フレッド・ホックレー

フレデリック(フレッド)・ホックレー英語:Frederick (Fred) Hockley、1923年 - 1945年8月15日)は、イギリス海軍予備員少尉で、イギリス海軍艦隊航空隊の戦闘機搭乗員。第二次世界大戦におけるイギリス航空隊最後の戦闘任務に参加し、日本軍による拘束下で裁判なしに処刑されたことで知られる。

前半生[編集]

ホックレーはケンブリッジシャーイーリーに近いリトルポート(Littleport)に生まれた[1]。父親は水道局の職長で、教区教会の鳴鐘人だった[1]。フレッドはソハム(Soham)のグラマースクールに進学し、水泳に熱中した[1]

日本での任務[編集]

空母インディファティガブル (1945年)
空母上空を飛ぶスーパーマリン シーファイア

ホックレーは海軍予備員に任命され、航空母艦インディファティガブルに、艦隊航空隊所属のスーパーマリン シーファイアの戦闘機搭乗員として配属された。1945年8月15日、894戦隊の5機のシーファイアを率いて、東京湾地区の飛行場を攻撃する任務のフェアリー ファイアフライおよびグラマンTBFアヴェンジャーを護衛するため発進した。15機の編隊はオダキ湾[2]にある化学製品工場を新たな目標として進路を変更した。ホックレー機の無線機は機能しておらず、零式艦上戦闘機の攻撃を受けた後にホックレーは戦闘機から脱出し[3]千葉県長生郡東村近くにパラシュートで降下した[4]。編隊はビクター・ロードン英語版がかわって指揮し、目標を爆撃して任務を完了している。

投降、拘束と処刑[編集]

ホックレーは、地元の警防団員や駐屯していた兵士により捕縛され、東村国民学校(現・長南町立東小学校)に連行された[5][6]。ホックレーの身柄は東村に駐屯していた軍の教育隊に預けられ、教育隊が歩兵426連隊に報告すると、連隊側は土睦村(現・睦沢町)岩井にあった連隊本部まで連行するよう伝え、玉音放送後の午後2時頃に岩井の連隊本部に到着する[7]。このあとホックレーは一宮町の連隊本部[8][9]に移送され、夜に近くの山中で歩兵426連隊の将校(大尉)によって殺害された[7]

ホックレーの遺体は終戦後にひそかに掘り起こされて荼毘に付された[10][11]。遺骨はのちに横浜市英連邦戦死者墓地に改葬されている[1][12][13]

捜査と裁判[編集]

ホックレーの死は占領軍の調査で明るみに出た。田村連隊長と師団参謀、および直接殺害した将校(大尉)はイギリスの管理下に移され、香港で1947年6月13日から30日まで戦犯裁判にかけられた。田村と師団参謀は有罪として死刑を宣告されて1947年9月16日に絞首刑が執行され、大尉は禁錮15年の刑に処された[14]。裁判で軍の検察官だったマレー・オームズビー少佐(1919年 - 2012年)は、ホックレーの犠牲が忘れ去られることを気にかけていた。1995年からオームズビーは、毎年ホックレーの命日に当たる8月15日のデイリー・テレグラフに、追悼の広告を掲載した[1][15]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Fred Hockley at Soham Grammar. Retrieved 2 February 2013
  2. ^ 英語版記事"Odaki Bay"
  3. ^ Brown, David (1989). The Seafire - The Spitfire that went to Sea. Greenhill Books. pp. 127. ISBN 1-85367-039-1 
  4. ^ 笹本、2004年、p.58
  5. ^ 笹本、2004年、pp.59 - 60
  6. ^ デイリー・テレグラフ1999年9月6日付掲載の記事では、ホックレーを発見した警防団員が警防団本部に連れて行き、そこで警防団長が歩兵426連隊に引き渡すことを決めたと記している(笹本、2004年、pp.54 - 55)
  7. ^ a b 笹本、2004年、pp.60 - 64
  8. ^ 岩井と一宮の両方が「本部」とあるのは出典記述通り。
  9. ^ ホックレーの殺害現場をひそかに目撃した男性(当時10歳)は、2001年の朝日新聞記事で、一宮に連れてこられた場所は本部(一宮国民学校)ではなく男性の自宅であったと証言し(朝日新聞千葉版、2001年8月9日)、笹本(2004)の73・75頁にも紹介されている。
  10. ^ 笹本、2004年、p.65。ここでは田村大佐の戦後の供述として「10月中旬に、田村が部下を引き連れて」掘り起こしたと記されている。
  11. ^ 前記の男性の証言では、「事件から1ヶ月ほどたったある日」、村落の家から祭で人が出払ったときに男性の父と職人の4人で掘り起こしたという(朝日新聞千葉版、2001年8月10日)
  12. ^ 笹本、2004年、p.75
  13. ^ 前記の「目撃者」の男性は、おじからの伝聞として、ホックレーの遺骨は両親が日本まで引き取りに来たと証言している(朝日新聞千葉版、2001年8月10日)が、笹本妙子はホックレーの甥に問い合わせたところ、そのような事実は確認できなかったとしている(笹本、2004年、p.75)。
  14. ^ Hong Kong War Crimes Trials Documents. Retrieved 2 February 2013
  15. ^ Murray Ormsby Obituary The Times 1 February 2013. Retrieved 2 February 2013

参考文献[編集]

  • 笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』草の根出版会、2004年
  • 朝日新聞千葉版2001年8月9 - 15日「消えない銃声 - 56年後の検証 - 」(1 - 5回。8月11日と13日は休載)