プトゥン

プトゥンチベット語: བུ་སྟོན་རིན་ཆེན་གྲུབ་, ワイリー方式: Bu-ston Rin-chen Grub, プトゥン・リンチェン・ドゥプ、1290年-1364年)とは、チベット仏教の学者である。プトンとも。

生涯[編集]

トプ翻訳官ヤンツェワ・リンチェンセンゲに師事する。

31歳でシガツェ近郊のシャール寺の住職を務めた[1]。 ナルタン寺が所蔵していた仏教経典をシャール寺に取り寄せて新訳経典を増補し、カンジュール(カンギュル、仏説部)、テンジュール(テンギュル、論疏部)に分類し、目録を作成した。プトゥンは特にテンジュールの編集に注力した[2]

プトゥンの弟子たちは新しいサキャ派の支派を創始し、彼らはプトゥンが身を置いたシャール寺にちなんでシャール派と呼ばれた[3]

シャール寺に現存する仏画群は、彼の管長就任を祝って、この地域を治めていた王が寄進したものだと伝えられている。

著作[編集]

仏教学、歴史、天文学、医学といった分野において、プトゥンは生涯に206の著作を残した[1]ダライ・ラマ13世の時代に著書は『プトゥン全書』として26帙に編集され、出版された。

1322年に著した『仏教史』は、後代のチベット史研究者から根本史料として重要視されている[1]

1326年には暦学の基本書『学者を喜ばせるもの』を執筆。 『学者を喜ばせるもの』では従来の暦学の批判に加え、日月・五曜・の計算方法が丁寧に記されている[4]

密教四分法[編集]

プトゥンは、チベット仏教では一般的になっているタントラ(tantra、大乗仏教後期(密教)における「スートラ」(sutra)に代わる仏教経典(密教経典)の呼称)群の分類法である「密教四分法」を確立した人物として有名である。

  1. 所作タントラ:『灌頂経』等
  2. 行タントラ:『大日経』等
  3. 瑜伽タントラ:『金剛頂経』等
  4. 無上瑜伽タントラ:『秘密集会タントラ』、『ヘーヴァジュラ・タントラ』、『カーラチャクラ・タントラ』等

脚注[編集]

  1. ^ a b c 金子「プトン」『アジア歴史事典』8巻、149頁
  2. ^ スネルグローヴ、リチャードソン『チベット文化史』、222頁
  3. ^ スネルグローヴ、リチャードソン『チベット文化史』、237頁
  4. ^ 山口『チベット』上、158頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]