マルティニーク

マルティニーク
Martinique
マルティニークの マルティニークの
マルティニークの旗 マルティニークの紋章
マルティニークの位置
公用語 フランス語
行政所在地 フォール=ド=フランス
地域圏 マルティニーク
県番号 972
大統領 エマニュエル・マクロン
プレフェ(知事) ジャン=クリストフ・ブヴィエ(Jean-Christophe Bouvier)
執行評議会議長 セルジュ・レッチミー英語版
議会議長 ルシアン・サリバー(Lucien Saliber)
面積
 -  総面積 1,128 km²
 -  水面積率 (%)
人口
 -  推計(2011年) 407,000人
 -  人口密度 361/km²
GDP (PPP)
 -  合計 500百万ドル(2000年)
通貨 ユーロ (EUR)
時間帯 UTC-4 
ISO 3166-1 MQ / MTQ
ccTLD .mq
国際電話番号 +596

マルティニークMartinique、アンティル・クレオール語: Matinik、または Matnik)は、フランス海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島南部の小アンティル諸島の中のウィンドワード諸島に属する島である。

海を隔てて北にドミニカ国が南にセントルシアが存在する。県都フォール=ド=フランス(Fort-de-France)。面積1,128平方キロ、人口407,000人(2011年)、時間帯はUTC-4、国番号は596で、ドメイン名は.mqである。

「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は、に住んでいたカリブ人言葉で「マディニーナ(Madinina、花の島)」、または「マティニーノ(Matinino、女の島)」である。

歴史[編集]

マルティニークは、1502年ジェノヴァ人の航海者、クリストファー・コロンブスの第四次航海により「発見」されたが、を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続けたこの島は暫くヨーロッパ人の侵入を退けた。しかし、1635年セント・キッツ島を拠点にしたフランス人ピエール・ブラン・デスナンビュックPierre Belain d'Esnambuc)が上陸した。既にイギリス人による入植が行われていたが、これによってフランスが主導権を握り、1658年フランス軍は抵抗する島民を虐殺、島民は絶滅したといわれる。

島の植民地化が進むと、マルティニークはアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビプランテーション農業で経済的に発展し、大西洋三角貿易によってサン=ドマンググアドループと共にフランス本国に多大な利益をもたらした。この時期に、後にエメ・セゼールフランツ・ファノンが批判した、肌の色によって全ての序列が決定される階層社会が成立した。

18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年に、一時イギリスによって占領されたが、1763年に発効したパリ条約により、フランスはカナダと引き換えに島を確保した。アメリカ独立戦争が始まると、1780年に英仏の間でマルティニーク島の海戦が行われた。

1789年にフランス革命が勃発すると、1791年にはサン=ドマング黒人大暴動に続いてマルティニークでも黒人奴隷は自由を求めて反乱を起こしたが、間もなく王党派のグラン・ブラン(大白人)によって奴隷反乱は鎮圧され、王党派は共和制フランス(第一共和政)を裏切ってイギリスに帰属し、1794年から1802年のアミアンの和約までイギリス軍の占領が続いた。

1793年に、フランスの国民公会では、ジャコバン派ロベスピエールによって奴隷制の廃止が決議されていたが、1802年にマルティニークがフランスに返還された後に、マルティニークのグラン・ブラン出身のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚していたナポレオン・ボナパルトは、サン=ドマングの再征服を行ってトゥーサン・ルーヴェルチュールを捕らえ、カリブ海の植民地での奴隷制の復活を考えた。ジャン=ジャック・デサリーヌによって指導されたハイチ人はフランス軍を破り、1804年にハイチは独立を達成したが(ハイチ革命)、ナポレオンはその他の西インド諸島の植民地での奴隷制を再導入し、マルティニークでも奴隷制が復活した。

1763年、大白人(グラン・ブラン)の娘としてジョゼフィーヌ・ド・ボアルネナポレオン・ボナパルトの妻)が生まれ、1796年にジョゼフィーヌがナポレオンと結婚した。

マルティニークに聳えるヴィクトル・シュルシェールの像。シュルシェールは現在もアンティーユ人に敬愛されている。

1848年2月にフランス二月革命によって第二共和政が樹立されると、4月にはヴィクトル・シュルシェールによって再び奴隷制の廃止が実施されたが、奴隷制廃止の時期が引き伸ばされたため、黒人奴隷による暴動が勃発した。その後ナポレオン3世第二帝政下で黒人選挙権は失われたものの、普仏戦争の敗戦によって第三共和政が成立すると、以降は「文明化の使命」の概念により、黒人への選挙権の復活、植民地県議会の開設、徴兵制の導入など、政治面、文化面の双方において、マルティニーク人のフランス国民への同化政策が進められた。

1888年頃に島内で生産されたラム酒の広告。当時の白人と黒人の立場が象徴的に描かれている。

1902年にはプレー火山が爆発、火砕流で当時の県庁所在地だったサン・ピエールで住民3万人が死亡、街は壊滅し、島の首府がフォール・ド・フランスに移転した。

第二次世界大戦が勃発し、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、マルティニーク政府は親独中立のヴィシー政権に帰属し、島にはヴィシー政権の水兵が上陸した。フランス銀行の金塊をカナダに移送していた軽巡洋艦エミール・ベルタンは、降伏を受けて行き先をマルティニーク島に変更し、金塊ともども島に留まった。連合国とは、マルティニーク島を爆撃しない代わりに、マルティニーク島からフランス軍艦を出航させないという協定が結ばれた。大戦中の島ではナチズム風の人種主義が露骨な形で顕れたが、1943年中頃にレジスタンスが蜂起し、連合国側の自由フランスに鞍替えした。エミール・ベルタンは連合国の南フランス上陸作戦に投入され、フランツ・ファノンのようなマルティニーク出身の兵士も、アルザスの戦いなどにおいて連合国側で戦った。

第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代を迎えると、1945年にフランス共産党から立候補した黒人文学者で教育者のエメ・セゼールがフォール市市長に当選した。かつてネグリチュード運動を主導し、フランスの「白い普遍」に対する反逆者だったセゼールは、以後フランスへの同化政策を採らざるを得なかった。

1946年にマルティニークはフランス海外県となった。セゼールはその後も自治を求めたが、当時の首相であったシャルル・ド・ゴールにとって「海の上の小さな埃」に過ぎなかったマルティニークに自治は認められず、1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニークは同化されるべき海外県との扱いから脱することが出来ず、現在も海外県のままである。また、2002年にはユーロの流通が始まった。

政治[編集]

マルティニークはフランスにおける海外県の地位にあり、フランス国民議会に4名、元老院に2名の代表を送る権利を持っている。4つのと45の小郡、34のコミューンがある。

地理[編集]

マルティニーク島の巨大な噴火を起こしたプレー山は、北西部サン・ピエール (St.-Pierre) の真北7kmの位置にそびえる。
マルティニークの熱帯林

山がちな火山島で、島の北部に活火山プレー山(またはペレ山、標高1397m)がある。南部には古代の火山の遺跡があり、中央部は狭い平野である[1]。南側のセントルシアとの間はセントルシア海峡英語版である[2]

島には森林河川湿地があり、海岸には砂浜ラグーンマングローブサンゴ礁、海洋被子植物藻場がある。島には固有種の鳥類のマルチニクムクドリモドキ英語版が生息しており、2021年にユネスコ生物圏保護区に指定された[1]アメリカウナギカワスズメなどの餌場となるマングローブが発達している南部のサリーヌ池フランス語版は2008年にラムサール条約登録地となった[2]

経済[編集]

島内のラム酒蒸留所に集積されるサトウキビ。

砂糖ラム酒バナナパイナップルなどの農業観光業が経済の中心である。しかし、住民を養うには到底足りるものではなく、食糧や日用品の多くをフランス本国からの輸入に頼っているため物価水準が高い。また、失業率も高く、そのために多くのマルティニーク人がフランス本土に出稼ぎしている。

交通[編集]

住民[編集]

ドミニカ国以外の全ての西インド諸島諸国に共通するように、元いた先住民カリブ人は、ヨーロッパ人による虐殺やヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により現在は全滅しており、純粋な先住民は現在1人もいない。アフリカから奴隷として連れて来られた黒人と、クレオール人(ムラート)が多く、フランスの白人華人華僑)、インド人(印僑)レバノンシリアパレスチナから移民したアラブ人なども少数存在する。住民の多くはフランス語クレオール語を話すが、クレオール語には低い位置が与えられている。宗教はカトリック信者が多い。

260,000人のマルティニーク出身者がフランス本土で暮らし、多くはパリ地域に居住している。

人口[編集]

歴史的人口推移
1700
推計
1738
推計
1848
推計
1869
推計
1873
推計
1878
推計
1883
推計
1888
推計
1893
推計
1900
推計
24,000 74,000 120,400 152,925 157,805 162,861 167,119 175,863 189,599 203,781
1954
国勢調査
1961
国勢調査
1967
国勢調査
1974
国勢調査
1982
国勢調査
1990
国勢調査
1999
国勢調査
2006
国勢調査
2007
推計
2008
推計
239,130 292,062 320,030 324,832 328,566 359,572 381,427 397,732 400,000 402,000
公式の数字は過去の国勢調査とINSEEの推計によった。

文化[編集]

マルティニークの舞踊

音楽[編集]

19世紀後半のマルティニークでは、ヨーロッパとアフリカのダンス音楽が融合し、幾つかのダンス音楽が生まれた。そのうちの一つであるビギンアレクサンドル・ステリオなどの活躍により、1920年代から1930年代にかけてフランス本土で隆盛を見せた。ビギンは後の1980年代にも、カリなどにより、再び脚光を浴びた。その他のジャンルとして、1960年代後半に発生したカダンス、カダンスの流れを引き継いだジャンルであるズーク、農村部の伝統音楽であるプレアー、プレアーの構成に格闘技を伴うダミエなどのジャンルが存在する。

文学[編集]

文学においては、セネガルレオポルド・セダール・サンゴールと共にネグリチュード運動を担い、『帰郷ノート』(1939年)、『植民地主義論』(1950年、1955年)で知られるエメ・セゼールや、セゼールの教え子であり、アルジェリア革命にアフリカ革命を見出し、ポストコロニアリズムの先駆者となった、『黒い皮膚・白い仮面』(1952年)、『アフリカ革命に向けて』(1964年)で知られるフランツ・ファノン、同じくセゼールの教え子であり、ヨーロッパでもアフリカでもないアンティル諸島に特有の心性として、アンティル性アンティヤニテ英語版)を見出したエドゥアール・グリッサン、アンティヤニテを批判してより広い視野を持って世界を見ることを訴えるクレオリテを主張し、『クレオールとは何か』(1991年)などで知られるパトリック・シャモワゾーラファエル・コンフィアンRaphaël Confiant)の名が特に挙げられる。

スポーツ[編集]

マルティニークではサッカーが最も人気のスポーツであり、1919年にサッカーリーグのマルティニーク・シャンピオナ・ナシオナル英語版が創設された。サッカーマルティニーク代表カリビアンカップ1993年大会で優勝を果たしている。さらにCONCACAFゴールドカップでは、2002年大会でベスト8の成績を収めた。

マルティニークの帆船ヨールフランス語版の建造、航海、レースフランス語版レガッタ)などは2020年にユネスコの無形文化遺産(「ベスト・プラクティス」部門)に登録された[3]

出身者[編集]

登場作品[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b Martinique Biosphere Reserve” (英語). UNESCO (2022年6月10日). 2023年3月22日閲覧。
  2. ^ a b Etang des Salines | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2023年7月13日). 2023年7月20日閲覧。
  3. ^ UNESCO - The Martinique yole, from construction to sailing practices, a model for heritage safeguarding” (英語). ich.unesco.org. 2023年3月22日閲覧。
  4. ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、36頁。ISBN 978-4-7993-1314-5 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯14度40分 西経61度00分 / 北緯14.667度 西経61.000度 / 14.667; -61.000