ヘニー・マイヤー

ヘニー・マイヤー
フランク・ステープルトン(中)、ヤン・セーレンセン(右)と共に取材を受けるマイヤー(1987年7月)。
名前
本名 ヘニー・インヘマル・マイヤー
ラテン文字 Hennie Ingemar MEIJER
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
スリナムの旗 スリナム
生年月日 (1962-02-17) 1962年2月17日(62歳)
出身地 スリナムの旗 スリナムパラマリボ
身長 182cm
体重 84kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
代表歴2
1987 オランダの旗 オランダ 1 (0)
2. 2009年8月14日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヘニー・マイヤー(Hennie Meijer, 1962年2月17日 - )は、スリナム出身でオランダ国籍の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード[1]

来歴[編集]

オランダ領ギアナ(現スリナム)の首都パラマリボ出身。1983年にオランダ2部テルスターでプロデビュー。アヤックス時代の1987年にオランダ代表入りし、1試合出場(9月9日、親善試合ベルギー戦で67分にアーロン・ヴィンターに代わって途中出場[2])。1988年からFCフローニンゲンで5シーズンプレーし、1990-91シーズンにはミルコ・ジュロヴスキーと共にゴールを量産しクラブを過去最高の3位に導き、オランダ年間最優秀選手賞に輝いた。その間の1989年には、スリナム系オランダ人サッカー選手の選抜チームがスリナムで試合を行うため搭乗した飛行機が墜落する事故(スリナム航空764便墜落事故)が起き、マイヤーは前の便でスリナム入りし難を逃れたが、多くの仲間を失う悲劇があった。

1993年Jリーグ開幕時にヴェルディ川崎に加入。来日前にアキレス腱を痛め、合流したのは開幕1週間前だった。同年5月15日の開幕戦横浜マリノス戦で前半19分にJリーグ第1号ゴールを決めた[3]。左サイド、ペナルティエリアの外側からマリノスのDF小泉淳嗣を振り切っての豪快なミドルシュートだった。2018年のインタビューで「あれは本能的な得点だった。何とか『左サイドでフリーになって、中に切り込んで打つ得意の形に持ち込みたい』と当時の僕は考えたんだろう。勝手に体が動いた」と語っている[4]

ヴェルディがJリーグ初勝利を挙げた5月22日のサンフレッチェ広島戦で2ゴール目を決めるもその後は目立った活躍を見せず、11試合出場2得点の記録を残し7月に契約解除され退団。当時のヴェルディは松木安太郎監督の下でオランダ人のフランツ・ファン・バルコムがヘッドコーチを務め、マイヤーらオランダ人3人、ブラジル人3人が在籍し日本人の選手・スタッフと意思疎通を欠き[注 1]、ミーティングで監督の松木から言われたのも「You Score Goal(点取って)」だけだったという。年俸は30万ユーロで鹿島のジーコの推定年俸とほぼ同じ好待遇だったが、「日本人が知るオランダ人はフリットファンバステンライカールトだけ。元オランダ代表、MVPの僕でも最後まで『お前、誰だ』扱いだった」と語っている。来日中は富士山東京ディズニーランドを満喫していたという[4]

オランダに帰国後、SCヘーレンフェーン、2部のBVフェーンダムなどでプレーし1998年に引退。オランダの1部・2部で通算148得点を挙げた。

2003-04シーズンには古巣テルスターでアシスタントコーチを務めた[5]

前夫人と離婚し、2男3女を育てるため専業主夫となり選手年金に頼る生活を10年間続けたが、再婚。その後、サッカースクールを設立し、老人ホームの入居者のケアの仕事も行っている[6]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993 V川崎 - J 11 2 0 0
通算 日本 J 11 2 0 0
総通算 11 2 0 0

代表歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ チームメイトだった北澤豪は「ヴェルディと言えばブラジルだったのに、突然、オランダの選手たちが加入して、サッカーが変わっちゃったんだから。あれは衝撃でしたね。誰も受け入れてなかったし、みんなが戸惑っていた。」「バルコムが同じオランダ人のマイヤーとか、ハンセンとかを連れてきたんだと思うけど、そこへの哲学は理解できなかったな。」「練習でも試合でも、みんながストレスを抱えながらやっていたから、結果は出ないよね。まあ、まとまってなかったですよ。」と語っている。「27年前のカズさんのプレーを堪能して」 北澤豪が語る“ヴェルディ黄金時代”

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]