マクデブルク=アンハルト大管区

マクデブルク=アンハルト大管区
Gau Magdeburg-Anhalt (ドイツ語)
ヴァイマル共和政
アンハルト自由州
1926年 - 1945年 連合軍軍政期
ソ連占領地域
アンハルト州
ザクセン=アンハルト州 (1945年–1952年)
マクデブルク=アンハルト大管区の国旗 マクデブルク=アンハルト大管区の国章
国旗(大管区章)
国の標語: Ein Volk, ein Reich, ein Führer(ドイツ語)
一つの民族、一つの国家、一人の総統
国歌: Deutschlands Weltklasse(ドイツ語)
世界に冠たるドイツ

党歌: Die Fahne hoch(ドイツ語)
旗を高く掲げよ
マクデブルク=アンハルト大管区の位置
ナチス・ドイツの地図
公用語 ドイツ語
首都 デッサウ
大管区指導者
1926年 - 1927年 グスタフ・ヘルマン・シュミシュケ英語版
1927年 - 1935年ヴィルヘルム・フリードリヒ・ローパー英語版
1935年 - 1937年ヨアヒム・アルブレヒト・エッゲリンク(臨時指導者代行)
1937年 - 1945年ルドルフ・ヨルダン英語版
面積
13,910km²
人口
1941年1,820,416人
変遷
成立 1926年9月1日
廃止1945年5月8日
通貨ライヒスマルク(ℛℳ)
現在ドイツの旗 ドイツ
【大管区登録番号】 第14番

マクデブルク=アンハルト大管区大管区ドイツ語: Gau Magdeburg-Anhalt)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。

概要[編集]

大管区の地図

マクデブルク=アンハルト大管区は1925年デッサウのナチ党地区から発展し、本部はSeminarstraße 10番地にあった。大管区指導者は論争の末、1927年グスタフ・ヘルマン・シュミシュケ英語版から理事長のヴィルヘルム・フリードリヒ・ローパー英語版に委譲され、1935年に死去するまで保持した。1925年以来アロイス・バッハシュミット英語版の率いるエルベ=ハーヴェル大管区(Gau Elbe-Havel)が編入された。

1932年、ローパーはグロースキューナウ城ドイツ語版に最初の国家労働奉仕団指導者学校を設立した。同年、ローパーは中部ドイツ・ブランデンブルク全土の方面監督官(Landesinspektor)に任命された。1933年、副大管区指導者のパウル・ホフマンドイツ語版はローパーとの論争の末、辞退し、ヨアヒム・アルブレヒト・エッゲリンクが後任に就いた。

1933年のナチ党の権力掌握後、ローパーはアンハルト自由州ブラウンシュヴァイク自由州国家代理官となった。プロイセン自由州ザクセン県英語版では、クルト・フォン・ウルリッヒドイツ語版1933年から1944年まで上級大統領英語版を務めた。ローパーの死後、副大管区指導者のエッゲリンクは配属地の大管区指導者に任命されない、という規則に従い、1937年4月20日に隣接するハレ=メルゼブルク大管区(Gau Halle-Merseburg)指導者に任命されデッサウに異動した。その後 マクデブルク=アンハルト大管区指導者はルドルフ・ヨルダンドイツ語版が指名され、第二次世界大戦が始まると全国防衛委員となった。1944年、ヨルダンは新たに編成されたマクデブルク県英語版の防衛委員及び上級知事に任命されたが、終戦直前に逃亡した。

備考[編集]

大管区指導者[編集]

大管区指導者
  • グスタフ・ヘルマン・シュミシュケ(1926-27年)
  • ヴィルヘルム・フリードリヒ・ローパー(1927-35年)
  • ヨアヒム・アルブレヒト・エッゲリンク(1935-37年、臨時指導者代行)
  • ルドルフ・ヨルダン(1937-45年)
副大管区指導者

人事[編集]

組織[編集]

  • 大管区指導者学校 - デッサウ、旧バウハウス
  • SA『ミッテ(中央)』管区集団本部

構成管区[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • Fritz Ihlenburg (Hg.): Volk und Kultur im Gau Magdeburg-Anhalt, 1937
  • Mitteldeutscher Kulturwart / hrsg. von d. Gauwaltung d. N.S.-Lehrerbundes Gau Magdeburg-Anhalt, Trommler-Verlag, Magdeburg 1934–1939

関連項目[編集]