ポルトガル領ティモール

ポルトガル領ティモール
Timor Português(ポルトガル語)
Portugál Timor(テトゥン語)
植民地化以前のティモール 1702年 - 1975年 インドネシア
東ティモール
ティモールの国旗 ティモールの国章
ポルトガルの国旗ポルトガルの国章
ティモールの位置
ポルトガル領ティモールの位置
公用語 テトゥン語ポルトガル語マレー語
首都 リファウ(1702年 - 1769年)
ディリ(1769年 - 2002年)
国王(1702年 - 1910年)
大統領(1910年 - 2002年)
1702年 - 1706年 ペドロ2世
1996年 - 2002年ジョルジェ・サンパイオ
総督
1702年 - 1705年アントニオ・C・ゲレイロ
1974年 - 1975年マリオ・レモス・ピレス
面積
1970年14,925km²
人口
1970年610,500人
変遷
成立 1702年
インドネシアによる占領1975年11月28日
東ティモールとして独立2002年5月20日
通貨ポルトガル領ティモール・パタカ
時間帯UTC +8
ccTLDTL
現在東ティモールの旗 東ティモール

ポルトガル領ティモール(ポルトガルりょうティモール、略称:葡領チモールポルトガル語: Timor Português)は、かつて東南アジアに存在したポルトガル植民地である。現在の東ティモールに相当する。1515年から1975年まで存在し、この間、ポルトガルはティモール島オランダ領東インド(独立後はインドネシア)と分割して統治していた。

初期[編集]

最初にこの地域に到来したヨーロッパ人は、現在のポンテ・マカッサル附近に着いたポルトガル人だった。1556年には、ドミニコ会修道士リファウの村を建設した。

1702年、ポルトガルはアントニオ・コエーリョ・ゲレイロを最初の総督としてリファウに派遣し[1]、リファウは小スンダ列島におけるポルトガル保護領の主都となった。初期の頃は、ポルトガルによる統治は完全には行き渡らず、特に内陸の山岳地域で顕著であった。また、ドミニコ会の修道士や後からこの地域に進出していたオランダ、そして原住民たちが統治に反対を唱えた。このため、総督が実際に統治できたのは主にディリに限られてしまい、その他の地域については現地の部族長に頼らざるを得なかった[2]19世紀後半まで、ティモールは交易所のような軽んじられた扱いを受け続けた。インフラ整備や保健衛生、教育に対する投資は最小限に抑えられていた。この間、ビャクダンが主な輸出品として経済基盤を支え続け、19世紀半ばにはコーヒーが重要な輸出品となっている。ポルトガルの法律が適用された地域では、暴政と搾取が行われる傾向にあった[2]

オランダとの対立[編集]

1767年、ティモール島の残りの部分や周辺の島々(現在のインドネシアの範囲)を植民地としていたオランダが攻撃を行い、首都をディリに動かさざるを得なくなった。ポルトガル領ティモールとオランダ領東インドとの境界は、1859年リスボン条約によって正式に決定された。さらに、最終的な境界画定が1916年ハーグで行われた。この境界は、現在のインドネシアと東ティモールの国境線としてそのまま残っている。

20世紀以降[編集]

20世紀初頭、ポルトガルでは本国の経済が弱体化したことから、植民地から富をさらに搾取するようになった[2]

第二次世界大戦では中立の立場を取っていたポルトガルであったが、1941年12月17日[3]、ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍保障占領された。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日、ポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。1942年2月20日[4]、日本軍がティモール全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった[5]。以降、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。

1943年前半まで連合国軍がゲリラ戦を展開し、ティモール現地人の一部も両陣営に分かれて戦闘した。1944年6月、ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対し、ポルトガル領ティモールからの日本軍撤退を正式に要請した。多数の日本軍が駐屯する一方で、1945年に入るとイギリス軍アメリカ軍、オーストラリア軍などの連合軍による海上封鎖が行われたため食糧不足となり、飢餓や戦闘で4万から7万人のティモール人が命を落とした。1945年5月、日本とポルトガルとの間で、ポルトガル領ティモールからの日本軍撤退の交渉が開始された(日本の敗戦後、日本軍が撤退した。)。

第二次世界大戦が終了すると、ティモール島西部を含むオランダ領東インドは独立戦争を経てインドネシアとして独立を果たした。一方ポルトガル領ティモールは、ポルトガル本国のエスタド・ノヴォ体制などもあり、独立はだいぶ遅れた。

1975年にようやく東ティモール民主共和国として独立宣言を行ったが、同年、インドネシアが侵攻し併合を宣言した。国際連合はこの併合を承認しなかった。

また、最後のティモール総督は1974年から1975年までの間に努めたマリオ・レモス・ピレスだった[6]1999年にインドネシアは撤退し、2002年に東ティモールは独立した。

植民地時代の後期、ポルトガル・エスクードと連動するポルトガル領ティモール・エスクードが1975年まで通貨として流通していた。インドネシアに併合された後はルピアが使われた。

脚注[編集]

  1. ^ History of Timor
  2. ^ a b c Schwarz, A. (1994). A Nation in Waiting: Indonesia in the 1990s. Westview Press. pp. page 198. ISBN 1-86373-635-2 
  3. ^ 『戦時下の日本外交』(国民政治経済研究所。昭和17年)p 94, 95に「十二月十七日、豪蘭連合軍はチモール島総督の厳重なる拒否にも拘らず、強行上陸してしまつたのである。サラザール葡首相はこの暴挙に激昂し、英政府に対して強硬抗議を提出すると共に十九日議会に於て次の如く英国の不信不当を暴露し糾弾したのであつた。」と書かれ、同書p 104, 105に「それと同時に帝国政府は『客年十二月十七日英蘭両国軍は、葡領チモール総督の拒否に不拘、同領に侵入し、之を占拠するの措置に出でたり、爾来英葡両国間に撤兵方の交渉開始せられ、葡国政府は事態改善の為め努力したる模様なるも、事態は何等変更を見ずして今日に至れる為、今般蘭領チモールに在る英蘭軍兵力を駆逐するの必要に至れり、英蘭両国の国際信義を無視せる行為の為多大の迷惑を受くるに至りたる葡国の立場は帝国の充分諒とする所にして、帝国政府は葡領チモールの領土保全を保障し、且葡国政府が中立の態度を維持する限り自衛上の目的達成の上は速に兵力を撤収せんとするものにして帝国は葡国に対し何等他意ある次第に非ざることを玆に闡明す。』との声明を発し、この声明は直ちにリスボン駐割の千葉公使から葡政府に提示された。」と書かれ、1941年(昭和16年)12月17日、オーストラリアとオランダの連合軍が、ポルトガル領ティモールに、強行上陸し、その日のうちに全土を占領したことがわかる。また、オーストラリアが、イギリスから独立したのは、1986年3月3日であるので、p 104, 105では、「英蘭両国軍」となっていて、これは、p 94, 95の「豪蘭連合軍」と同一である。
  4. ^ 日本の外務省の公式HPの『『日本外交文書』特集「太平洋戦争」(全3冊)』の『本巻の概要』の『V 中立国との関係』の『二 チモール問題と対ポルトガル措置』に「昭和16年12月17日、豪蘭連合軍がポルトガル領チモールに進駐すると、翌17年2月20日には日本軍が蘭領チモールにおける作戦上の進展を理由に葡領チモールを占領しました。豪蘭軍駆逐後も実質的な占領を続ける日本軍に対し、昭和19年6月、サラザール首相はチモールからの日本軍撤退を正式に要請、翌20年5月に交渉が開始されましたが、チモールにおけるポルトガルの行政権が回復されたのは日本の敗戦後のことになりました。」と書かれていて、1942年(昭和17年)2月20日に占領したことがわかる。
  5. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 (1967), 戦史叢書第3巻「蘭印攻略作戦」, 朝雲出版社, pp. 429-431, https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=003 
  6. ^ 東ティモール民主共和国公式サイト首相紹介のページより。2012年7月17日アクセス

関連項目[編集]