ニコライ・カラムジン

1818年ヴァシーリー・トロピニンによって描かれたカラムジン

ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジンロシア語: Никола́й Миха́йлович Карамзи́нラテン文字: Nikolay Mikhailovich Karamzin、1766年12月12日旧暦:12月1日) - 1826年6月3日(旧暦:5月22日))は、ロシア帝国(現:ロシアシンビルスク県出身の貴族小説家詩人歴史家評論家文章語改革に尽力した[1][2]。大著に1816年からカラムジンが亡くなるまで著された全12巻からなる『ロシア国家史』(ru:История государства российского)がある[2]

ロシア文学に於ける散文を同国の思想家、貴族であるアレクサンドル・ラジーシチェフと共に開拓した。また、1792年に著されたカラムジンの主著『哀れなリーザ』『貴族の娘ナターリア』はロシアに於ける啓蒙主義主情主義センチメンタリズム)を代表する作品である[3][4]

同国の詩人、作家であるアレクサンドル・プーシキンの伯父ヴァシリー・プーシキン英語版と親しかった。また、ロマン主義の詩人であるヴァシーリー・ジュコーフスキーとも親しかった。

生涯

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1766年12月12日(旧暦:12月1日)に帝政ロシアシンビルスク近郊で地方の貴族の元に生まれる。モスクワで教育を受けた。

作家として

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フリーメーソンであったロシアのジャーナリスト、作家のニコライ・ノヴィコフ英語版に影響され、ドイツ劇作家思想家ゴットホルト・エフライム・レッシングイギリスの劇作家、詩人のウィリアム・シェイクスピアの作品を翻訳する傍らに詩や小説を著した[3][4]

1789年から1790年にかけて[5]西欧を旅行し、フランス革命を目の当たりにし、衝撃を受ける[3]

帰国して『モスクワ・ジャーナル』を創刊する。その後1791年から1792年に『ロシア人旅行者の手紙』を著す。

1792年に主情主義の代表作となる『哀れなリーザ』、『貴族の娘ナターリア』を著す。なお、1802年には『女代官マルファ』を著す。

晩年の1816年から亡くなるまで『ロシア国家史』を著した。

また、ロシアの口承叙事詩ブィリーナ』に登場する英雄イリヤ・ムーロメッツの派生作品も著している。

なお、日本に於けるカラムジンはロシア文学者、早稲田大学名誉教授、「カラムジン研究」で早稲田大学文学博士であった藤沼貴によって『近代ロシア文学の原点』が1997年れんが書房新社より出版された。

翻訳では、ロシア・ソビエト文学者であった除村吉太郎により『哀れなリーザ』が訳されている。

歴史家として

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歴史家のカラムジンの主な業績はキエフ大公国の国号キエフ・ルーシの概念を考案したり、スーズダリ公ペレヤスラヴリ公キエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーの妻アエパ・オセネヴィチがコンスタンティノープル出身だと結論づけた。

ツァレーヴィチウグリチ公ウグリチのドミトリーの死因について暗殺説を支持した。

パレモナス朝の伝説に関しては18世紀に『баснословны и явно основаны на догадках』でリトアニア人の起源を書くことで疑問を呈していた[6]

なお、イパーチー写本はカラムジンがコストロマにあるイパーチー修道院英語版で発見したものである。

評論家として

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ツァーリボリス・ゴドゥノフを「クロムウェルのような性質の持ち主」と評した。

ロマノフ朝第4代のロシア皇帝であるアンナの治世を酷評した。

1826年6月3日(新暦:5月22日)にサンクトペテルブルクで亡くなる。アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。

脚注

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  1. ^ カラムジン - goo辞書デジタル大辞泉、2012年10月30日閲覧。
  2. ^ a b カラムジン - Weblio、2012年10月30日閲覧。
  3. ^ a b c カラムジン - Yahoo!百科事典日本大百科全書、2012年10月30日閲覧。
  4. ^ a b 高津春繁・手塚富雄、西脇順三郎、久松潜一 『万有百科大事典 1 文学』 相賀徹夫、小学館〈日本大百科全書〉(原著1973年8月10日)、初版(日本語)、144ページ。
  5. ^ カラムジンとは - コトバンク、2012年10月30日閲覧。
  6. ^ Карамзин Н. М. История государства Российского — СПб., 1842 Т. II, гл. II. — С. 17, примечание 35。

参考文献

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関連項目

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