マーク・ジョンソン (内野手)

マーク・ジョンソン
Mark Johnson
1988年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 マサチューセッツ州ウースター[1]
生年月日 (1967-10-17) 1967年10月17日(56歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
230 lb =約104.3 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手[2]
プロ入り 1990年 MLBドラフト20巡目(全体537位)でピッツバーグ・パイレーツから指名[1]
初出場 MLB / 1995年4月26日[1]
NPB / 1999年4月2日
最終出場 NPB / 1999年10月7日
MLB / 2002年6月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

マーク・パトリック・ジョンソンMark Patrick Johnson1967年10月17日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウースター出身の元プロ野球選手一塁手外野手)。左投左打[1][2]

アイビー・リーグの名門であるダートマス大学出身[4]日本プロ野球 (NPB) では1999年セントラル・リーグ阪神タイガースに所属した[5]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

ダートマス大学時代はフットボールクォーターバックとして活躍した[4]1989年MLBドラフト42巡目(全体1094位)でピッツバーグ・パイレーツから指名されたが、この時は入団しなかった[3]

来日前[編集]

1990年MLBドラフト20巡目(全体537位)で再びパイレーツから指名され、プロ入り[1]。傘下のAA (2A) 級カロライナ・マドキャッツ(現:ペンサコーラ・ブルーワフーズ)でプレーしていた1994年にはサザンリーグの本塁打王(23本)に輝いている[6]

1995年4月26日[1]モントリオール・エクスポズ戦でMLBデビューを果たした[7]1996年には主に一塁手として出場して13本塁打を放った。1998年はシーズンの大半をシンシナティ・レッズ傘下のAAA (3A) 級(ルイビル・バッツ)で過ごし[4]、メジャーではわずか10試合に出場したのみだった[2]。同年までのMLB時代の通算成績は実働4年で[8]通算294試合出場[4]・打率.236・30本塁打・104打点で、同年まで在籍していたロサンゼルス・エンゼルスでは長谷川滋利とチームメイトだった[8]

阪神時代[編集]

1998年12月28日に阪神タイガースと1年契約で合意し[9]外野手登録で入団[2]。入団時には「一塁手だが外野も守れる」という触れ込みだった[2]。背番号は42・年俸は1億1,000万円だが[4]、入団時には元チームメイトの長谷川が「日本野球への適応力がある」と太鼓判を押していた一方[8]、「好不調の波が激しく、巨漢なのにパワーもいまいち」とする評価もあった[4]

1999年2月11日にマイケル・ブロワーズとともに新外国人として来日すると[10]、シーズン序盤には15打席連続無安打・スタメン落ちも経験したが、その後は調子を上げ[11]、前半戦だけで19本塁打を記録[5]。特に5月は7本塁打を記録し、6月にはチームを1週間ながら首位に立たせ[5]、左の大砲として前半戦快進撃の立役者になった[12]。好調のきっかけは野村克也監督から右手の甲の使い方をアドバイスされ、独特のアッパースイングがレベルスイングに矯正されたからであり[11]、その活躍ぶりを受けて阪神ファンから「バースの再来」と讃えられ[11]、「ジョン様」とも呼ばれた[5]

5月5日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦[5]阪神甲子園球場[13]では4試合連続となる決勝8号ソロ本塁打を放ったが、巨人戦で4試合連続本塁打を放った選手は1991年八木裕以来だった[5]。また7月8日の対ヤクルトスワローズ16回戦(阪神甲子園球場)では先発投手・石井一久[注 1]との相性の悪さからスタメンを外されていたが、2点ビハインドの9回裏に一死二・三塁の場面で代打として登場し、3番手投手・高木晃次から中堅右方向への第18号・逆転サヨナラ3点本塁打を放った[14]。試合終了後、ヒーローインタビューでは日本語で「今までの野球人生で最高の瞬間です」と発言した[14]

しかし、後半戦は相手チームから弱点を研究されたことで別人のように低迷し、わずか1本塁打に終わった[5]。その後半戦唯一の本塁打は9月26日の対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤドーム)で9回表に宣銅烈から打った20号逆転3点本塁打だったが、その裏に山﨑武司が3番手投手・福原忍から再逆転サヨナラ3点本塁打を打ったため、試合には敗れた[15]。最終的な打撃成績は打率.253・20本塁打・66打点だった[12]

守備は外野手登録だったが、ほとんど一塁手としての起用のみで、他のポジションは左翼手として1試合就いたのみだった[16][17]。後半戦で完全に攻略された事や、同じポジションに大豊泰昭がいたことから解雇が決まり[12]、シーズン最終戦後の10月8日に退団が発表された[18]

阪神退団後[編集]

2000年ニューヨーク・メッツでMLBに復帰し、2001年には阪神時代に交友を深めた新庄剛志と再びチームメイトとなり、彼とはNPB・MLBの両方でクリーンナップを組んだ経験のある間柄となった[19][20]2002年を最後に現役引退。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1995 PIT 79 261 221 32 46 6 1 13 93 28 5 2 0 1 37 2 2 66 2 .208 .326 .421 .746
1996 127 396 343 55 94 24 0 13 157 47 6 4 0 4 44 3 5 64 5 .274 .361 .458 .819
1997 78 267 219 30 47 10 0 4 69 29 1 1 0 3 43 1 2 78 1 .215 .345 .315 .660
1998 ANA 10 14 14 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 6 1 .071 .071 .071 .143
1999 阪神 125 438 376 52 95 23 1 20 180 66 1 1 0 6 53 6 3 78 11 .253 .345 .479 .823
2000 NYM 21 27 22 2 4 0 0 1 7 6 0 0 0 0 5 0 0 9 1 .182 .333 .318 .652
2001 71 136 118 17 30 6 1 6 111 23 0 2 0 2 16 1 0 31 0 .254 .338 .475 .813
2002 42 61 51 5 7 4 0 1 14 4 0 0 1 0 9 0 0 18 0 .137 .267 .275 .541
MLB:7年 428 1162 988 142 229 50 2 38 397 137 12 9 1 10 154 7 9 272 10 .232 .338 .402 .739
NPB:1年 125 438 376 52 95 23 1 20 180 66 1 1 0 6 53 6 3 78 11 .253 .345 .479 .823

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB[19]

背番号[編集]

  • 36(1995年 - 1997年)
  • 32(1998年)
  • 42(1999年)
  • 5(2000年、2002年)
  • 20(2001年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 石井は同試合では8回まで毎回奪三振を記録し、最終的に14奪三振を記録した[14]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f Mark Johnson Stats, Fantasy & News” (英語). MLB.com. メジャーリーグベースボール. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e ホームラン 1999, p. 104.
  3. ^ a b Mark Johnson Stats” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  4. ^ a b c d e f フジテレビジョン『プロ野球ニュース』 編『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑 '99』(第1刷発行)ザ・マサダ、1999年3月5日、115頁。 
  5. ^ a b c d e f g 阪神外国人選手列伝 99年前半で大活躍のジョンソン、弱点研究された後半は…」『デイリースポーツ』、2020年5月17日。2020年8月12日閲覧。オリジナルの2020年8月12日時点におけるアーカイブ。
  6. ^ 「ピッツバーグ・パイレーツ」『1997大リーグ総ガイド』 週刊ベースボール1997年4月16日増刊号 ベースボール・マガジン社 103頁
  7. ^ Mark Johnson 1995 Batting Game Logs” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  8. ^ a b c 江川卓二宮清純『江川卓・スカウティングレポート'99』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1999年3月25日、193頁。ISBN 978-4915977848 
  9. ^ 中日新聞』1998年12月30日朝刊第二運動面18頁「阪神と1年契約 ジョンソン合意」(中日新聞社
  10. ^ 『中日新聞』1999年2月12日朝刊第三運動面23頁「ブロワーズら2外国人来日 阪神、あす合流」(中日新聞社)
  11. ^ a b c 東京新聞』1999年5月7日朝刊第一運動面19頁「プロ野球開幕1ヵ月 新外国人選手、早くも明暗 阪神・ジョンソン バース再来の賛辞も 日本ハム・フランクリン 本塁打、打点で首位」(中日新聞東京本社 記者:加藤木信夫)
  12. ^ a b c 『中日新聞』1999年11月4日朝刊第一運動面19頁「プロ野球短信 3日 【阪神】「大豊は絶対必要」」(中日新聞社)
  13. ^ ホームラン 1999, p. 234.
  14. ^ a b c 『東京新聞』1999年7月9日朝刊第二運動面22頁「セ・リーグ 石井一、9回乱調 甲子園(16回戦8勝8敗)阪神7-6ヤクルト ディス・イズ・野球や 劇的代打ジョンソン、逆転サヨナラ3ラン」(中日新聞東京本社)
  15. ^ 『東京新聞』1999年9月27日朝刊第二運動面20頁「セ・リーグ 阪神11連敗 ナゴヤドーム(25回戦中日18勝7敗) 中日5-4阪神」(中日新聞東京本社)
  16. ^ ベースボール・マガジン社 1999, p. 293.
  17. ^ ベースボール・マガジン社 1999, p. 333.
  18. ^ 『中日新聞』1999年10月9日朝刊第一運動面37頁「プロ野球短信 8日 【阪神】ジョンソンが退団」(中日新聞社)
  19. ^ a b ベースボール・レコード・ブック2000(ベースボール・マガジン社 1999年12月)カード別対戦成績 = スコアテーブル
  20. ^ 2001 New York Mets Statistics” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]