パシフィック・リーグ

パシフィック・リーグ
競技野球
開始年1950年
参加チーム6
日本の旗 日本
前回優勝オリックス・バファローズ(25年ぶり13回目)
最多優勝埼玉西武ライオンズ(23回)
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パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2005年~)

パシフィック・リーグ: Pacific League)は、日本プロ野球リーグのひとつ。連盟(リーグ)公式テーマソングは、1978年に制定された白いボールのファンタジー

正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部パ・リーグ、またはと呼称される。

概要[編集]

日本におけるプロ野球リーグの一つで、北海道日本ハムファイターズ東北楽天ゴールデンイーグルス埼玉西武ライオンズ千葉ロッテマリーンズオリックス・バファローズ福岡ソフトバンクホークスの6球団から構成されている。

親会社はソフトバンク楽天を筆頭に売上高1兆円越えの巨大企業が名を連ねている。また、ドーム球場を本拠地にしている球団が多い。

一方、パ・リーグ各球団はセントラル・リーグのように観客収入を対巨人戦や対阪神戦に依存することが出来ないため、観客増を図るべく下記のような対策も実施している。

パ・リーグでは指名打者制(DH制)を導入しており、8人の野手と指名打者及び投手のスタメンで構成されている。

ファンサービス[編集]

現在、福岡ソフトバンクホークスは、観客動員数でNPB全12球団でセ・リーグの読売ジャイアンツ阪神タイガースに次ぐ3位でパ・リーグトップの観客動員数を誇る。また北海道に本拠地を移転した日本ハムや東北地方の大都市・仙台を本拠地とする楽天などの台頭もあるが、その他のパ・リーグの球団はセ・リーグの読売ジャイアンツや阪神タイガースはおろか、広島東洋カープに比べ観客動員が少ない。特にオリックス・バファローズなどは、それ以上にテレビ・ラジオ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、パ・リーグ全6球団では更なる観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。

パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズ1973年に結成したのが日本初)。

また、スタジアム内でも、福岡PayPayドームメットライフドームの勝利の花火、ZOZOマリンスタジアムでの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行うなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。

各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている[注 1]。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)

動画配信サービス[編集]

近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。

2007年(平成19年)5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。

また、2009年(平成21年)8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年(平成22年)からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。

携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。

2009年(平成20年)6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。2010年(平成21年)からは楽天、日本ハムもYouTube配信を開始し、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。

マンデー・パ・リーグ[編集]

2001年(平成13年)から2005年(平成17年)まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。

長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日や学校の長期休暇時の開催や、地方開催が関係した変則日程や、シーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。

しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年(平成13年)から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、の2連戦となるケースが一般的だった。ただし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多かった。また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が、J SPORTSNHK BS1などの衛星放送や文化放送ラジオ大阪RKBラジオKBCラジオなど普段からパ・リーグの試合を中継している局以外ではほとんど無く[注 2]、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。

セ・パ交流戦が実現したことで2005年(平成17年)を最後に廃止された。

沿革[編集]

パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(1950年シーズン開始時)

誕生[編集]

1949年(昭和24年)11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である[1]。初年度の1950年(昭和25年)は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。

当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの巨人戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した[注 3]。こちらが現在のセントラル野球連盟、いわゆるセントラル・リーグ(セ・リーグ)である。

1950年代 黎明期[編集]

この時代は鶴岡一人監督率いる南海ホークスと三原脩監督率いる西鉄ライオンズの黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年(昭和34年)にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年(昭和29年)のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(翌1955年のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年(昭和32年)2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、現在に至る。

1956年~1958年 西鉄ライオンズの三原マジック[編集]

1959年 南海ホークス、悲願の日本一[編集]

前述の通り、1950年代は南海と西鉄の2強時代だった。南海ホークスは鶴岡一人監督の下、データ野球という斬新な考えを取り入れた野球で優勝争いの常連チームとなり、1950年代において南海は5度のリーグ優勝(1951年・1952年・1953年・1955年・1959年)を成し遂げる。しかしながら、日本シリーズでは何れも読売ジャイアンツに過去4度において敗退した。

1959年シーズンはシーズン終盤に大毎オリオンズに首位を明け渡された時期はあったが、杉浦忠野村克也といった若いバッテリーの活躍もあり、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。1959年の日本シリーズでは、当時のセ・リーグ新記録となる5連覇を達成した読売ジャイアンツとの対戦となった。これまで南海は巨人に日本シリーズにおいて辛酸を舐められたが、杉浦の連戦での力投などに見られるようにリーグ1位のチーム防御率という投手陣の層の厚さで、巨人打線を抑え、日本シリーズでは初となるストレート4連勝かつ球団初の日本一を成し遂げ、鶴岡監督の悲願である打倒巨人がようやく実現した。優勝後、日本で初めてのビールかけが南海ナインの手によって行われた。そして当時の南海の本拠地だった大阪市民は球団初の日本一に熱狂し、シリーズ終了翌々日の10月31日に秋晴れの下でおこなわれた大阪市内の優勝パレードには沿道に20万人が集まり、「御堂筋パレード」と呼ばれた。

1960年代 衰退期[編集]

1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、パ・リーグには逆風となった。1960年(昭和35年)11月、毎日新聞社が大毎オリオンズの経営から事実上撤退しており、1965年(昭和40年)には完全撤退に至った。

このような中、大毎オリオンズのオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年(昭和37年)に「東京スタジアム」を完成させた。1969年(昭和44年)にロッテオリオンズに改称して翌年となる1970年(昭和45年)には東京スタジアムでのリーグ優勝を決めたが、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。

それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9(1965~1973年の9年連続日本一)をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった[注 4]

1962年 東映フライヤーズ 初のリーグ優勝・日本一[編集]

1964年 南海VS阪神の「関西シリーズ」[編集]

東京オリンピックに沸いた1964年(昭和39年)は南海ホークスが3年ぶり9度目のリーグ優勝を決める。この年の日本シリーズは南海と阪神タイガースの「関西シリーズ」という顔合わせとなった。

1962年~1972年 オリオンズの本拠地「東京スタジアム[編集]

当時のプロ野球は、東京地区においてはセ・リーグの読売ジャイアンツ(巨人)、国鉄スワローズ(国鉄)、そして毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が文京区後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。このうち大毎のオーナーだった永田雅一は私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、荒川区南千住の大和毛織工場跡地(旧千住製絨所)を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。

1962年(昭和37年)5月31日に完成された球場は「東京スタジアム」と命名された。6月2日、パ・リーグ全6球団がスタジアムに集結。午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。同日午後7時に初のプロ野球公式戦として、大毎対南海の7回戦が行われ、球場第1号本塁打は同試合で野村克也(南海)が放った。

アメリカサンフランシスコキャンドルスティック・パーク(当時のMLBサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)などをモデルにした東京スタジアムは、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造となっており、当時の南千住はマンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から『光の球場』と呼ばれた。スタンドの座席やエントランス部のスロープ式の通路などの工夫に加え、選手用の設備が当時としては最先端かつ大リーグ式の環境でありだったことが、選手からは好評だったという。「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。

東京スタジアムは大毎の本拠地として開業した。さらに1964年(昭和39年)にオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示し、結局1965年に完全撤退となり、経営権も永田が掌握した。また、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。さらに1965年(昭和40年)からは巨人がセ・リーグ9連覇という黄金期に入ったために、プロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。また球場の敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かったため、本塁打が出やすかった。そのため、1968年(昭和43年)にジョージ・アルトマンアルト・ロペスなどを獲得して、長打力強化を図った。その年はチームはAクラスとなる3位だった。

1969年(昭和44年)に菓子メーカー・ロッテをスポンサーに迎えて業務提携し、「ロッテオリオンズ」に改称。1970年(昭和45年)は前述の外国籍選手2名に加えて、山崎裕之榎本喜八有藤通世池辺巌木樽正明小山正明などが活躍して、本拠地・東京スタジアムで10年ぶり3度目のリーグ優勝を決めた。その時、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、この年の日本シリーズではV9の真最中でセ・リーグ6連覇だった巨人に1勝4敗と敗れた。なお奇しくもロッテの本拠地・東京スタジアムでの巨人の日本一の胴上げとなった。

1971年(昭和46年)に永田が経営していた大映が業績悪化のため、ロッテに経営権を譲渡した。しかし、大映は結局倒産する。関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年(昭和47年)に国際興業社主の小佐野賢治にの手に移った。その際、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、球団の年間観客数も頭打ちになっており、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、11月22日の段階で交渉は事実上決裂。小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。開場からわずか11年目のことだった。

1970年代 暗黒時代・阪急黄金時代[編集]

1969年(昭和44年)オフに発覚した八百長問題は、「黒い霧事件」として問題が拡大した。特に、4名が永久追放処分、2名が1年間活動停止等の処分を受けた西鉄ライオンズに致命的なダメージを与えただけでなく、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった。西鉄は1972年(昭和47年)にライオンズを中村長芳(当時福岡野球のオーナー)に譲渡し、太平洋クラブライオンズに改称し、球団経営から撤退した。さらに映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、東京オリオンズの親会社だった大映(永田雅一中村長芳)はロッテ1969年(昭和44年)~)へ[注 5]東映フライヤーズの親会社だった東映は日拓ホーム1973年(昭和48年)のみ)→日本ハムへ(1974年(昭和49年)~)[注 6] と、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ。

更にロッテオリオンズに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテを参照)。主に宮城球場宮城県仙台市)を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園神宮川崎など)でも主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年(昭和52年)まで続いた。そんな状況下でも、かつて国鉄スワローズ読売ジャイアンツで投手として活躍した金田正一監督の下、1974年(昭和49年)にリーグ優勝、その年の日本シリーズでも巨人の10連覇を阻止した中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、毎日オリオンズ以来24年ぶり2度目の日本一を果たした。

しかし1975年(昭和50年)にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の2シーズン制の採用(1973年(昭和48年)~1982年(昭和57年))、指名打者制度の採用(1975年(昭和50年)~現在)などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。

そんな中、1970年代は西本幸雄上田利治監督の下、福本豊山田久志長池徳士などを擁する阪急ブレーブスの黄金時代で、1967年(昭和42年)のリーグ初優勝を皮切りに、1978年(昭和53年)にかけて9度のリーグ優勝を果たした。特に1975年(昭和50年)から3年連続日本一となっていた。南海ホークスも野村克也選手兼任監督の下、ID野球の原型とも言える「シンキング・ベースボール」で、1973年(昭和48年)にリーグ優勝を果たす。

阪急や南海にはこうした人気があった。また関西球団同士のカード(特に南海主催のホームゲーム(大阪球場など))ではユーモア溢れる野次合戦など定評はあった。しかし、関西のスポーツ紙阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪神には人気は及ばず、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は急激には増えなかった。特に1977年(昭和52年)6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だった、と当時南海の監督であった野村克也は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。

とはいえ、南海ホークスは「キタの阪神、ミナミの南海」と呼ばれる程、1リーグ時代・2リーグ時代初期では阪神タイガースと並ぶ人気だったということもあり、その後も南海は関西では阪神に次ぐ人気球団だったという。最も福岡移転後の2003年(平成15年)に大阪球場跡地に大型商業施設「なんばパークス」が開業。所々に大阪球場にちなんだモニュメントやデザインが所在しており、上階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」という球団の沿革を示す展示コーナーも設置されており、展示の前では年配層を中心に立ち止まる人の姿が絶えず、未だ関西でホークスが根強い人気を持つことを示している。

1973年 プロ野球再編問題[編集]

球界を襲った黒い霧事件の影響は西鉄だけでなく、東映フライヤーズにも飛び火した。1970年(昭和45年)5月9日にはエースの森安敏明が同僚・田中調と共に、前年同事件で永久追放された永易将之の八百長工作に関連があったとされ、出場停止となり、7月30日に森安の永久追放が決定した。さらに、親会社の東映に至っては映画産業の斜陽に加え、1971年(昭和46年)に逝去した大川博の後任のオーナーに就任した大川毅やオーナー代行に就任した東映の岡田茂新社長には球団経営の意欲がなかったこともあり、1972年(昭和47年)シーズンオフに東映再建のため、球団売却を模索した。五島昇東急電鉄社長(球団の事実上の所有者)とともに当初は家電メーカーのパイオニアとの間で売却交渉を進めていたが、10月21日に買収を断念。

その後、1973年(昭和48年)1月16日に不動産会社の日拓ホームへ球団を売却し、「日拓ホームフライヤーズ」に改称された。「黒い霧事件」の後遺症が残る中、リーグに活気を取り戻すべく、日拓は球団運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出してきたが、同年9月中旬に球団売却が報じられたことをきっかけで、10月17日のパ・リーグのオーナー懇談会において、日拓のオーナーだった西村昭孝はNPBの1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策した。南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、セ・リーグ側からは猛反発を喰らわれ、合併は調印寸前で破談に至った。短期間で1リーグ制に向けた動きは終息したが、このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。その後11月19日に日拓ホームは球団の経営権を日本ハムに譲渡し、「日本ハムファイターズ」に改称した。

1973年~1977年 ジプシー・ロッテ[編集]

前述の通り、1972年(昭和47年)オフに東京スタジアムが閉鎖されたため、ロッテオリオンズは本拠地を失うことになり、1973年(昭和48年)からは引き続き東京都を保護地域としながら、宮城県仙台市宮城球場を暫定本拠地とし、首都圏(後楽園、神宮川崎など)や静岡市草薙球場を転々としながら主催試合を開催することとなった。

当初は明治神宮野球場を準本拠地として年20試合程度の開催を計画していたが、ヤクルトアトムズ(当時)大学野球などのに日程優先権がある影響で試合数が6試合と大幅に削減され、後楽園や川崎にその分を振り分けたといわれている。そこへ、仙台市や地元財界(東北野球企業など)などの提案により、宮城球場を暫定本拠地とすることになり、年26試合を開催した。当時はまだ、首都圏はおろか日本国内に本格的な照明設備を有する野球場が少なかったことも背景にあった。

また同年監督に就任した金田正一の人気や前期優勝争いに食い込んだこともあり、前年310,000人にとどまった観客動員数は当時のパ・リーグ新記録となる946,500人と大幅に増加した。1974年(昭和49年)からはロッテは宮城県仙台市の宮城球場を本拠地にし、保護地域も暫定的に東京都から宮城県に移転した。

しかし、球団事務所や合宿所などの諸施設は引き続き東京都内に置き、選手やコーチも東京近郊に自宅を置いたままだったので、暫定本拠地だった仙台での試合になると、仙台市内のホテルに宿泊し、試合前はホテルでユニフォームに着替えてバスで球場入り。試合後はユニフォームを着たままバスでホテルに帰るというビジターや地方遠征と何ら変わりない形で臨んでいた。また当時のパ・リーグ6球団の本拠地は、西日本地域に偏っており(関西地方に3球団(南海阪急近鉄)、九州地方に1球団(太平洋クラブ→クラウンライター)が所在)、また当時の仙台はまだ東北新幹線が未開通だったこともあり、移動は過酷だった。これらにより、ロッテの仙台移転は、首都圏に新たな本拠地を確保するまでの暫定措置に過ぎなかったとも言われている。

1974年のロッテは前期2位、後期優勝を決め、プレーオフに進出すると、前期優勝の阪急ブレーブスを退け、第3戦での地元・宮城球場で4年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、日本シリーズではロッテの主催試合は後楽園球場を使用することになった。これは当時の宮城球場の収容人数は28,000人[注 7]だったことなど施設が未整備なことが背景にあった。

1980年代 西武黄金時代[編集]

パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(1988年シーズン終了時)

1978年(昭和53年)シーズンオフに、西鉄から譲渡を受けたものの経営難に陥っていた中村長芳からクラウンライターライオンズを買収した西武グループ[注 8] は、球団経営に革命を起こす。埼玉県所沢市に大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実に加え、当時西武ライオンズの監督で後の球団管理部長などを務め上げる根本陸夫の下、トレードで田淵幸一山崎裕之などを、ドラフト会議で松沼博久雅之兄弟、石毛宏典秋山幸二辻発彦などを獲得するなど金に糸目をつけない選手補強などを行ったことで、それらの施策が功を奏し多くの観客が詰め掛け、1982年(昭和57年)に西鉄ライオンズ以来となる19年ぶりパ・リーグ優勝、その年の日本シリーズでも24年ぶりの日本一を決めたことを皮切りに、広岡達朗森祇晶監督の下、1980年代には実に5回の日本一(1982年1983年1986年1987年1988年)を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局・ラジオ局も巨人戦一辺倒から西武戦をも放送するようになった。

さらに近鉄バファローズも球団創設29年となる1979年(昭和54年)にリーグ初優勝を果たし、翌年の1980年(昭和55年)もリーグ連覇を果たす[注 9]。また翌年の1981年昭和56年)には後に「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズも東映フライヤーズ以来の19年ぶりのリーグ優勝を決めた。

また1970年代前後に入団した福本豊太田幸司門田博光村田兆治落合博満に加え、その頃から工藤公康渡辺久信清原和博阿波野秀幸西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。

1980年(昭和55年)に名称をパシフィック野球連盟に改称した。

しかし西武の躍進や阪急・近鉄などの健闘にも関わらず、セ・リーグとの観客動員数では依然として差があった。特に当時のロッテオリオンズの本拠地であり、老朽化が著しく、なおかつほとんど改修されなかったこともあり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場[注 10] では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景[注 11] が展開されるなど、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞フジテレビ系列の特別番組)でも格好のネタになっていた。川崎球場移転後のロッテも1983年(昭和58年)に球団初の最下位に転落するなど、成績でも苦難が続いた。

一方、黎明期において、かつて西鉄とリーグ優勝争いを繰り広げていた南海は、1977年(昭和52年)のシーズン途中に選手兼任で監督を務めていた野村克也の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任されると、当時の主力選手だった江夏豊柏原純一が他球団に移籍するなどの戦力低下もあり、翌年の1978年(昭和53年)以降は人気・成績の低迷が長引き、球団売却・福岡移転後の1997年(平成9年)まで20年連続Bクラスと、およそ20年に渡る暗黒期に突入した。

また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年(昭和56年)に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年(昭和58年)には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。結果的には阪急はこの年のリーグMVPとなったブーマー・ウェルズ福本豊今井雄太郎佐藤義則などが活躍し、1984年昭和59年)に6年ぶりのパ・リーグ優勝を果たした。しかし、それでも同じく西宮を本拠としていたセ・リーグの阪神タイガースが翌年の1985年(昭和60年)に21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに日本シリーズでは2年ぶりのパ・リーグ優勝の西武ライオンズを破り、球団初となる日本一になったことが関西中のみならず、マスメディアでも日本中の大きな話題となったこともあり、結局、阪急における直接的な観客増には結びつかなかった。

南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに1988年(昭和63年)秋に南海はダイエーに、阪急はオリエント・リース(現:オリックス)に、それぞれ球団譲渡を行った。

南海の身売りにおいては、この年は球団創設50年だったが、球団売却前の1986年(昭和61年)頃から当時の本拠地だった大阪球場を解体・撤去を見据えた難波地区再開発計画や、球団身売りに否定的だった名物オーナーの川勝傳が死去した事もあり、9月に南海の身売り発表が行われた。そして11月1日にダイエーへの球団譲渡並びに福岡市への本拠地移転が発表された。この年の南海は門田博光が本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、年間MVPに輝いた。

一方、阪急の身売り発表が行われたのは、10月19日17時であり、川崎球場でこの年に就任した仰木彬監督率いるリーグ2位の近鉄が、優勝をかけてリーグ最下位のロッテとのダブルヘッダー1試合目を行っている最中だった(10.19)。この試合は、パ・リーグとしては異例の注目を受けた。この試合は第1試合は近鉄が勝利するも、第2試合は引き分けに終わり、西武のリーグ3連覇が決まった日でもあった。この年のリーグ優勝を逃した近鉄だったが、元号が平成に変わった1989年(平成元年)は9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たす[注 12]

1988年 10.19[編集]

1990年代 イチロー&ドーム時代[編集]

パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2003年シーズン終了時)

昭和から平成に元号が変わった1990年代前半は森祇晶監督率いる西武黄金時代が続き、1990年(平成2年)~1994年(平成6年)までパ・リーグ史上唯一の5連覇、1990年1992年(平成4年)まで3年連続の日本一を飾ることになる。この頃の西武には野手陣は秋山幸二石毛宏典辻発彦伊東勤清原和博平野謙田辺徳雄オレステス・デストラーデなど、投手陣は工藤公康渡辺久信郭泰源石井丈裕鹿取義隆潮崎哲也渡辺智男などがチームを支えた。その頃のペナントレースは、西武に近鉄とオリックス、日本ハムが追う展開であった。

一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成したため、地元の誘致もあり、既に1989年(平成元年)に福岡市に移転していたダイエーは、ライオンズの本拠地だった平和台野球場から1993年(平成5年)に福岡ドームへ移転した。また1991年(平成3年)には当時阪急西宮球場を本拠地にしていたオリックスが神戸総合運動公園野球場に、1992年(平成4年)には当時川崎球場を本拠地としていたロッテが千葉マリンスタジアムにそれぞれ本拠地を移転した。

特に千葉ロッテマリーンズに至っては、千葉移転元年である1992年(平成4年)は移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録したものの、2年目の1993年(平成5年)は大きく落ち込んだ。ロッテはこの移転の際に地名を含む名称へ改称したが、徐々に観客は増えてきたとはいえ、当時はまだ地域密着があまり注目されておらず、1995年(平成7年)はチーム成績が好調だったこともあり、観客動員数が伸びた例はあったものの、千葉移転後も川崎時代から継続しての長期にわたる低迷もあり、観客動員数は伸び悩んだ。

そんな中、1994年(平成6年)はこの年に就任した仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウェーブで彗星のごとく登場したイチローは1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属するオリックスも1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の復興のシンボルとして、ファンからの後押しもあり1995年平成7年)・1996年平成8年)と連続優勝を成し遂げる。日本シリーズでは1995年は野村克也監督率いるヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたものの、翌年の1996年長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツに4勝1敗で勝利し、阪急ブレーブス以来となる19年ぶり4度目の日本一を決めるとともに、被災地の神戸市民を勇気づけた。

また、福岡ダイエーホークスについては、福岡市では11年ぶりにプロ球団が誕生したということもあり、歓迎ムードの方が大きかった。それでも南海時代から継続して下位低迷を続いていたこともあり、当時の平和台野球場スタンドには空席が目立つことが多かった。福岡ドームに本拠地を移した1993年(平成5年)には西武ライオンズで辣腕を振るった根本陸夫監督が専務兼任で就任し、チームの改革を行った。その年は最下位になるが、1994年(平成6年)には4位とAクラスを逃すも、1977年(昭和52年)以来となる17年ぶりのシーズン勝ち越しを決め、監督を勇退し専務に専念。後任には巨人の監督を歴任した王貞治が就任した。また、後のダイエーの主力となる秋山幸二工藤公康などを西武から獲得し、ドラフト会議でも城島健司柴原洋の他にも、逆指名制度を駆使して小久保裕紀井口資仁松中信彦などを獲得するなど、チームの強化を図った。王監督が就任してからの3年間はBクラスとなかなかチーム成績がついてこなかったが、こうした補強の成果は着実に現れており、1998年(平成10年)にオリックスとは同率ながら、南海時代の1977年以来となる21年ぶりのAクラスとなる3位を確保した翌年のリーグ優勝日本一、現在に至るまでのパ・リーグ屈指の人気球団・強豪ホークス復活への礎となる。

1990年代はイチローの他にも野茂英雄伊良部秀輝小宮山悟黒木知宏松坂大輔田口壮松井稼頭央小久保裕紀井口資仁松中信彦中村紀洋福浦和也里崎智也など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。

1988年(昭和63年)に日本初の屋根付き球場(ドーム球場)である東京ドームが完成し、日本ハムは前身の後楽園球場と同様、巨人と本拠地を併用することになった。その後、1993年(平成5年)に福岡ドームが、1997年(平成9年)に大阪ドームが新規開業したことに加え、1999年(平成11年)に西武ライオンズ球場の改装により西武ドームが誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの70%近くにまで増加した。

日本ハムファイターズは1988年に東京ドーム開業景気に恵まれ、パ・リーグ1位の観客動員数となるが、フロントは“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策が消極的になった。その後ドーム景気による観客増員効果は長続きせず、この年をピークに観客動員数は減少した。さらに福岡や大阪に加えて、セ・リーグでも1997年(平成9年)に中日ドラゴンズの本拠地としてナゴヤドームが開業した。そのため、ドーム球場の希少価値が相対的に低下し、観客動員数の低下に拍車をかけることになった。西崎の後に、田中幸雄岩本勉小笠原道大など日本ハムを支える看板選手が登場したが、チーム成績も前述の通り、フロントの補強策が消極的だったツケもあり、優勝争いをしたシーズンは3度(1993年1996年1998年)あったが、2度も最下位(1994年2001年)を経験するなど全体的には低迷した年が多く、結局東京ドーム最終年である2003年(平成15年)までの16年間で、一度もリーグ優勝ができなかった。

大阪近鉄バファローズも1997年に藤井寺球場から大阪ドームに本拠地を移転した。2001年(平成13年)に球団OBの梨田昌孝監督の下、タフィ・ローズ中村紀洋北川博敏(この年に阪神から移籍)などの活躍で球団最後となる12年ぶり4度目のリーグ優勝[注 13] を果たしたものの、ドーム開業当時は周辺に本来の親会社である近鉄の駅がなく、近鉄沿線から孤立してしまったため[注 14]、大阪ドーム元年である1997年をピークに、翌年以降は観客動員数が伸び悩んだ。またドーム自体もコンサートの利用数も振るわなかった上、大阪市の杜撰な対応ぶりや、親会社の近鉄グループの経営難も追い打ちをかけ、オリックスとの球団合併に発展し、後に2004年プロ野球再編問題を招くことになる。

2000年代 地域密着&IT時代[編集]

パ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(2004年シーズン終了時)

1999年(平成11年)には、福岡ダイエーホークスが26年ぶりのパ・リーグ優勝、さらにこの年の日本シリーズを制覇。翌2000年(平成12年)にもリーグ連覇を果たしたことで「地域密着球団」の成功例として球界に大きなインパクトを与えた。その後2003年(平成15年)にもパ・リーグ優勝、この年の日本シリーズの制覇を果たした。これが、後の2004年(平成16年)に日本ハムが地域密着型球団を目指して北海道へ移転する大きな契機になった。また、この移転とともに球団名も「北海道日本ハムファイターズ」と改められた(これにより、東京都を本拠地とするパ・リーグ球団が消滅した)。

2007年(平成19年)5月にパ・リーグ所属6球団により共同事業会社パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)を設立[2]。当初は携帯電話向けの動画配信サービス「プロ野球24」を主業務としていたが、2008年シーズンからはパ・リーグ全球団のウェブサイト、携帯電話向けウェブサイト、インターネット動画配信、携帯電話向け動画配信がPLMにより統合管理され、「クライマックス・パ」をはじめとした共同プロモーション展開などを担うこととなった。現在はメジャーリーグベースボールビジネスモデルを手本にしたリーグ統合型のビジネスを、球団の垣根を越えパ・リーグ全体で模索している。

2009年(平成21年)1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された[3](セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。

2004年 プロ野球再編問題[編集]

地域密着が本格的に注目されるようになったきっかけは、2004年(平成16年)6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表されたことである。これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、何れも宮城県をフランチャイズとし、宮城球場を本拠地とする球団として、楽天東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げ、同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定した。また福岡ダイエーホークスも親会社であるダイエーの経営危機により、「第2の合併チーム」として、千葉ロッテマリーンズとの合併騒動に見舞われるも、同年11月30日IT企業大手ソフトバンクに球団譲渡され、現在の「福岡ソフトバンクホークス」に改称し、事なきを得る。

これにより、2005年以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体が変換されたことのない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。セ・パ両リーグは、再編問題を契機に同年から交流戦を開始した。

パ・リーグ各球団の地域密着の主な取り組み[編集]

福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)の成功と東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生により、パ・リーグの各球団は、上述のプロ野球再編問題を教訓に様々な地域密着方針を打ち出している。

千葉ロッテマリーンズは、既に川崎から千葉に移転して観客は徐々に増加していたとはいえ依然として観客動員数が伸び悩んでいたため、行政とも協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出した。また、サッカーJリーグのサポーターに影響された熱烈な応援(マリーンズサポーター)や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンを増やすことにつなげた。その甲斐もあり、2005年(平成17年)には31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年(平成22年)にも再び日本一を達成した。

日本ハムファイターズは、1988年(昭和63年)から2003年(平成15年)にかけて東京ドームを本拠地としていた時代は、一度もリーグ優勝ができなかったことに加えて、ファンサービスやフロントの補強策が消極的だったこともあり、観客動員数やチーム成績の低迷にあえいでいた。2001年(平成13年)に札幌ドームが開業した事が転機となり、2004年(平成16年)にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転した。球団名を北海道日本ハムファイターズに改称した。移転当初の北海道では、長年にわたってテレビ中継が巨人戦中心だったこともあり、巨人ファンが圧倒的に多かった。そのため、新規ファンの開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや、自治体のバックアップと、移転後の球団フロント及び、監督や選手らによるファン獲得への努力により、既存の野球ファンをはじめ、その他にも、女性などの、これまで野球に関心のなかった層の獲得とファンの定着化に成功した[注 15]2006年(平成18年)には、本拠地移転を契機に僅か3年で、久しく遠ざかっていたリーグ優勝と日本一を達成、翌2007年にはリーグ連覇を果たし、以降は優勝争いに絡むシーズンも増え、飛躍的な変化を遂げ、北海道移転後は5度のリーグ優勝(2006年2007年2009年2012年2016年)、2度の日本一(2006年2016年)を果たしている。

福岡に本拠地を置いたダイエー → ソフトバンクや、千葉に移転したロッテなどに続いて、日本ハムが、プロ野球球団のなかった北海道に移転して新たにファンを開拓し、結果を出した。

東北楽天ゴールデンイーグルスも、2005年(平成17年)にプロ野球球団がなかった東北で誕生し、創設してから2年連続最下位と苦しむも、2006年(平成18年)に南海・ヤクルト・阪神の監督を歴任した野村克也が監督に就任して以降、徐々にチーム力を上げつつ、新たにファンを開拓した。そして2011年(平成23年)に中日・阪神、2008年北京五輪野球日本代表の監督を歴任した星野仙一監督が就任。3年目となる2013年(平成25年)には、田中将大が24勝0敗1Sという驚異的な成績を記録するなど、球団初のパ・リーグ優勝、さらにこの年の日本シリーズでは前年度日本一巨人との激闘を制し(4勝3敗)、球団初の日本一を成し遂げた。こうして、北海道・東北においてフランチャイズ球団が地域にもたらす効果や球団にもたらした変化など、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。

1980年代から2000年代前半にかけて、一時代を築いた西武ライオンズも、経営陣が刷新された後の2008年(平成20年)からは、球団名に「埼玉」を掲げ、現在の埼玉西武ライオンズに改称し、県内であるさいたま市大宮区大宮公園球場でも主催試合を行うなど地域密着の姿勢を打ち出した。その年は日本一を決めた。

こうして、これらにより、新たな地域密着型のリーグとしての型が確立されることとなった。

2010年代 ソフトバンク黄金時代[編集]

2010年(平成22年)、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年2012年シーズンも継続していた。

2013年(平成25年)はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」にも協賛することになりモブキャストの冠を添えることになった。

2010年代、セ・パ交流戦では、勝数はすべての年でセントラル・リーグを上回り[注 16]、2021年(令和3年)現在、優勝チーム[注 17] を8回出した。日本シリーズでも1回を除き所属球団が日本一となり[注 18]、特にソフトバンクは、セ・リーグ全球団を相手[注 19] に日本一となった。また2013年(平成25年)の日本シリーズで楽天が日本一になったため、現存するパ・リーグ全6球団はもちろん、NPB設立以来史上初となるNPBに加盟している全12球団が全て日本一を経験したことになった。 また日本シリーズでは、2013年から2020年まで、東北楽天ゴールデンイーグルスが読売ジャイアンツを4勝3敗で勝利して以降、パ・リーグ代表チームが8連勝中となり、そのうち6勝がソフトバンクによるものだった。2021年オリックス・バファローズが25年ぶりに出場。オリックスが勝利すれば9連勝で、かつて巨人が1965年から1973年にかけて達成した「V9」と並ぶタイ記録だったが、東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ代表)に2勝4敗で敗退し、実現しなかった。

以下に、実数発表となった2005年以降のペナントレース(リーグ戦+セ・パ交流戦)における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す[4]2017年シーズンには、平均観客数の上位3チームが札仙広福(地方中枢都市)に所在する地方球団(★)となり、下位3チームが三大都市圏に所在するチームになった。

2020年代~現在[編集]

現存する加盟球団[編集]

一覧[編集]

パシフィック・リーグの加盟球団
    球団名 保護地域 創設年度 本拠地球場 チームカラー
Nippon Fighters insignia.PNG 北海道日本ハムファイターズ
(Hokkaido Nippon-Ham Fighters)
北海道 1946年 札幌ドーム
札幌市豊平区北緯43度0分54.69秒 東経141度24分34.87秒 / 北緯43.0151917度 東経141.4096861度 / 43.0151917; 141.4096861 (北海道日本ハムファイターズ(札幌ドーム))
Rakuten eagles insignia.png 東北楽天ゴールデンイーグルス
(Tohoku Rakuten Golden Eagles)
宮城県 2005年 楽天生命パーク宮城
仙台市宮城野区北緯38度15分22.09秒 東経140度54分9.24秒 / 北緯38.2561361度 東経140.9025667度 / 38.2561361; 140.9025667 (東北楽天ゴールデンイーグルス(楽天生命パーク宮城))
Seibu lions insignia.png 埼玉西武ライオンズ
(Saitama Seibu Lions)
埼玉県 1950年 メットライフドーム
所沢市北緯35度46分7.02秒 東経139度25分13.67秒 / 北緯35.7686167度 東経139.4204639度 / 35.7686167; 139.4204639 (埼玉西武ライオンズ(メットライフドーム))
Lotte marines insignia.png 千葉ロッテマリーンズ
(Chiba Lotte Marines)
千葉県 1950年 ZOZOマリンスタジアム
千葉市美浜区北緯35度38分42.42秒 東経140度1分51.05秒 / 北緯35.6451167度 東経140.0308472度 / 35.6451167; 140.0308472 (千葉ロッテマリーンズ(ZOZOマリンスタジアム))
Buffaloesinsignia.png オリックス・バファローズ
(ORIX Buffaloes)
大阪府 1936年 京セラドーム大阪
大阪市西区北緯34度40分9.85秒 東経135度28分34.37秒 / 北緯34.6694028度 東経135.4762139度 / 34.6694028; 135.4762139 (オリックス・バファローズ(京セラドーム大阪))
SoftBank Hawks insignia.png 福岡ソフトバンクホークス
(Fukuoka SoftBank Hawks)
福岡県 1938年 福岡PayPayドーム
福岡市中央区北緯33度35分43.38秒 東経130度21分43.83秒 / 北緯33.5953833度 東経130.3621750度 / 33.5953833; 130.3621750 (福岡ソフトバンクホークス(福岡ヤフオク!ドーム))

※球団表記順は野球協約の保護地域表記順

各球団の略年譜[編集]

球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 遍歴
オリックス・
バファローズ

1936年1月23日阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を親会社として阪急軍(阪急職業野球団)を結成。宝塚球場を本拠地とする
1937年阪急西宮球場に本拠地を移転
1947年、球団名を阪急ベアーズに改称(シーズン中に球団名を阪急ブレーブスに改称)
1988年、阪急電鉄がオリエント・リース(オリックス)に球団を譲渡
1989年、球団名をオリックス・ブレーブスに改称
1991年、球団名をオリックス・ブルーウェーブに改称。神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)に本拠地を移転
2004年、シーズン終了後に大阪近鉄バファローズと合併
2005年、球団名をオリックス・バファローズに改称。ダブルフランチャイズ制を採用[注 20]
2007年大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠地に、神戸総合運動公園野球場を準本拠地とする

福岡ソフトバンク
ホークス

1938年3月29日南海鉄道(後の南海電気鉄道)を親会社とした南海軍日本野球連盟に加盟。堺大浜球場を本拠地とする
1939年中百舌鳥球場を本拠地とする
1944年陸上交通事業調整法による近畿日本鉄道の誕生(南海鉄道と関西急行鉄道との合併企業)に伴い、シーズン中に球団名を近畿日本軍に改称
1946年、球団名をグレートリングに改称
1947年、近畿日本鉄道による南海電気鉄道への事業譲渡に伴い、シーズン中に球団名を南海ホークスに改称
1948年阪神甲子園球場に本拠地を移転
1950年大阪スタヂアムに本拠地を移転
1988年、南海電気鉄道の球団株式売却によりダイエーが経営権を持つ
1989年、球団名を福岡ダイエーホークスに改称。平和台野球場に本拠地を移転
1993年福岡ドームに本拠地を移転
2005年、ダイエーの球団株式売却によりソフトバンクが経営権を持つ。球団名を福岡ソフトバンクホークスに改称

埼玉西武
ライオンズ

1949年11月26日西日本鉄道を親会社とした西鉄クリッパースがパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする
1951年、シーズン開幕前に西日本パイレーツと合併。球団名を西鉄ライオンズに改称
1972年中村長芳(ロッテオリオンズオーナー)が球団を買収。太平洋クラブとの提携を表明
1973年、球団名を太平洋クラブライオンズに改称
1976年クラウンガスライターとの提携を表明
1977年、球団名をクラウンライターライオンズに改称
1978年国土計画西武鉄道の元親会社)が球団を買収
1979年、球団名を西武ライオンズに改称。西武ライオンズ球場に本拠地を移転
1999年、西武ライオンズ球場のドーム化工事が完了。西武ドームとなる
2008年、球団名を埼玉西武ライオンズに改称

北海道日本ハム
ファイターズ

1945年11月6日セネタースが日本野球連盟に加盟
1946年東京急行電鉄が経営権を持つ
1947年、球団名を東急フライヤーズに改称
1948年、大映野球が経営参加を表明。球団名を急映フライヤーズに改称。後楽園球場を本拠地とする
1949年、大映野球の経営撤退に伴い、球団名を再び東急フライヤーズに改称
1953年、シーズン中に駒澤野球場に本拠地を移転
1954年東映に球団経営を委託。球団名を東映フライヤーズに改称
1962年明治神宮野球場に本拠地を移転
1964年、後楽園球場に本拠地を再移転
1973年、東映の球団株式売却により日拓ホームが経営権を持つ。球団名を日拓ホームフライヤーズに改称
同年、シーズン終了後に日拓ホームが球団株式売却。日本ハムが経営権を持つ
1974年、球団名を日本ハムファイターズに改称
1988年後楽園競輪場跡地に開場した東京ドームに本拠地を移転
2004年北海道移転に伴い球団名を北海道日本ハムファイターズに改称。札幌ドームに本拠地を移転

千葉ロッテ
マリーンズ

1949年11月26日毎日新聞社を親会社とした毎日オリオンズがパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする
1957年、シーズン終了後に大映ユニオンズと合併
1958年、球団名を毎日大映オリオンズに改称
1962年、シーズン中に東京スタジアムに本拠地を移転
1964年、球団名を東京オリオンズに改称
1969年ロッテが経営参加を表明。球団名をロッテオリオンズに改称
1973年宮城球場に本拠地を移転[注 21]
1978年川崎球場に本拠地を移転
1992年千葉県移転に伴い球団名を千葉ロッテマリーンズに改称。千葉マリンスタジアムに本拠地を移転

東北楽天
ゴールデンイーグルス

2004年11月2日楽天を親会社とした東北楽天ゴールデンイーグルスがパシフィック・リーグに加盟。宮城球場を本拠地とする

  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記

過去に存在した加盟球団[編集]

パシフィック・リーグの消滅球団と成績
球団名 創設年度 優勝回数 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
大阪近鉄バファローズ
Osaka Kintetsu Buffaloes
(1950年 - 2004年)
1949年 4 7119 3261 3720 271 .467
大映ユニオンズ
Daiei Unions
(1950年 - 1957年)
1946年 0 1029 415 586 28 .415
高橋ユニオンズ
Takahashi Unions
(1954年 - 1956年)
1954年 0 435 147 280 8 .344
  • 成績はリーグが結成された1950年以降のもの
球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 遍歴
大映ユニオンズ

1946年2月18日ゴールドスターが日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする
1947年、球団名を金星スターズに改称
1949年大映が球団を買収。球団名を大映スターズに改称
1957年、シーズン開幕前に高橋ユニオンズと合併。球団名を大映ユニオンズに改称
同年、シーズン終了後に毎日オリオンズと合併。合併球団名は毎日大映オリオンズとなる

大阪近鉄バファローズ

1949年11月26日近畿日本鉄道を親会社とした近鉄パールスがパシフィック・リーグに加盟。藤井寺球場を本拠地とする
1950年、シーズン中に大阪スタヂアムに本拠地を移転
1958年日本生命球場に本拠地を移転
1959年、球団名を近鉄バファローに改称
1962年、球団名を近鉄バファローズに改称
1984年、藤井寺球場に本拠地を再移転
1997年、大阪ドームに本拠地を移転
1999年、球団名を大阪近鉄バファローズに改称
2004年、シーズン終了後にオリックス・ブルーウェーブと合併。合併球団名はオリックス・バファローズとなる

高橋ユニオンズ

1954年2月4日高橋ユニオンズがパシフィック・リーグに加盟。川崎球場を本拠地とする
1955年トンボ鉛筆との提携を表明。球団名をトンボユニオンズに改称
1956年、トンボ鉛筆の経営撤退に伴い、球団名を再び高橋ユニオンズに改称
1957年、シーズン開幕前に大映スターズと合併。合併球団名は大映ユニオンズとなる

  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの
  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記

試合方式[編集]

総当り回数[編集]

1952年フランチャイズホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。

  • 1950年 - 1951年:20回 120試合
  • 1952年:18回(予選:全チーム)108試合+4回(決勝:上位4チーム) 12試合 ※1
  • 1953年 - 1955年:20回 (1953年:120試合、1954年・1955年:140試合)
  • 1956年 - 1957年:22回 (1956年:154試合 1957年:132試合)
  • 1958年 - 1960年:26回 130試合
  • 1961年:28回 140試合
  • 1962年:26回 130試合
  • 1963年 - 1964年:30回 150試合
  • 1965年:28回 140試合
  • 1966年 - 1996年:26回 130試合
  • 1997年 - 2000年:27回 135試合 ※2
  • 2001年 - 2003年:28回 140試合
  • 2004年:27回 135試合 ※2
  • 2005年 - 2006年:20回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)6回 136試合
  • 2007年 - 2014年:24回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回 144試合
  • 2015年 - 2019年、2021年:25回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)3回 143試合 ※2、3
  • 2020年:24回 120試合

※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった。
※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年 - 2019年、2021年はリーグ間の対戦は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997年 - 2000年、2004年は14試合、2015年以降は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年[注 22]を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。
※3:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりであるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。

引き分けに関する扱い
  • 引き分け再試合制度実施年:1952年、1955年、1959年 - 1960年、1962年、1966年 - 1968年
  • 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1958年、1961年

上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。

  • 1951年:同年10月20日より開催の日米野球に伴う日程上の都合で同月7日限りでペナントレースを打ち切り。
  • 2004年:選手会が球団合併凍結などを求めたプロ野球ストライキを9月18日と19日に決行したため、同日に予定されていた全試合を中止。
  • 2020年:新型コロナウイルス感染拡大の影響で開幕が約3ヶ月延期となり、シーズン日程を再考。交流戦が中止となるなど一部日程が変更され、当初の143試合から120試合に試合数を削減。

指名打者制度[編集]

1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。

時間・回数制限[編集]

内容
1950年 - 1951年

シングルの場合は時間・回数制限なし(デーゲームの場合日没まで)
ダブルヘッダー第1試合の延長は原則として12回。ただしナイトゲーム(薄暮含む)は9回まで

1952年

変則ダブルヘッダー第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限

1953年

シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。以後1970年まで同じ)
変則ダブルヘッダー第1試合は12回まで。ナイトゲームは23:45を過ぎて次のイニングに入らない

1954年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ)
ナイトゲームは22:45を過ぎて次のイニングに入らない

1955年 - 1958年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない

1959年 - 1960年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで(延長戦なし)
ナイトゲームは22:30を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1964年まで同じ)

1961年 - 1964年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ)

1965年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ)

1966年 - 1967年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで

1968年 - 1970年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで
ナイトゲームは22:20を過ぎて次のイニングに入らない

1971年 - 1973年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで
それ以外の試合(ダブルヘッダー第2試合含む)は試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある
(1):19:00以後開始の場合は経過時間に関係なく22:20を過ぎて次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1974年 - 1987年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで
それ以外の試合は原則として試合開始から3時間を経過して次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある
(1):19:00以後開始の試合は経過時間に関係なく22:00を過ぎて次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1988年 - 1989年

ダブルヘッダー第1試合は9回。それ以外は原則として延長12回まで。ただし、以下の規定がある
(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1990年 - 1993年

延長12回まで。ただし、以下の規定がある
(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

1994年 - 2010年

延長12回まで、時間制限なし

2011年 - 2012年

延長12回まで。ただし、東日本大震災に伴う節電対策として以下の規定がある
(1):試合開始から3時間30分(雨天等による中断時間も含む)が経過した場合は次のイニングに入らない
(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する

※ただしクライマックスシリーズでは時限なし。
2013年 - 2019年

延長12回まで、時間制限なし

2020年

延長10回まで、時間制限なし[注 23]

2021年

延長なし、時間制限なし[注 23]

備考[編集]

1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。

1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。

2004年以降は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行う。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)・パシフィック・リーグの項を参照。

プレーオフ制度導入の背景[編集]

プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。

1952年
プロ野球の場合は、サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない消化試合は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。
しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。
1973年 - 1982年
1973年には2シーズン(前後期)制を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。
導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。
1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。
1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。
なお、前後期制については1962年のオフにも「営業的にプラスが見込める」としてリーグ理事会で導入を検討したことがあったが、日程作成の困難を理由に見送りとなった。
1983年 - 1985年
1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。
しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は西武、84年は阪急)が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。
2004年 - 2006年
その後セ・リーグ同様に通常の1シーズン制に戻して開催することとなったが、シーズンによっては独走で1位チームが優勝することもあり、前述のように試合の質を落とす懸念から2004年シーズンに上位3チームによるトーナメント方式のプレーオフ制度が導入された。このときは、第1ステージ勝ち上がりチームが日本シリーズに出場した場合、そのチームがリーグ優勝チームという扱いであった。
しかしこの制度に関しても、1位通過チームに対する第2ステージのアドバンテージ(2005年度までは1位チームと第1ステージ勝ち上がりチームのレギュラーシーズンのゲーム差が5ゲーム以上付いていた場合、1位チームに1勝分のアドバンテージが与えられる)の扱いや、2005年に「勝ってしまうと3位チームがプレーオフに出場できない」という事態が発生した(詳細はプレーオフ制度内の脚注参照)ことなどから、2006年度は以下のようにルールを改正した。
  1. 1位通過チームはゲーム差に関係なく、第2ステージのアドバンテージ1勝分を与える。
  2. 1位通過チームが複数同率で発生した場合でも第1ステージを行う。その場合、同率1位チームの当該チーム間のその年度の対戦成績の勝ち越しチーム(同数は前年度の順位を参考)を1位と見なし、2位扱いのチームと3位チームとで第1ステージを行うこととする。
  3. また、第2ステージの第3・4戦は、第1ステージ勝ち上がりチームのホームスタジアムを使用して行うことにする。
2007年 - 現在

クライマックスシリーズを参照。

「実力のパ」[編集]

人気球団の読売ジャイアンツ阪神タイガースを擁するセントラル・リーグが「人気のセ」と言われることに対して、ここ数年の日本シリーズの成績、交流戦の勝ち越し、オールスターゲームの勝利数、対抗意識などから「実力のパ」といわれている。

パ・リーグ各球団の私設応援団やファンがリーグとしての結束力を強固なものにすることを目的とし、パ・リーグをこよなく愛するファンの団体として、1982年(昭和57年)より宮田親平らにより発足した「純パの会」という組織が存在する[5]

交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く[注 24]、2010年に至っては、交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであった。

さらに、日本シリーズにおいては、2003年(平成15年)以降、2020年(令和2年)現在までの18年間において、オリックスを除いたパ・リーグ所属の5チームが15回も日本一を果たしており、2019年(平成31年→令和元年)の日本シリーズでは、ソフトバンクが巨人を4勝0敗で勝利し日本一になったため、日本シリーズにおけるセ・リーグ代表チームとパ・リーグ代表チームの勝利数が35で並んだ他、勝利試合数も、2019年の本シリーズ前の時点では、セ・リーグ202勝パ・リーグ201勝でセ・リーグ優勢だったが、ソフトバンクが初戦から連勝したことで第2戦終了時点で203勝と逆転し、結果的にパ・リーグの205勝202敗8引分と勝ち越した。また翌年の日本シリーズでもソフトバンクが4勝0敗で終了したため、パ・リーグの209勝202敗8引分となった他、シリーズ対戦成績がセ・リーグ35勝、パ・リーグ36勝となり、パ・リーグが通算対戦成績を逆転する結果となった。

結果[編集]

  • 年度背景桃色は日本シリーズ優勝。*は左のチームと同率順位
  • 1973年 - 1982年の二期制時代と2004年 - 2006年のパシフィック・リーグ プレーオフ実施時代は、プレーオフ勝利チームが優勝チームとなったため、レギュラーシーズン勝率1位のチームが優勝ではない年がある。
  • 1973年 - 1982年の二期制時代の★印は前期優勝チーム、☆印は後期優勝チーム。
  • 2006年までは優勝チームが日本シリーズに出場。クライマックスシリーズ導入後の2007年以降の日本シリーズ出場チームは太字で示す。
年度 優勝 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位
1950 毎日 81 34 5 南海 66 49 5 大映 62 54 4 阪急 54 64 2 西鉄 51 67 2 東急 51 69 近鉄 44 72 4
1951 南海 72 24 8 西鉄 53 42 10 毎日 54 51 5 大映 41 52 8 阪急 37 51 8 東急 38 56 8 近鉄 37 56 5
1952 南海 76 44 1 毎日 75 45 西鉄 67 52 1 大映 55 65 1 阪急 49 58 1 東急 49 59 近鉄 30 78
1953 南海 71 48 1 阪急 67 52 1 大映 63 53 4 西鉄 57 61 2 毎日 56 62 2 東急 50 67 3 近鉄 48 69 3
1954 西鉄 90 47 3 南海 91 49 毎日 79 57 4 近鉄 74 63 3 阪急 66 70 4 高橋 53 84 3 東映 52 86 2 大映 43 92 5
1955 南海 99 41 3 西鉄 90 50 4 毎日 85 55 2 阪急 80 60 2 近鉄 60 80 2 大映 53 87 1 東映 51 89 3 トンボ 42 98 1
1956 西鉄 96 51 7 南海 96 52 6 阪急 88 64 2 毎日 84 66 4 近鉄 68 82 4 東映 58 92 4 大映 57 94 3 高橋 52 98 4
1957 西鉄 83 44 5 南海 78 53 1 毎日 75 52 5 阪急 71 55 6 東映 56 73 3 近鉄 44 82 6 大映 41 89 2
年度 優勝 2位 3位 4位 5位 6位
1958 西鉄 78 47 5 南海 77 48 5 阪急 73 51 6 大毎 62 63 5 東映 57 70 3 近鉄 29 97 4
1959 南海 88 42 4 大毎 82 48 6 東映 67 63 5 西鉄 66 64 14 阪急 48 82 4 近鉄 39 91 3
1960 大毎 82 48 3 南海 78 52 6 西鉄 70 60 6 阪急 65 65 6 東映 52 78 2 近鉄 43 87 1
1961 南海 85 49 6 東映 83 52 5 西鉄 81 56 3 大毎 72 66 2 阪急 53 84 3 近鉄 36 103 1
1962 東映 78 52 3 南海 73 57 3 西鉄 62 68 6 大毎 60 70 2 阪急* 60 70 1 近鉄 57 73 1
1963 西鉄 86 60 4 南海 85 61 4 東映 76 71 3 近鉄 74 73 3 大毎 64 85 1 阪急 57 92 1
1964 南海 84 63 3 阪急 79 65 6 東映 78 68 4 東京 77 68 5 西鉄 63 81 6 近鉄 55 91 4
1965 南海 88 49 3 東映 76 61 3 西鉄 72 64 4 阪急 67 71 2 東京 62 74 4 近鉄 46 92 2
1966 南海 79 51 3 西鉄 75 55 8 東映 70 60 6 東京 61 69 4 阪急 57 73 4 近鉄 48 82 3
1967 阪急 75 55 4 西鉄 66 64 10 東映 65 65 4 南海 64 66 3 東京 61 69 7 近鉄 59 71 2
1968 阪急 80 50 4 南海 79 51 6 東京 67 63 9 近鉄 57 73 5 西鉄 56 74 3 東映 51 79 5
1969 阪急 76 50 4 近鉄 73 51 6 ロッテ 69 54 7 東映 57 70 3 西鉄 51 75 4 南海 50 76 4
1970 ロッテ 80 47 3 南海 69 57 4 近鉄 65 59 6 阪急 64 64 2 東映 54 70 6 西鉄 43 78 9
1971 阪急 80 39 11 ロッテ 80 46 4 近鉄 65 60 5 南海 61 65 4 東映 44 74 12 西鉄 38 84 8
1972 阪急 80 48 2 近鉄 64 60 6 南海 65 61 4 東映 63 61 6 ロッテ 59 68 3 西鉄 47 80 3
二期制開始
1973 南海 68 58 4 阪急 77 48 5 ロッテ 70 49 11 太平洋 59 64 7 日拓 55 69 6 近鉄 42 83 5
1974 ロッテ 69 50 11 阪急 69 51 10 南海 59 55 16 太平洋 59 64 7 近鉄 56 66 8 日本ハム 49 75 6
1975 阪急 64 59 7 近鉄 71 50 9 太平洋 58 62 10 ロッテ 59 65 6 南海 57 65 8 日本ハム 55 63 12
1976 ★☆阪急 79 45 6 南海 71 56 3 ロッテ 63 56 11 近鉄 57 66 7 日本ハム 52 67 11 太平洋 44 76 10
1977 阪急 69 51 10 南海 63 55 12 ロッテ 60 57 13 近鉄 59 61 10 日本ハム 58 61 11 クラウン 49 73 8
1978 ★☆阪急 82 39 9 近鉄 71 46 13 日本ハム 55 63 12 ロッテ 53 62 15 クラウン 51 67 12 南海 42 77 11
1979 近鉄 74 45 11 阪急 75 44 11 日本ハム 63 60 7 ロッテ 55 63 12 南海 46 73 11 西武 45 73 12
1980 近鉄 68 54 8 ロッテ 64 51 15 日本ハム 66 53 11 西武 62 64 4 阪急 58 67 5 南海 48 77 5
1981 日本ハム 68 54 8 阪急 68 58 4 ロッテ 63 57 10 西武 61 61 8 南海 53 65 12 近鉄 54 72 4
1982 西武 68 58 4 日本ハム 67 52 11 近鉄 63 57 10 阪急 62 60 8 ロッテ 54 69 7 南海 53 71 6
二期制終了
1983 西武 86 40 4 阪急 67 55 8 日本ハム 64 59 7 近鉄 52 65 13 南海 52 69 9 ロッテ 43 76 11
1984 阪急 75 45 10 ロッテ 64 51 15 西武 62 61 7 近鉄 58 61 11 南海 53 65 12 日本ハム 44 73 13
1985 西武 79 45 6 ロッテ 64 60 6 近鉄 63 60 7 阪急 64 61 5 日本ハム 53 65 12 南海 44 76 10
1986 西武 68 49 13 近鉄 66 52 12 阪急 63 57 10 ロッテ 57 64 9 日本ハム 57 65 8 南海 49 73 8
1987 西武 71 45 14 阪急 64 56 10 日本ハム 63 60 7 南海 57 63 10 ロッテ 51 65 14 近鉄 52 69 9
1988 西武 73 51 6 近鉄 74 52 4 日本ハム 62 65 3 阪急 60 68 2 南海 58 71 1 ロッテ 54 74 2
1989 近鉄 71 54 5 オリックス 72 55 3 西武 69 53 8 ダイエー 59 64 7 日本ハム 54 73 3 ロッテ 48 74 8
1990 西武 81 45 4 オリックス 69 57 4 近鉄 67 60 3 日本ハム 66 63 1 ロッテ 57 71 2 ダイエー 41 85 4
1991 西武 81 43 6 近鉄 77 48 5 オリックス 64 63 3 日本ハム 53 72 5 ダイエー 53 73 4 ロッテ 48 77 5
1992 西武 80 47 3 近鉄 74 50 6 オリックス 61 64 5 ダイエー 57 72 1 日本ハム 54 73 3 ロッテ 54 74 2
1993 西武 74 53 3 日本ハム 71 52 7 オリックス 70 56 4 近鉄 66 59 5 ロッテ 51 77 2 ダイエー 45 80 5
1994 西武 76 52 2 オリックス 68 59 3 近鉄 68 59 3 ダイエー 69 60 1 ロッテ 55 73 2 日本ハム 46 79 5
1995 オリックス 82 47 1 ロッテ 69 58 3 西武 67 57 6 日本ハム 59 68 4 ダイエー 54 72 4 近鉄 49 78 3
1996 オリックス 74 50 6 日本ハム 68 58 4 西武 62 64 4 近鉄 62 67 1 ロッテ 60 67 3 ダイエー 54 74 2
1997 西武 76 56 3 オリックス 71 61 3 近鉄 68 63 4 日本ハム 63 71 1 ダイエー* 63 71 1 ロッテ 57 76 2
1998 西武 70 61 4 日本ハム 67 65 3 オリックス 67 67 1 ダイエー* 66 66 3 近鉄 66 67 2 ロッテ 61 71 3
1999 ダイエー 78 54 3 西武 75 59 1 オリックス 68 65 2 ロッテ 63 70 2 日本ハム 60 73 2 近鉄 54 77 4
2000 ダイエー 73 60 2 西武 69 61 5 日本ハム 69 65 1 オリックス 64 67 4 ロッテ 62 67 6 近鉄 58 75 2
2001 近鉄 78 60 2 ダイエー 76 63 1 西武 73 67 オリックス 70 66 4 ロッテ 64 74 2 日本ハム 53 84 3
2002 西武 90 49 1 近鉄 73 65 2 ダイエー* 73 65 2 ロッテ 67 72 1 日本ハム 61 76 3 オリックス 50 87 3
2003 ダイエー 82 55 3 西武 77 61 2 近鉄 74 64 2 ロッテ 68 69 3 日本ハム 62 74 4 オリックス 48 88 4
パシフィック・リーグ プレーオフ開始
2004 西武 74 58 1 ダイエー 77 52 4 日本ハム 66 65 2 ロッテ 65 65 3 近鉄 61 70 2 オリックス 49 82 2
2005 ロッテ 84 49 3 ソフトB 89 45 2 西武 67 69 オリックス 62 70 4 日本ハム 62 71 3 楽天 38 97 1
2006 日本ハム 82 54 西武 80 54 2 ソフトB 75 56 5 ロッテ 65 70 1 オリックス 52 81 3 楽天 47 85 4
クライマックスシリーズ開始
2007 日本ハム 79 60 5 ロッテ 76 61 7 ソフトB 73 66 5 楽天 67 75 2 西武 66 76 2 オリックス 62 77 5
2008 西武 76 64 4 オリックス 75 68 1 日本ハム 73 69 2 ロッテ 73 70 1 楽天 65 76 3 ソフトB 64 77 3
2009 日本ハム 82 60 2 楽天 77 66 1 ソフトB 74 65 5 西武 70 70 4 ロッテ 62 77 5 オリックス 56 86 2
2010 ソフトB 76 63 5 西武 78 65 1 ロッテ 75 67 2 日本ハム 74 67 3 オリックス 69 71 4 楽天 62 79 3
2011 ソフトB 88 46 10 日本ハム 72 65 7 西武 68 67 9 オリックス 69 68 7 楽天 66 71 7 ロッテ 54 79 11
2012 日本ハム 74 59 11 西武 72 63 9 ソフトB 67 65 12 楽天 67 67 10 ロッテ 62 67 15 オリックス 57 77 10
2013 楽天 82 59 3 西武 74 66 4 ロッテ 74 68 2 ソフトB 73 69 2 オリックス 66 73 5 日本ハム 64 78 2
2014 ソフトB 78 60 6 オリックス 80 62 2 日本ハム 73 68 3 ロッテ 66 76 2 西武 63 77 4 楽天 64 80
2015 ソフトB 90 49 4 日本ハム 79 62 2 ロッテ 73 69 1 西武 69 69 5 オリックス 61 80 2 楽天 57 83 3
2016 日本ハム 87 53 3 ソフトB 83 54 6 ロッテ 72 68 3 西武 64 76 3 楽天 62 78 3 オリックス 57 83 3
2017 ソフトB 94 49 西武 79 61 3 楽天 77 63 3 オリックス 63 79 1 日本ハム 60 83 ロッテ 54 87 2
2018 西武 88 53 2 ソフトB 82 60 1 日本ハム 74 66 3 オリックス 65 73 5 ロッテ 59 81 3 楽天 58 82 3
2019 西武 80 62 1 ソフトB 76 62 5 楽天 71 68 4 ロッテ 69 70 4 日本ハム 65 73 5 オリックス 61 75 7
2020 ソフトB 73 42 5 ロッテ 60 57 3 西武 58 58 4 楽天 55 57 8 日本ハム 53 62 5 オリックス 45 68 7
2021 オリックス 70 55 18 ロッテ 67 57 19 楽天 66 62 15 ソフトB 60 62 21 日本ハム 55 68 20 西武 55 70 18
2022

※2007年 - は、レギュラーシーズン勝率1位チームが優勝チーム、クライマックスシリーズ優勝チームが日本シリーズに出場。

チーム別成績[編集]

現存している球団は全て平成時代に日本シリーズ制覇をしている。

2021年現在、オリックス・バファローズのみが21世紀に日本シリーズ制覇を経験していない。ただし、レギュラーシーズン1位通過から最も遠ざかっているのは千葉ロッテマリーンズである。

2020年のシーズン終了時点で、リーグ優勝した年にクライマックスシリーズに敗退した経験がある球団は、埼玉西武ライオンズ(2回)と福岡ソフトバンクホークス(1回)である。また、リーグ2位・3位の年にクライマックスシリーズを突破した経験がある球団は、福岡ソフトバンクホークス(2回)と千葉ロッテマリーンズ(1回)であり、いずれも日本シリーズも制覇している。

  • 太文字は日本一。
  • 斜文字はクライマックスシリーズ敗退。
  • ()は1リーグ時代の優勝年を含めた回数。
球団 優勝年 回数
西武 1954 1956 1957 1958 1963
1982 1983 1985 1986 1987
1988 1990 1991 1992
1993
1994 1997 1998 2002 2004
2008
2018 2019
23回(23回)
ソフトバンク 1951 1952 1953 1955 1959
1961 1964 1965 1966 1973
1999 2000 2003 2010 2011
2014 2015 2017 2020
19回(21回)
オリックス 1967 1968 1969 1971 1972
1975 1976 1977 1978 1984
1995 1996 2021
13回(13回)
日本ハム 1962 1981 2006 2007 2009
2012 2016
7回(7回)
ロッテ 1950 1960 1970 1974 2005 5回(5回)
楽天 2013 1回(1回)

各球団監督[編集]

パシフィック・リーグ
チーム 監督 生年月日(年齢) 就任年 監督
通算
福岡ソフトバンクホークス 22 藤本博史 (1963-11-08) 1963年11月8日(58歳) 2022年 1年目
千葉ロッテマリーンズ 26 井口資仁 (1974-12-04) 1974年12月4日(47歳) 2018年 5年目
埼玉西武ライオンズ 18 辻発彦 (1958-10-24) 1958年10月24日(63歳) 2017年 6年目
東北楽天ゴールデンイーグルス 9 石井一久 (1973-09-09) 1973年9月9日(48歳) 2021年 2年目
北海道日本ハムファイターズ 26 新庄剛志 (1972-01-28) 1972年1月28日(49歳) 2022年 1年目
オリックス・バファローズ 28 中嶋聡 (1969-03-27) 1969年3月27日(52歳) 2021年 2年目

名称の由来[編集]

1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である[1]

低勝率罰金制度[編集]

低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。

1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年トンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。

なお、この制度は1956年に廃止となった。

歴代リーグ会長(代表者)[編集]

(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)

  • 初代:大川博東映社長/東急フライヤーズ・東映フライヤーズオーナー)

(専任職移行後)

リーグ運営部長[編集]

逸話[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 例外もある。詳細は田中将大の項を参照。
  2. ^ 朝日放送ラジオMBSラジオ中国放送の様に、1980年代前期まで試合開催時の月曜ナイターのレギュラー編成を組んでいた時代がありながら、マンデー・パ・リーグ実施時には既に地元球団(朝日放送ラジオ・MBSラジオ=阪神タイガース、中国放送=広島東洋カープ)の関与する試合以外の放送を打ち切っていた局もある(朝日放送ラジオ・毎日放送は在阪パ・リーグ球団主催試合についてはビジター地元局への裏送りのみ対応)。
  3. ^ その時毎日オリオンズは大阪に対して意趣返しとして、主力選手だった若林忠志別当薫土井垣武本堂保次呉昌征などを引き抜いた。
  4. ^ ロッテオリオンズも初の同一都道府県内のみでの開催となった1970年の日本シリーズ(GOシリーズ/東京シリーズ)において、V9の真最中でセ・リーグ6連覇だった読売ジャイアンツに1勝4敗で敗れた。
  5. ^ ただし、ロッテは当初スポンサーとして業務提携をしていた。しかし1971年(昭和46年)に大映の経営危機により、ロッテが正式に球団を買収した。
  6. ^ 1973年(昭和48年)シーズンオフに日拓ホームフライヤーズが日本ハムへ売却されたと同時に1974年(昭和49年)から球団名を「日本ハムファイターズ」に改称した。
  7. ^ 2017年現在の収容人数は30,508人である。
  8. ^ 正式には当時のクラウンライターライオンズの運営会社だった福岡野球を西武グループの不動産会社だった国土計画が買収した。それと同時に、1979年(昭和54年)に本拠地を福岡県福岡市から埼玉県所沢市に移転した。
  9. ^ しかし近鉄は1979年80年の日本シリーズでは2年連続でセ・リーグ優勝の広島東洋カープに敗れている。
  10. ^ 元々は大洋ホエールズが1957年(昭和32年)から1977年(昭和52年)までの21年間、本拠地として使用していたが、1978年(昭和53年)に本拠地を横浜スタジアムに移転(これに伴い、横浜大洋ホエールズに改称した。)したため、川崎市の積極的な要望もあって、1978年(昭和53年)から1991年(平成3年)にかけて14年間、ロッテオリオンズの本拠地として使用された。
  11. ^ 2005年(平成17年)に定められた「試合観戦契約約款」の第8条により、現在ではこれらの行為は全て禁止されており、各球場とも入場口で手荷物検査を行っているため、このような行為をする目的での入場は拒否される。
  12. ^ しかし1989年の日本シリーズ読売ジャイアンツに3連勝しながらも、その後はまさかの4連敗を喫し敗退する。
  13. ^ しかし、この年の日本シリーズは同じく球団OBの若松勉監督率いるヤクルトスワローズに1勝4敗と敗退した。その後、近鉄は2003年(平成15年)まではAクラスを記録するなど健闘を見せたが、結局一度も日本一になれないまま2004年オフに55年の歴史に幕を下ろすことになった。
  14. ^ 近鉄が阪神なんば線への乗り入れで大阪ドームの最寄り駅であるドーム前駅に来るようになったのは近鉄球団消滅後の2009年3月。また、近鉄の管轄駅で大阪ドーム(現京セラドーム大阪)に最も近いのは大阪難波駅(旧駅名は近鉄難波駅)である。
  15. ^ 逆に、それまで「プラチナチケット」と称されるほど人気が高かった巨人主催による北海道シリーズは、2010年以降開催されなくなった。
  16. ^ セ・パ交流戦でセントラル・リーグが勝ち越したシーズンは2009年と2021年のみであり、何れも僅差での勝ち越し(2009年は70勝67敗7分け(3勝差)、2021年は49勝48敗11分(1勝差))となっており、また優勝チームも前者はソフトバンク、後者はオリックスと何れもパシフィック・リーグの球団が優勝している。また2021年はオリックスが交流戦の勢いを維持し、25年ぶりのリーグ優勝を果たす。また上位6チームでは、優勝がパ・リーグの球団、2位から5位までがセ・リーグの球団で、6位がパ・リーグの球団(前者は日本ハム、後者は楽天)である。また日本シリーズにおいても、2009年に日本ハムが巨人に、2021年にオリックスがヤクルトに何れも2勝4敗と敗退している。
  17. ^ 2015-2018年は最高勝率チーム
  18. ^ 唯一の例外は北海道日本ハムファイターズ読売ジャイアンツに2勝4敗で敗退した2012年の日本シリーズのみである。
  19. ^ 2011年中日2014年阪神2015年ヤクルト2017年DeNA2018年広島2019年2020年巨人。特に巨人から2年連続で4連勝のスウィープでの日本一(8勝0敗)を決めている。なおホークスは既に南海時代に1959年に巨人を4勝0敗のスウィープでの日本一を果たしており、その後も1964年に阪神を、またダイエー時代にも1999年に中日、2003年に阪神を破り何れも日本一を決めている。
  20. ^ 2007年までの暫定措置として、大阪ドーム(京セラドーム大阪)と神戸総合運動公園野球場を本拠地とした
  21. ^ ただし1973年は公式には地域保護権は東京都に残り、準本拠地扱いであった。1974年に保護権を暫定的に宮城県に移すが、特例として東京都でも半数程度開催することがあった。
  22. ^ 本来は2005年も実施予定だったが、近鉄のオリックスへの合併、楽天の加盟と、セ・パ交流戦の開催により総当たり回数が変更となったため行われなかった。
  23. ^ a b 新型コロナウイルスの影響に伴う感染防止の特別ルール。
  24. ^ なお、交流戦開始以降は「交流戦で優勝するのも毎年パ・リーグのチーム」という状況が続いていたが、2012年に読売ジャイアンツが交流戦開始以後では初のセ・リーグで交流戦を制覇したチームとなり、2年後の2014年も交流戦を制している。また2018年に東京ヤクルトスワローズが交流戦を制覇した。
  25. ^ その一方、メジャーリーグをモチーフとした北米版はアメリカンリーグオークランド・アスレチックスカンザスシティ・ロイヤルズニューヨーク・ヤンキース)とナショナルリーグセントルイス・カージナルスロサンゼルス・ドジャースフィラデルフィア・フィリーズ)から3球団ずつが選出されている。

出典[編集]

  1. ^ a b 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号62ページ「セ・パ分立当時の連盟旗」
  2. ^ 会社概要
  3. ^ セ、パ両事務局が廃局 Archived 2008年12月27日, at the Wayback Machine. サンケイスポーツ 2008年12月27日閲覧[リンク切れ]
  4. ^ 2017年 セ・パ公式戦 入場者数(日本野球機構)
  5. ^ 純パの会とは? - 純パの会

参考文献[編集]

  • 「ベースボールマガジン」2009年11月号「パ・リーグ60年 魂の物語」(ベースボールマガジン社刊)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]