義共和国[編集]

ベトナム社会主義共和国では実質的な最高指導者である共産党中央委員会書記長、国家元首である国家主席、実務を担う首相の3職を分離させるトロイカ体制を敷いていた。ベトナムではこの三職に国会議長を加えたものを、国家の「四柱」と呼んでいる[2]

しかし、2018年10月には病死したチャン・ダイ・クアン国家主席の後任としてグエン・フー・チョン共産党書記長が2021年4月まで国家主席を兼任し、元首と書記長を分離してきた原則が崩れている[3]

レバノン共和国[編集]

レバノン共和国では大統領キリスト教マロン派から、首相イスラム教スンニ派から、国会議長はイスラム教シーア派からそれぞれ選出することが慣例化しており、トロイカ体制と呼ばれている[4][5]

転用[編集]

出典[編集]

  1. ^ 木村明生著、クレムリン権力のドラマ レーニンからゴルバチョフまで、117ページ、朝日新聞社
  2. ^ 新国家主席を選出 - FOREIGN PRESS CENTER(ベトナム外務省プレスセンター 2016年4月5日)
  3. ^ “ベトナム書記長、国家主席を兼務=国会が選出-権力基盤を強化”. AFPBB News. フランス通信社. (2018年10月23日). http://www.afpbb.com/articles/-/3194395 2018年10月24日閲覧。 
  4. ^ “レバノンの次期大統領にラフード氏を選出 隣国シリアの思惑反映”. 読売新聞. (1998年10月16日) 
  5. ^ “ラフード氏新大統領、強力なイニシアチブ発揮/レバノン”. 読売新聞. (1998年12月4日) 
  6. ^ Republic of Congo - ONUC Background”. United Nations (2001年). 2015年12月29日閲覧。
  7. ^ アーカイブされたコピー”. 2006年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月8日閲覧。
  8. ^ 「代表取締役名誉会長」は何する人ぞ?”. 東洋経済新報社 (2013年12月26日). 2016年1月7日閲覧。
  9. ^ 2014年現在の日本の上場企業で、取締役名誉会長がいる会社はわずか17社、うち代表権を持った名誉会長がいるのはJR東海を除くと5社のみであった。
  10. ^ “JR東海社長に柘植副社長 葛西氏は名誉会長に”. 日本経済新聞. (2013年12月16日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD160QV_W3A211C1TJ1000/ 2016年1月7日閲覧。 
  11. ^ “代表権3人、トロイカ体制 JR東海、リニア・海外展開にらむ”. 産経新聞. (2013年12月17日). http://www.sankei.com/economy/news/131217/ecn1312170037-n1.html 2016年1月7日閲覧。 
  12. ^ 役員の異動について”. 東海旅客鉄道 (2013年12月16日). 2016年1月7日閲覧。
  13. ^ アニュアルレポート 2013” (PDF). 東海旅客鉄道. p. 31. 2016年1月7日閲覧。
  14. ^ 第27期有価証券報告書” (PDF). 東海旅客鉄道. pp. 39-40 (2014年6月24日). 2016年1月7日閲覧。

関連項目[編集]