ピュトー・グループ

ピュトー・グループ(ピュトー派、Puteaux Group)とは、キュビスムを志向したグループの名称。おおむね、1910年から1914年第一次世界大戦開始)まで存在した。

1912年に最初のキュビズムに関する論文DuCubismeが執筆され、同年出版されたあと、翌1913年に英語とロシア語に翻訳された[1][2][3][4]。その名前は、ピカソジョルジュ・ブラックのアトリエ「洗濯船」(Bateau Lavoir, Rue Ravignan, Montmartre; モンマルトル・ラヴィニャン街のバトー・ラヴォワール)に対抗するかのように、パリ郊外のピュトーに集ったことに由来する。ピュトーには、当時、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、フランティセック・クプカ、ジャック・ヴィヨンらのアトリエが集中していた。

所属した主要な画家は、以下の通り。

1925年のセクション・ドールの展覧会

彼らはまた、みずからをセクション・ドール(黄金分割、Section d'Or)とも呼び、1912年には、同名の展覧会を開催し、同名の雑誌(1号限り)を発行した。

彼らの考え方の基本は、分析的キュビスムが色彩を放棄したことへの批判から始まり、絵画としての豊かさを復活させようという点にあった。この考え方は、総合的キュビスムにも影響を与えているが、グループ内でも考え方がまとまっておらずキュビスムの考え方を分散させたこと(論理的な統一を失わせたこと)、また、このグループの構成員は、必ずしも理論を重視せず、「見た目」だけを真似した場合があったため、キュビスム自体を装飾化・通俗化させたこと、さらには、一部が、オルフィスムを経由して、もともとのキュビスムが予定していない抽象絵画へ向かったことなどが批判されている。これらの点については、特に、ピュリスムが批判している。

このグループの著作の面における成果としては、メッツァンジェとグレーズによる『キュビスムについて』(1912年)を挙げることができる。

1912年のSalon de la Section d'Or(セクション・ドール展)の出展作品例[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Albert Gleizes, Jean Metzinger, Du "Cubisme", Eugène Figuière Editeurs, Collection "Tous les Arts" Paris, 1912 (new edition published in 1947).
  2. ^ From Du Cubisme, Paris, 1912, pp. 9-11, 13-14, 17-21, 25-32. In English in Robert L. Herbert, Modern Artists on Art, Englewood Cliffs, 1964, PDF Art Humanities Primary Source Reading 46
  3. ^ Tate, Raymond Duchamp-Villon retrieved February 12, 2010
  4. ^ Mark Antliff and Patricia Leighten: A Cubism Reader, Documents and Criticism, 1906-1914, University of Chicago Press, 2008

関連項目[編集]