マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス

マリー・テレーズ
Marie Thérèse
フランス王太子妃
在位 1824年9月16日 - 1830年8月2日

出生 1778年12月19日
フランス王国ヴェルサイユ宮殿
死去 (1851-10-19) 1851年10月19日(72歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、フロースドルフ城
埋葬 1851年10月28日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ゲルツコスタニエヴィツァ修道院(英語)
配偶者 ルイ・アントワーヌ
家名 ブルボン家
父親 フランスルイ16世
母親 マリー・アントワネット
サイン
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マリー・テレーズ・シャルロット: Marie Thérèse Charlotte, 1778年12月19日 - 1851年10月19日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。

生涯[編集]

革命以前[編集]

マリー・アントワネットと子供たち(ヴィジェ=ルブラン作、1787年。ヴェルサイユ宮殿
マリー・テレーズ(アドルフ・ヴェルトミュラー作、1784年)

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。名前は祖母「女帝」マリア・テレジアの名にちなむ。幼少期はブルボン家ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこまっしゃくれた性格であったとされている。9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。 その一方で、養育係が誤って彼女の足を踏みつけてしまい怪我をした日の晩、足の傷に気づいた養育係がなぜ負傷したことを訴えなかったかを問うと「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、自分が原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードもある。

マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエを身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母の悪口を耳にしていた。1789年5月5日三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。それでもフランス革命以前は、人々からフランス国王の第1女子嫡子の称号マダム・ロワイヤル(Madame Royale)と呼ばれ、愛された。

10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。この少女はマリー・テレーズと瓜二つだった。1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。ルイ16世はエルネスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた[注釈 1]マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼール夫人の娘、ポリーヌ・ド・トゥルゼール英語版によくなついた[要出典]

革命下の少女時代[編集]

1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にテュイルリー宮殿に軟禁された。1790年4月4日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受ける。1791年6月21日ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃された。マリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人はかねてからマリー・アントワネットより身の安全を守るよう命じられていたとおり、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を逃れた[注釈 2]8月13日、マリー・テレーズは家族とともにタンプル塔に幽閉された。父母と叔母エリザベートは革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離されると、2年近く1人で幽閉生活を送った。国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、公会が差し向けた面会者の質問には全く答えなかった。また、幽閉後、発病した弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。マリー・テレーズの部屋には下の階に幽閉されていた弟の泣き声がよく聞こえてきた。少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であった。

ロベスピエール処刑後、国民公会政府末期には待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルザス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩する許可を得たり、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」を部屋に呼んで遊ばせるなどした。ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に気の毒になり、伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。また、誰ともほとんど会話のないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズが発声異常に陥ったため矯正を手助けしたものの、ガリガリと話す発声異常[疑問点]は生涯無くならなかった。マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼んだ。

この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーはタンプル塔の近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。塔に近いボージョレ通りは、マリー・テレーズを一眼見ようとする野次馬であふれた。

流転の亡命生活[編集]

オーストリアで[編集]

1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、マリー・テレーズの身柄とフランス人捕虜の引き換えに同意した。9月、ド・トゥルゼル夫人は娘のポーリーヌとともに面会し、彼女と釈放され[疑問点]ウィーンに送られることを話す。この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人とその娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。しかしナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難した。

マリー・テレーズ(フューガー作、1795年。エルミタージュ美術館蔵)

ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く(あぶりだし)など、非常に慎重に文通や送金を行った。1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人から出産した男児の命名を願う手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるためそっけない文面となった。この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍した。

フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して託した金と宝石を取り戻して相続させようと奔走し、各国の宮廷をめぐった。フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後にその持参金にするとフェルセン伯に答えた。フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父ルイ18世(プロヴァンス伯)が薦める弟アルトワ伯(後のシャルル10世)の長子で、父方の従兄にあたるアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。

ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉でフランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いに嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大皇女、マリア・アマーリア皇女とは親しく、1798年に妹のほうが死去した際にはたいへん悲しんだ。スペイン・ブルボン家カルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの弔問の旅費を負担すると約束した。トリーア選帝侯クレメンス・フォン・ザクセンドイツ語版[注釈 3]から、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画とルイ16世が断頭台で着用し血で汚れた肌着を受け取り、それらを持参しミタウへと旅立った。

クールラント[編集]

1799年春、叔父ルイ18世の亡命地ロシアクールラントミタウ城英語版に到着した。彼女は父ルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。マリー・テレーズは同年6月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。当時のロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式ほか、金がつまった財布、帽子とガウンなど山ほどの贈り物を持たせた。マリー・テレーズの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べた。

この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は「両親それぞれに似ており、身長は母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時も涙は見せない。善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙で評した。この結婚はアングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったとの説もある[要出典]

アングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望み、1800年4月、ナポレオンが第2次イタリア戦役を開始すると、コンデ公と共に戦うためミタウを去った。夫婦は愛し合っていたがイギリスで合流するまで、この時から長年離れて生活せねばならなくなる。5月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力を感じられず、結婚生活が不幸なのではと考えた。その後、父の処刑に賛成票を入れたオルレアン公(フィリップ・エガリテ)の長男ルイ・フィリップ(後のフランス王)が訪ねてきたが、マリー・テレーズは面会すら拒んだ。

1801年1月22日、ルイ18世はパーヴェル1世よりロシア領からの退去命令を下され、マリー・テレーズにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。真冬のロシアから行き先も決まらない旅に備え、家具を売却して金策した。旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父が自殺する。最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を言い残す。聖職者の密かな恋を知り、マリー・テレーズはショックを受ける。

ルイ18世はプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に滞在許可を求める手紙を送り、メーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオンを刺激したくないのでフランスの許可を先に待つという返事を受け取る。マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王妃ルイーズからサンクトペテルブルクに安全な場所を提供されるが、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断った。その後ルイーズ王妃は手紙で「ナポレオンがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワ[注釈 4]に滞在許可を出した」と伝え、その後も王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオンや各国の王族との交渉を重ねて、マリー・テレーズの頼れる友となった。

ワルシャワ[編集]

1801年3月6日、一行はワルシャワに到着した。数週間後、休暇をとったアングレーム公が到着した。その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世が関わっていたことを知る。アレクサンドル1世はブルボン家にあまり関心を示さず、手当は父が支払っていた半額以下しか出さなかった。しかし、ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズは、ワルシャワで非常に歓迎された。ヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族の支援、修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズを頼るようになった。

ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世のもとへ廷臣たちが集まった。カルロス4世やフランツ2世、アルトワ伯からの送金だけでは宮廷費がまかなえ切れなくなると、マリー・テレーズはパーヴェル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵は、1801年から1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズの倹約ぶりと、よく泣いていたことを記録している。1804年3月21日、コンデ公がナポレオン暗殺を企んだという冤罪により処刑された。ワルシャワの亡命宮廷は4月9日にこの事実を知った。ナポレオンをマリー・テレーズは憎しみを込めて「犯罪者」と呼んだ。

再びクールラント、そしてイギリス[編集]

1805年4月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護した。看護中に腸チフスに感染した神父は5月22日に病死し、マリー・テレーズは悲しみに襲われた。ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意すると知らせた。8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。グスタフ4世の手厚いもてなしを受けていた2人だったが、迎えに来たアングレーム公の弟ベリー公に伴われて突然とイギリスへ向かった。

イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 (enの仲介を受けて、フランス亡命宮廷の定住地はロンドン北東部のゴスフィールド・フォールに決まった。1808年8月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌと当地に到着した。翌1809年4月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借りあげると移転した。マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。

1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼがナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。1812年2月、王太子(後のジョージ4世)は認知症を患ったジョージ3世の摂政となると、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続けると約束して多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接して盛大なパーティを催しては楽しませた。舞踏会の際、王太子の右隣という栄誉ある席にマリー・テレーズを座らせた。彼女はもちろん、王太子を気に入った。

1813年1月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。その後、妊娠することはなかった。

復古王政期[編集]

フランスへの帰国[編集]

1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリスを後にした。4月29日コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと再会し泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。

パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたテュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で呼びつけにして相手を怒らせた。新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前ではせめて紅ぐらいつけなさい」と妻を叱った[要出典]。マリー・テレーズはまた、帝政下で成功したかつての仲間も嫌った。マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたと知ると、面会も拒んだ。反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。

ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じたことはない。しかし、弟の生存を確かめるべく、12月13日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。翌1815年1月27日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ=ジャン・ペルタン医師を紹介された。2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、1825年5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。1826年9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠された。

百日天下[編集]

この頃のフランス国民はマリー・テレーズの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴーネ」と呼んだ。彼女はブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。アングレーム公もそれを支援した。1815年3月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡の一報を聞くと、アングレーム公は引き返してニームで4000人の国王軍を指揮する。マリー・テレーズはボルドーに残り、小さな国王軍の主導権を握った。3月20日からのナポレオンの百日天下に際しては、ガロンヌ川岸のベルトラン・クローレル率いる革命軍と対岸に陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車に立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。その内容は翌日、ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。これを知ったナポレオンはマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争ヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したマーガレット・オブ・アンジューに例えた。

マリー・テレーズはその後再び亡命し、4月19日にイギリスに上陸。まずブルボン公を手紙でけしかける。ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオンを「あの男」と呼んだ。マリー・テレーズは亡命中の夫との書簡の一部を奪ったナポレオンにその中身を公開され、怒り狂った。7月29日にパリに戻るが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。帰国するやいなや、彼女はテュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾をすべて取り払うよう命じた。そしてルイ18世に頼み、100日天下の時期に自分を王座につけるよう民衆を煽ったルイ・フィリップを、フランスから追放させた。

ルイ18世時代[編集]

マリー・テレーズは死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のようについてまわった。アルトワ伯とマリー・テレーズは超王党派となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。ルイ18世は中道的で、時には自由主義者との妥協もいとわなかったためそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。マリー・テレーズはまた、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえ、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった[要出典]。アングレーム公はイギリス亡命時代に触れた議会政治への憧れが徐々に強くなり、夫婦は政治面に口論する一因にもなった。

しかし、ボルドーでマリー・テレーズが見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトー・ブリアン夫人は1816年、パリに元亡命貴族と聖職者の避難所の病院を作るとマリー・テレーズに献名した。ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン国王が最初の寄付者となり、病院は1819年に完成した。この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開した。教会は敬虔なマリー・テレーズに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。

6月17日、アングレーム公の弟ベリー公両シチリアフランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。ところが1820年2月13日オペラ座でベリー公は狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。王族一同が警察大臣エリー・ドゥカズの罷免を求め、アルトワ伯爵とマリー・テレーズはこの事件を、ルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズのせいとした。彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います」と夫婦で南西部へ行く意向を示すと、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズを罷免した。9月29日にマリー・カロリーヌがアンリ・フェルディナン・デュードネを出産する。マリー・テレーズは友人ポーリーヌに「やっと永遠に諦めがついたから子供がいないままでいるわ」と心中をもらした。

マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。マリー・テレーズは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。図書室には集めた旅行記や革命史の本を並べ、父ベリー公を失ったルイーズとアンリのために動物を集め、農場を作った。農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、その皿に自慢のクリームを分け与えなかった。

シャルル10世時代[編集]

マリー・テレーズ(アレクサンドル=フランソワ・カミナード作、1827年。ルーヴル美術館

1824年、ルイ18世が病死した。アルトワ伯が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズは王太子妃となると、叔父ルイ18世によく仕えたように、この叔父(かつ舅)にもよく仕えた。1825年7月24日、差出人不明のマリー・テレーズ殺害予告文を議会で大臣に見せた。いまだに政敵から命を狙われていたとはいえ、彼女を慕う人々の訪問は絶えなかった。王太子妃の身分となっても使用人は45人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。そしてベリー公の遺児ルイーズとアンリの面倒を見た。2人は伯母によくなついた。フランスに帰国していたルイ・フィリップを相変わらず嫌っていたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちにプレゼントを贈った。だが、ルイーズとアンリにはかつて自分が母にされたように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返した。子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしなかった。孫たちの様子はシャルル10世を満足させた。

7月革命後の再亡命[編集]

イギリス[編集]

1830年7月革命によって、またしてもマリー・テレーズたちシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなった。パリ暴動の後、マリー・テレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却し、買い手のドゥカズ子爵は、ベリー公暗殺の際に罷免されたドゥカズの兄弟であった。亡命準備をしたマリー・テレーズは、親友ポーリーヌと泣きながら別れた際に、マリー・アントワネットの遺品の印章を差し出した。これが2人にとって今生の別れとなった。7月革命の4ヶ月前にスペイン国王フェルナンド7世は娘イサベルのためにサリカ法を廃し、弟カルロスの王位継承を妨げていた。フランスのブルボン家が後にこのニュースを知った際、マリー・テレーズは「ずっと前にフランスがやるべきことだった」と不満を表した。

シャルル10世一家は8月3日にパリを出発して北上した後、8月16日シェルブールからイギリスへ渡った。ワイト島のセントヘレンズへ上陸させられた一家は、ウィリアム4世の代理となったウェリントン公の信書を受け取る。そこには、私人として到着するならイギリスに避難所を用意する旨が記されていた。イギリスでシャルル10世はポンティユー伯爵、マリー・テレーズはマルヌ伯爵夫人、ベリー公妃はロニー伯爵夫人、アンリはシャンボール伯爵と名乗ることとした。

カトリック教徒のトマス・ウェルド卿は、国王一家にドーセットのラルワース城を貸した。マリー・テレーズは秘書のシャルレ男爵の画策[疑問点]により、一家を養うため多くの金をロンドンの銀行家ワースから受け取った。10月、一家はエディンバラのホリールード宮殿に移ったが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズは宮殿の近くに小さな家を借りた。シャルル10世は老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだと、たびたび口にした。

オーストリアの庇護下[編集]

フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世(かつての神聖ローマ皇帝フランツ2世)を頼りプラハへ移ることに決定した。その際、マリー・カロリーヌは同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランスに帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする」と宣言し、署名した。その直後、マリー・カロリーヌは姿を消し、ヨーロッパ各地を転々とした後、1832年4月にブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こして逮捕された。拘留中のマリー・カロリーヌが青年弁護士との間の子を妊娠していることとエットーレ・ルケージ・パッリ伯との秘密結婚が明らかにされ、嫁の不貞に怒ったシャルル10世はマリー・カロリーヌを絶縁し、マリー・テレーズが母親代わりにルイーズとアンリを養育することになった。

プラハではフラドシン城を用意してもらい、ここでシャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させた。彼女は刺繍をして静かに過ごし、その作品はオークションにかけて、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居を重ねた。ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ移らされる。ここでは散歩に読書、刺繍、祈りを日課として静かに暮らした。作品はまたオークションで利益を生み、売上は貧しい者たちに寄付された。

マリー・テレーズは1851年10月19日肺炎のため死亡した[要出典]。夫との間に子が無かったため、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。

備考[編集]

タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔のマリー・テレーズの肖像画が残されている。しかし、その後の過酷な体験を反映して、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている[要説明]。革命から解放された当初のマリー・テレーズは、その悲痛な体験のためフランス国民からの同情を受けていた。しかし堅物な性格や、若さをイメージさせる王太子妃としてはかなり高齢だったことから、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったという説もある[要出典]。また生涯を通して、母のように愛人を作ることはなかったと伝えられる[要出典]

王政復古時より「マリー・テレーズは共に養育されたエルネスティーヌとタンプル塔内ですり替えられてオーストリアに送られた」とする説があり[要出典]、ドイツに存在した闇の伯爵夫人と呼ばれる女性が本物のマリー・テレーズではないかと言われた[要出典]。また、幽閉時に極秘出産したとされる俗説もあり、マリー・テレーズの晩年まで実子を名乗る者からの手紙が届いた[要出典]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ エルネスティーヌの法的文書には母・フィリピーヌ・ド・ランブリケの名前は記されていたが、フィリピーヌの夫ジャックの名前は載っておらず、当時ルイ16世の嫡外子ではないかと言われた[1]
  2. ^ その後、エルネスティーヌはナポレオン時代をパリで暮らし、1810年12月7日に妻に先立たれたジャン・シャルル・ブランパンと結婚、1813年12月30日にパリ郊外で死亡した[2]
  3. ^ クレメンス・フォン・ザクセンはザクセン選帝侯のち国王フリードリヒ・アウグスト3世の叔父にあたる。
  4. ^ ワルシャワは第3次ポーランド分割によりプロイセン領となっていた。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • スーザン・ネーゲル『マリー・テレーズ』近代文芸 my社、2009年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]