ミャンマー内戦

ミャンマー内戦

ミャンマーの紛争地域(1995年 - 現在)
1948年4月2日
場所ミャンマーの旗 ミャンマー
現況 進行中
衝突した勢力

民族武装組織(EAOs)各勢力(一覧英語版 援助国:
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
ロシアの旗 ロシア
インドの旗 インド
日本の旗 日本
イスラエルの旗 イスラエル (装備供与)
装備の国産化支援
ドイツの旗 ドイツ
イタリアの旗 イタリア
 ウクライナ

反軍部・民主化勢力(国民民主連盟など)
ミャンマーの旗 国民統一政府臨時政府、2021-)

援助国:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
欧州連合の旗 欧州連合


民族武装組織(EAOs)各勢力(一覧英語版 援助国:
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
指揮官
ミャンマーの旗 ミン・アウン・フライン
ミャンマーの旗 ソー・ウィン
ミャンマーの旗 ミャー・トゥ・ウ英語版
ミャンマーの旗 ヤー・ピエ英語版
ミャンマーの旗 アウン・リン・ドゥエ英語版
アウン・カム・ティー英語版
ミャンマーの旗 ドゥワ・ラシ・ラー
ミャンマーの旗 マン・ウィン・カイン・タン英語版
クン・ベドゥ英語版
タ・ボン・チョー英語版
トゥワン・ムラッ・ナイン英語版
マウン・サウン・カー英語版
部隊
-
戦力
正規軍約406,000名 -
ミャンマーの民族分布
  ビルマ族/モン族
  カレン族/ビルマ族
  ビルマ族/シャン族
  その他(ナガ族コーカン(果敢)族など)

注意:ロヒンギャなどは示されていない

ミャンマー内戦(ミャンマーないせん、ビルマ語: မြန်မာနိုင်ငံပြည်တွင်းပဋိပက္ခများ)もしくはビルマ内戦とは、ミャンマー(ビルマ)国内において1948年の独立時から現在に至るまで長期に渡って継続している内戦のことである。一般的にはビルマ族を中心とする中央政府と辺境地域の少数民族の独立勢力との戦いだと認知されているが実際には多種多様な勢力が入り乱れており概要を把握することが困難である。また現在も継続中のものとしては世界最長の内戦である。

独立とビルマ共産党及びカレン民族同盟の蜂起[編集]

ミャンマーは周りをひらがなのしの字を逆さにしたような山脈地帯に囲まれた国であり、中央の平原地帯に人口が多いビルマ族が、周囲の山岳地帯には人口は少ないが多種多様な民族が居住している。 ミャンマーは1948年1月にパンロン会議を経てビルマ連邦として独立。当初の与党はビルマ共産党(CPB)、アウンサン派、ウー・ヌ派の三派合同であるAFPFLだったが新生ビルマの指導者となったウー・ヌはビルマ共産党を排除しようとした。 ウー・ヌ政権の反共政策に対してビルマ共産党は1948年4月2日に蜂起。同時に中央政府の仏教化政策に反発したカレン族カレン民族同盟(KNU)とその軍事部門カレン民族解放軍KNLA)を結成し参戦、また与党AFPFLの民兵組織であり、ビルマ国軍の前身である人民義勇軍(PVO)のうち国軍に編入されなかった部隊や国軍内のカレン族兵士や共産党シンパがビルマ共産党及びKNUに同調し離反するという内戦が勃発した[1][2]。国軍からの離反は実に将兵の42%と保有兵器の45%に及んだ[3]。 また1949年に中国国内から国共内戦に敗れた中国国民党(KMT)軍部隊がシャン州に逃れ現地の少数民族と結託して同地域を占拠した(泰緬孤軍)。これらの事象が重なり1949年の段階ではウー・ヌ政権はラングーン周辺の半径10km以内のみを実効支配するだけであり、ビルマ政府ならぬラングーン政府と揶揄されていた[2][4][5]。 対するビルマ国軍も元ビルマ国民軍司令官のネ・ウィン将軍を中心に再編成され、各勢力の寄り集まりだったビルマ軍を整理し少数民族出身の幹部を放逐したうえでかつてのビルマ国民軍出身者の多くを幹部に登用して組織を立て直した[6]。これにより1953年までにウー・ヌ政権はビルマの主要地域の回復に成功し、1960年代にはビルマと中華人民共和国の共同作戦(中緬国境作戦)により国民党残党軍はビルマ領内から掃蕩されタイに逃れた。一方でシャン州など連邦を構成する各州が自治権拡大を要求するようになった。これらの動きに対してビルマ共産党やKNLAや国民党軍との戦いの矢面に立っていた国軍は文民政権が弱腰だと不満を持つようになった[2]

ネ・ウィン政権期[編集]

1962年3月2日にビルマ国軍のネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし軍事政権を成立させた(ビルマのクーデター (1962年)英語版)。ネ・ウィン将軍はビルマ社会主義計画党 (BSPP)を立ち上げた上で ビルマ式社会主義を掲げ、各少数民族への同化政策と自治権はく奪を行った。これらの政策に対してカレン族シャン族のみならずカチン族モン族など各少数民族はそれぞれ独立運動を起こし再び内戦が激化し、最終的に20以上もの独立勢力が乱立して軍事政権に対してゲリラ戦を行うようになった[2]。1976年には少数民族11党派により民族民主戦線(NDF)が結成された[7]。これらの独立勢力により辺境地域はビルマ中央の政権の支配が及ばず、事実上の独立状態になった。 一方、ビルマ共産党 (白旗共産党)はペグー山地の拠点を放棄し、中国の支援のもとシャン州北東部・中緬国境コーカン(果敢)族ワ族居住地域に根拠地を建設した。ビルマ共産党の幹部はビルマ族であったが、下士官はこれら少数民族であった。

さらにタイ及びラオスとの国境地帯では中国国民党残党軍が撤退した後を引き継ぐようにしてクン・サ率いるモン・タイ軍英語版などの麻薬組織が台頭し、民族独立を大義名分にしてアヘンの製造を行うようになり事実上の軍閥として一帯を統治下に置くようになった。このためタイ、ミャンマー、ラオスの3国の国境が交わる地域は黄金の三角地帯と呼ばれるようになった。 またBSPP政権下でビルマ国軍は辺境部の反政府勢力への掃討作戦や少数民族の強制移住を行う一方、都市部の軍事支配を盤石にし、また銀行業や建設業などの主要なビジネスに手を広げビルマ最大の社会・商業組織となった[8]

SLORC/SPDC政権期[編集]

1988年の8888民主化運動でいったんビルマは民主化したが一カ月後に再度のクーデターで再び軍事政権である国家法秩序回復評議会(SLORC、1997年に国家平和発展評議会に改組)が成立。民主化運動家たちは国外に亡命するかビルマ民主同盟(DAB)及び全ビルマ学生民主戦線を結成して少数民族と合流、ゲリラ戦を展開した[9]。1990年12月にはビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)が結成された[10]。 SLORC政権側も軍拡を進め、1988年には約19万人だったビルマ(1989年に国名をミャンマーに変更)国軍の兵力を1993年までに30万人以上にまでに増員し少数民族勢力への攻勢を開始、1988年から1992年にかけては1948年以来最大規模となる戦闘が行われた。これにより100万人以上の国外難民が発生した(ミャンマー難民[11]

1989年、ビルマ共産党の党内クーデターにより以前からの幹部が追放され、コーカン族によるミャンマー民族民主同盟軍ワ族によるワ州連合軍シャン族アカ族によるシャン州東部民族民主同盟軍、カチン族によるカチン新民主軍として再編された。軍情報部のキン・ニュンはビルマ共産党が崩壊するとこれらの勢力と即座に停戦条約を結び、各勢力の利権と自治を大幅に認めた。この他にもシャン州軍 (北)カチン独立軍など多くの少数民族武装勢力と停戦条約を結び、支配領域を特区として承認した。

キン・ニュン失脚後、SPDCはシャン州民族軍やパラウン州解放軍などの小規模な少数民族に圧力をかけて武装解除させようとしたが、シャン州民族軍は停戦を破棄し、シャン州軍 (南)に合流した。

2009年4月以降、SPDCは2008年憲法に基づき、少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊に転換するよう圧力をかけた。しかしながら、カレンニー民族人民解放戦線民主カレン仏教徒軍を除けば国境警備隊への転換を承諾した武装組織は無く、ほぼ全ての勢力が転換を拒否した。2009年8月には中緬国境コーカンにおいて国境警備隊への転換を拒んだミャンマー民族民主同盟軍 (MNDAA)と国軍との戦闘が勃発し、MNDAAはコーカンから追放された。この戦闘以降、国軍と少数民族武装勢力との間で緊張が高まった。

民主化以後[編集]

2011年以降にミャンマーで政治体制の民主化(文民政権への暫定的な移行)が進んだことを受け、一旦は各独立勢力との停戦交渉が進んだ。テインセイン政権初期には州レベル・連邦レベルの和平合意が成立し、2015年には全国停戦合意英語版 (NCA)が8つの少数民族武装勢力との間で署名された。 しかしながら、アウンサンスーチーの国民民主連盟 (NLD)政権下で和平プロセスの進行は翳りを見せた。NLD政権下でNCAに新たに署名したのは2組織のみであり、2017年には7つのNCA非署名勢力により連邦政治交渉協議委員会 (FPNCC)が結成された。FPNCCは少数民族武装勢力の中で最大規模の兵力を誇るワ州連合軍を盟主としており、非包括的な和平プロセスに異を唱えた。

NLD政権下では北部同盟と国軍の間で断続的な戦闘が勃発した。またロヒンギャ問題ではアラカン・ロヒンギャ救世軍などのロヒンギャ系勢力との戦闘が開始された。

2021年ミャンマークーデター[編集]

2020年11月8日に執行されたミャンマー連邦議会総選挙では、与党・国民民主連盟(NLD)が前回・2015年の選挙を上回る396議席を獲得し、改選議席476議席のうち8割以上を占める結果となった[12]。敗北を喫した国軍とUSDPは総選挙に不正があったとして抗議を行い、軍の支持者からは選挙の調査を求める声が挙がった[13]

2021年2月1日未明、国軍はウィンミン大統領、アウンサンスーチー国家顧問、NLD幹部、NLD出身の地方政府トップら45人以上の身柄を拘束。ウィン・ミン大統領とアウンサンスーチー国家顧問は首都ネピドーにあるそれぞれの自宅に軟禁された[14][15]

軍出身のミンスエ第一副大統領が大統領代行(暫定大統領)に就任し、憲法417条の規定に基づいて期限を1年間とする非常事態宣言の発出を命じる大統領令に署名し、国軍が政権を掌握。また、ミン・アウン・フライン国軍総司令官に立法、行政、司法の三権が委譲されミン・アウン・フラインは直ちに国家行政評議会を設立し、その長である国家行政評議会議長に就任した。[16]旧政権の閣僚24人は全員が解任され、新たに11人の閣僚が任命された。[14]

クーデター後[編集]

クーデターに反発した国民民主連盟所属の連邦議会議員らが主体となって独自の議会として連邦議会代表委員会(CRPH)を設立した。同委員会は国軍による統治を拒否して国民統一政府(NUG)と軍事組織である「国民防衛隊(PDF)」を設立し、少数民族の武装組織の一部と連携して国軍に対する武力による抵抗運動を開始した。

主な武装勢力[編集]

ミャンマーには100以上の少数民族が存在するが各民族が各々に独自の武装勢力を結成している。ミャンマー政府からはひとくくりに民族武装組織(ethnic armed organisations; EAOs)と呼ばれている。多くの勢力が分派と合併、再編を繰り返しており外部の人間が全容を把握することは困難である。 全てが反政府というわけではなく、組織同士あるいは組織内部での対立により政府側についた組織も存在する。

連邦政治交渉協議委員会

全国停戦合意署名勢力

その他

EAOsに分類されない武装勢力[編集]

出典[編集]

  1. ^ ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー 2003、p548
  2. ^ a b c d 物語ビルマの歴史 p278-288
  3. ^ ビルマ(ミャンマー)現代政治史 p15
  4. ^ ビルマの少数民族 p39
  5. ^ ビルマ(ミャンマー)現代政治史 16
  6. ^ ビルマ(ミャンマー)現代政治史 p16-17
  7. ^ ビルマの少数民族 p40
  8. ^ ビルマの少数民族 p43
  9. ^ 物語ビルマの歴史 p316-322
  10. ^ ビルマの少数民族 p44
  11. ^ ビルマの少数民族 p44-45
  12. ^ (2020年ミャンマー総選挙)選挙結果速報――国民民主連盟が再び地滑り的な勝利(長田 紀之)”. アジア経済研究所. 2022年2月21日閲覧。
  13. ^ ミャンマー軍が非常事態宣言、権力を1年掌握-スー・チー氏拘束”. Bloomberg.com. 2022年2月21日閲覧。
  14. ^ a b ミャンマー軍事政権、閣僚ら24人解任 新たに11人任命」『Reuters』、2021年2月1日。2022年2月21日閲覧。
  15. ^ 日本放送協会. “ミャンマー クーデターから1年 軍は今後も全権掌握続ける姿勢”. NHKニュース. 2022年2月21日閲覧。
  16. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2021年2月1日). “ミャンマー国軍、政権奪取を発表 非常事態も宣言”. 産経ニュース. 2022年2月21日閲覧。

参考文献[編集]

  • 佐久間平喜『ビルマ(ミャンマー)現代政治史 増補版(第三世界研究シリーズ)』、1993年8月。ISBN 4-326-39866-3
  • 田辺寿夫/根本敬『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』、2003年5月。ISBN 4-04-704129-7
  • 田村克己/松田正彦『ミャンマーを知るための60章(エリア・スタディーズ 125)』、2013年10月。ISBN 978-4-7503-3914-6
  • 根本敬『物語ビルマの歴史 -王朝時代から現代まで-』、2014年1月。ISBN 978-4-12-102249-3
  • マーティン・スミス著、高橋雄一郎訳『ビルマの少数民族 -開発、民主主義、そして人権-』、1997年10月。ISBN 4-7503-0976-1

関連項目[編集]