ノート:全学共闘会議


形容詞的文言を削除[編集]

以下の後から付け加えられた、形容詞的文言を削除しました。少なくとも参考文献に掲げられた本は最低限読んでおいて書き込んでもらいたいと思います。 しかし、私は1969年生まれですが、いい加減団塊の世代の尻拭いは馬鹿馬鹿しくなってきました。史実と事実の冷静な検証と評価が待たれるところですが、全共闘当事者は、私の「主観的印象」では、やりたいほうだいやってとんずらです。下記のような書き込みがあっても沈黙して平気なのがいい証拠です。厚生年金もらえるから過去の「恥」は口をつぐんでも平気ということでしょう。世代の継承、あるいは可能性の継承なんてあるわけない。立派な能書き=言い訳より背中を見ているんです。 もうこれ以上文章修正することはやめようとおもいます。--Taminato 2010年5月10日 (月) 07:27 (UTC) ++++++++++++++++++ ゲバ棒や鉄パイプを使い、暴力を信奉する学生運動組織あるいは[返信]

と幼稚な理論を展開し、暴れた。

が、自己否定して自ら退学する者はめったになかった。

が、卒業と同時に帝国主義の尖兵たる企業に就職し、搾取する側に回った。

芝居の

理念というほどのものはなく、

しかし、それは明瞭な誤りだ。全共闘運動により、学生運動は血なまぐさい不穏な運動と認識されるようになり、民衆の支持を失い、民主主義を破壊する結果となった。この民主主義の後退を挽回するのは容易ではない。

すなわち、糾弾という名のもとに、覆面で顔を隠し、存分に残忍な暴力を行使し、人権侵害を大々的に行った。

マスターベーションとしかいいようのない

ようするに子供の火遊びである。

これに対して、全共闘は民衆と乖離した大学の中だけのマスターベーションだった。

論評[編集]

Wikipediaは論評する場ではないため、「日本の全学共闘会議との違いに留意すべきだろう。」という記述はできません。--180.144.120.250 2009年12月10日 (木) 06:18 (UTC)[返信]

1969年総選挙について[編集]

以下の引用はTaminatoさんによる 2009年9月25日 (金) 12:51(UTC)の版にて加えられたコメントアウトの文章ですが、編集ページが肥大化して 分かりにくくなりそうなので、独断でノートページに移動させていただきました。

石川真澄『データ戦後政治史』を一読しましたが、1984年という、ソ連が存在し、米ソ冷戦構造かつ社会党が存続していた時代の分析原因をもってくる理由がいまいちわかりません。社会党はこのとき以降、支持が回復せず、長期停滞するわけで、学生反乱に悪印象をもった、という理由が一義的因果関係になるとは考えられません。同時に、勝っているものの自民党も得票率自体は落ちており、つまりこのときから無党派層が大量に出てくるわけで、脱既成社会主義=「脱イデオロギー」=ポストモダン時代がはじまったと同時に、政党政治=「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が不透明になったきた時代が1968年あたりからはじまったということではないでしょうか。また70年代美濃部東京都知事革新都政が、無党派層にささえられている=社会主義への幻滅という理由がこれにはあてはまらなくなる、という事実もあります。また、自然発生的なものがあり、既成左翼・新左翼の視点からずれるものを全共闘はかかえていたのではないでしょうか。そこで、データは残し、かつ変更を加えます。今現在から見た視点の著作があればどなたかさらなる変更をして頂ければ幸いです。

上の版のコメントアウトと、記事本文の総選挙に関する文章の編集内容について意見が3点あります。①と②はそれに基づいて既に編集させていただきました。ご理解が得られないようであれば、差し戻し(あるいは取り消し)て構いませんが、その場合は返答をお願いいたします。

①石川氏の分析を復活させる
1984年に書かれた著書とはいえ、岩波書店から出版され、今なお版を重ねている書籍でありますので、出典としては十分な信頼性があります。勿論、それをもって石川氏の見解が正しいということにはなりませんが、そもそもwikipediaは独自研究を禁じておりますので、Taminatoさんがその見解が間違いだと思ったからといって削除(コメントアウト)できる理由にはなりません。

②「何らかの変化」は独自研究に当たる
「いずれにしても、この時代以降、政党政治に何らかの変化が起きている。」との意見が最後に付されています。この意見はコメントアウトにある「脱既成社会主義=「脱イデオロギー」=ポストモダン時代がはじまったと同時に、政党政治=「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が不透明になったきた時代が1968年あたりからはじまった」というTaminatoさんの見解を基礎としているようです。意見の紹介は、信頼できる資料を提示した上で行わなければ独自研究にあたります。なお、石川氏の分析は、チェコ事件や文革といった社会主義国動乱に大学紛争、それらに対する社会党の対応といった諸要因が重なって社会党が大敗したという趣旨であり、決して「学生反乱に悪印象→社会党敗北」という一義的因果関係を論じたものではないことも指摘しておきます。社会党の低迷持続についても日本の経済大国化による社会主義不信の増幅という解説もなされています。

③総選挙の記述の位置について
これは、Taminatoさんの編集とは直接関係ありませんが、記事上における総選挙の位置について相談があります。現状では全学共闘会議 # 1.3 収束の末尾に納められていますが、総選挙の結果は全共闘運動の周縁部で起きた現象に過ぎないので、沿革の最後にもってくるのは不適当だと思います。全学共闘会議 # 2 評価に移すべきか、それとも新たに節を作るべきだと考えているのですがTaminatoさんその他利用者の方々ののご意見をお伺いたいしたいと思います。--Ethanol 2009年9月27日 (日) 12:09 (UTC)[返信]

Ethanol様

お返事及び議論の提示ありがとうございます。確かに私の見解は独自研究にすぎません。 まとめると、「議会選挙への全共闘の影響関係」ですよね。

①「独自研究」について
まず第一に率直な私の印象を申しますと、その時代に生まれていないものとしては、たかだか20歳前後の学生の「暴力」騒ぎが、はたして、因果関係として一義的に総選挙にここまで影響を持つほどのものだったのかとの疑問があるのです。そのヒステリー的にあらわれた暴力沙汰は社会党を大敗させるほどの「政治力」があったのでしょうか。

とはいえ、これはあくまで私の印象、「独自研究」に過ぎません

②コメントアウトについて
石川氏ー当時、朝日新聞編集委員かなにかだったとおもいますーにしても、社会党の大敗は、まず第一に驚くべき「予想外」で、理由を考えてみると時代の流れとしての「社会主義への幻滅」そして三派全学連などの暴力騒ぎへの悪印象も理由の一部としてあったのではというストーリーになっています。

やはり石川氏の書物にも挙げられている通り、データとして提示された無党派層の突然の急増、社会党の突然の支持率の急落と以後の支持率停滞をまず第一に、事実提示として強調すべきなのではないでしょうか。

そして、何より、石川氏の意見を、選挙結果の分析として「代表」あるいは「一般化」させてしまうのは、いささか無理があると思います。それがコメントアウトした第一の理由です。「岩波書店から出版され、今なお版を重ねている書籍でありますので、出典としては十分な信頼性があります」といっても新書の普及版ですし。相対化する作業か、名前を本文に直接提示して「石川氏の意見として」とする、

すなわち、『石川氏は、「まず第一に予想外」としながらも当時の三派全学連などのの「左翼暴力学生」の暴力沙汰も理由の一部として挙げている』などの形にしたほうがいいのではないでしょうか。

また、相対化としては、やはり近年の研究者の分析及び意見を挙げたいところです。あるいは、当時の新聞の選挙分析結果を、調べる。私もetanol様の協力を得つつ、折を見て行いたいと思います。

③総選挙の記述の位置について
位置の変更に賛成です。「総選挙への全共闘の影響」として欄を独立させることを提案いたします。

--Taminato 2009年9月29日 (火) 10:56 (UTC)   ④追記:「岩波書店から出版され、今なお版を重ねている書籍でありますので、出典としては十分な信頼性があります」[返信]

今現在、『データ戦後政治史』は絶版状態で、代わりに改訂をほどこして、岩波赤版から同じ著者で『戦後政治史』が1995年に出版されています。データ的・歴史的な部分(『データ戦後政治史』の前半部)は、同じ文章ですが、Etanol様が提示してくださった部分は、現行の『戦後政治史』から削除されております。もちろんその分析が、間違っていることが理由ではなく、単に記述すべきことがおおくなったということが、まず第一の理由だと推測されますが、そのことも「1984年という、ソ連が存在し、米ソ冷戦構造かつ社会党が存続していた時代の分析原因をもってくる理由がいまいちわかりません。」と書いた理由の一端です。

  • 総選挙への影響の部分を書き加えました。また位置を変更しました。私としては「全共闘の世代格差」の部分は、不満で、加筆する必要があると考えます。

--Taminato 2009年11月10日 (火) 13:40 (UTC)[返信]


1.2 展開[編集]

>そこにおいては「大学の自治」はもはや幻想にすぎず、そうした管理秩序総体を解体することこそが課題となる、と幼稚な理論を展開し、暴れた。

「幼稚」というのは主観であり、不適切な表現だと感じます。 >「大学の自治はもはや幻想にすぎず」といいながら、自分たちの自治会をでっち上げた。と書くべきかな。資料ではなく、体験からの記述です。あんぱん。--以上の署名のないコメントは、あんぱん会話投稿記録)さんが 2010年5月12日 (水) 05:19 (UTC) に投稿したものです(Rabit gtiによる付記)。[返信]

コメントあんぱんさん、「幼稚な理論」も「でっち上げた」も、いずれも中立的な観点上、適切な表現ではありません。「宣言した、自称した、主張した」などが妥当と思います。ご本人の「体験」は、検証可能性や出典にはなりません。また、ノートページにコメントする場合は署名してください。更に、中立的でなく、著作権上も問題な不適切な編集を繰り返しています[1][2][3]が、これは利用者‐会話:あんぱんで指摘しました。よろしくお願いします。--Rabit gti 2011年8月1日 (月) 14:43 (UTC)[返信]

内容には間違いも多いように思います[編集]

1967年に都内の大学に入学しました。いかなるセクトにも属したことはありませんが、当時のことをかなり体験しています。僭越ながら、この項目の内容には間違いがあるし、正確に伝えられていない部分が多いように思います。読まれる方は、それをご承知おき下さい。冒頭の定義からしてそうなのです。「1968年から1969年にかけて各大学で結成された学生自治会の連合体・全日本学生自治会総連合や学生が共闘した組織あるいは運動体である」とありますが、全共闘と自治会・全学連はからみあわない(重ならない)はずです。例えば日大では自治会が公認されていないという問題さえあったので、自治会がからむことはないのです。全学連は68年時点で3つありました。「民青」「革マル」「三派」です。「民青」は全共闘とは敵対しています。「革マル」は69年か70年に全共闘的部分とは敵対に近くなります。66年12月17日に再建結成したと称した「三派」は68年末以前に機能しなくなっています。「全共闘」は大きな象みたいなものです。どこを見るかによって違ってきます。日大には自治会がなかったので、日大全共闘に自治会はからまないと書きましたが、自治会がからんだ大学がないとは私には断言できません。全部の大学に目を配っていた(それを今でも記憶している)わけではないからです。逆に私のいた大学では自治会(学生大会)が前面に出ましたが、「全共闘」の名前は使っていません。△ウィキペディアでは出典のある記述には異議を出しにくいのですが、正しいとは言えない出典だって、この大きな象をめぐっていっぱいあるのです。「東大闘争は散ることで、全共闘運動は全国に燎原の火のごとくに燃え広がった」などという文章的技巧にまみれた出典も、間違いです。東大安田は69年1月18~19日ですが、全共闘運動は68年に全国に広がっています。「東大・日大闘争に併行して自然発生的に」などという表現は大きな間違いです。各大学がそれぞれに問題を抱えていたのです。△ですから「発端」という見出しも大いなる誤謬です。私は個人的には、1966年12月25日に、中央大学の学生会館闘争が、バリケードストライキで勝利したことがまさに「発端」なのではないかと考えています。それまでの授業放棄的ストライキで負け続けていた学生運動が、バリケードストライキで勝利し、68年にはそれが闘争事例を抱える大学に広がったのです。それはさておき、△「1970年代に入り、ニューレフト諸党派間で内ゲバにより累計100人以上の殺人が発生したほか、連合赤軍によるリンチ事件およびあさま山荘事件や、日本赤軍によるよど号ハイジャック事件などの事件により、急進的な学生運動は急速に支持を失い、自然発生的な全共闘は急速に崩壊した」というのも間違いです。全共闘の盛り上がりは68年で、69年の4.28や10.21では呼号したほどの闘いはすでに組めなかったのが現実で、69年は残り火みたいなもので、大衆的な学生の参加(支持)はなかったと思います。いっぽう革マルvs中核の内ゲバは、最初の発生が70年8月だった。連合赤軍・日本赤軍だって、70~72年のことです。むしろ、彼らのもとになったブントが69年春以降に四分五裂して組織としての体をなさなくなったことの方が、全共闘運動の沈滞を招いている。実情を知らない者が、思いつきで、ウィキペディアで求められるほどの検証もなしに著書を出し、それが出典になってしまっています。加えて、△全共闘運動を快く思わない人が、偏見と憎悪の形容詞で書き換えに参加しています。かと言って、私だって「これが真実だ」と言えるほどには全共闘の全体像を知らないから、容易には編集・訂正に手を出せません。△事実関係を超えた見出し「特徴」以降の部分に関しては特にそうです。困ったものだ。長文、ごめんなさい。これでも個別事例に踏み込めていません。--ジガンザン8108会話2012年3月4日 (日) 02:56 (UTC)[返信]

「活動を事実上後押し」[編集]

1.115.60.82さんがしんぶん赤旗のwebページを出典として「(後藤田正晴と富田朝彦は)連合赤軍内に「協力者」を持ち「謝礼金」を渡すことで、活動を事実上後押ししていた。革新勢力の影響力を削ぎ、国民の間に自民党への支持を取り付けるためである」とここ連合赤軍後藤田正晴富田朝彦に書いていますが、そもそもしんぶん赤旗には「活動を事実上後押ししていた」とまでは書いてないのでこの部分は独自研究に該たります。

ではこの独自研究の部分を除去したらどうかというと、今度はしんぶん赤旗の出典としての信頼性が問題になります。しんぶん赤旗の記事に示されている論拠は、「浅間山荘事件直後の国会」と「「朝日」69年5月3日付」だけで、とりあえず前者についてだけ見てみると、それらは衆議院 第068回国会 地方行政委員会 第2号参議院 第068回国会 地方行政委員会 第2号で全文が読めるわけですが、読んでみればわかるとおり、「当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。」のは(表現はともかく)事実なのですが、後藤田は「警察は、犯罪捜査に必要なための情報収集はいたしております。また、その情報収集に必要なために、部外の人の協力も得ております。その協力を得た場合には、協力の度合いなり、あるいはそういうことも考えて、実費程度の支払いをいたしております。しかし、具体的に、どの団体にどのようにそういう金を支払っておるかということは、私は、犯罪捜査の上から、ここでは答弁をいたしかねるわけでございます。」としか述べておらず、謝礼金の支払いが誰であるとも、協力者が誰であるとも述べていません。さらに、議事録中に引用されている昭和45年4月13日の衆議院連合審査会でも、川島(広)は「協力者には当然謝礼金を払っております。しかし、これはいわゆる協力の度合いでございますとか、先ほど申しましたようないろいろ協力関係の内容によってきまるわけでございまして、実際問題としては、いわゆる実費程度の金を渡しているわけです。今回の――今回と申しますか、いまお尋ねの赤軍派の協力者に対しましても、実費程度の金を渡しておることは事実でございます。」と述べるのみでありますから相手は「赤軍派の協力者」であって「連合赤軍の中の協力者」ではありません。さらに、

しんぶん赤旗が主張する、「ニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。」については、日本共産党の河田賢治林百郎が追及は確かにしているのですが、後藤田正晴にも富田朝彦にももちろん否定されて追及が奏功しないまま質問を終えているので、結局この記事の前段、「暴力集団を泳がせる」ため、との証明には全くなっていない(むしろ否定される方向)わけです。

とすると、しんぶん赤旗の記事自体が、事実を断片的に、いかにも関連があるかのように並べたものであって、なんら信頼しうる証明を経たものではなく、信頼できる資料とは評価できません。よって、これに依拠する記述も除去されるべきという結論に至ります。--EsCape The Fate会話) 2012年5月23日 (水) 01:25 (UTC)原典を読む気のない方向けに、誤解がないように表現を訂正しました。--EsCape The Fate会話2012年6月30日 (土) 07:10 (UTC)[返信]

コメントこんにちは。非当事者ですが、上記のEsCape The Fateさんの意見に全く賛成です。1.115.60.82さんの複数記事への修正[4][5][6][7]は、全て取消済ですが、出典が信頼できる資料と言えないだけでなく、中立的な観点とも言えません。該当の赤旗の「出典」[8]は、報道でもなく、日本共産党(系)の独自見解である「ニセ「左翼」暴力集団の泳がせ論」の主張で、他の政党や新聞(読売、朝日、毎日、日経、産経等)でも採用されていません。その特定の政治的主張を断定記述して、多数記事にコピペする手法も問題(政治宣伝であり目的外使用)と考えます。--Rabit gti会話2012年7月1日 (日) 01:51 (UTC)[返信]