ライアン・グリン

ライアン・グリン
Ryan Glynn
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 バージニア州ポーツマス
生年月日 (1974-11-01) 1974年11月1日(49歳)
身長
体重
190 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト4巡目
初出場 MLB / 1999年5月16日
KBO / 2003年7月24日
NPB / 2006年5月21日
CPBL / 2011年5月19日
最終出場 MLB / 2005年7月6日
KBO / 2003年
NPB / 2009年9月23日
CPBL / 2011年8月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ライアン・デイヴィッド・グリンRyan David Glynn , 1974年11月1日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

経歴[編集]

MLBとサムスン時代[編集]

アメリカ陸軍訓練学校(バージニアミリタリー大学)出身。学生時代は右の強打者として活躍し、1995年のMLBドラフトでテキサス・レンジャーズから指名を受け、入団。直後に投手へ転向した。その後レンジャーズを退団し、2003年のシーズン途中に、不振により退団した元近鉄ナルシソ・エルビラの代役として三星ライオンズと契約。しかし不振により同年限りで退団。その後、ミネソタ・ツインズ傘下3Aのロチェスター・レッドウイングスに所属していたところ、2006年4月21日に右の先発投手が不足していた東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。

楽天時代[編集]

2006年5月中旬に来日すると先発ローテーションに定着。後半に5連敗を喫するも持ち直して4勝を挙げ、チーム最多タイ(一場靖弘と同数)の7勝(7敗)、防御率3.96の成績を残した。登板した全試合で途中降板するなど、雨天コールドゲームで記録した1試合を除いて完投は無かったが、シュート回転する速球(ツーシーム・ファストボール)を武器に、特に右打者に対して強さを見せた。

同年オフの契約更改にて交渉が決裂し、退団。12月中旬、北海道日本ハムファイターズが獲得を発表した。

日本ハム時代[編集]

2007年の開幕当初から先発ローテーションを任される。セ・パ交流戦では6試合に登板して負けなしの5勝、12球団1位の防御率1.01で交流戦最優秀選手に選ばれた。その後も調子を上げ、7月までに7連勝を挙げる。しかし夏場以降は好投しても打線の援護に恵まれず、1勝に終わる。最終的に9勝8敗ながら、防御率2.20(リーグ3位)という好成績を残した。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは第2戦に先発したが、敗戦投手となった。

2008年は開幕から打線の援護に恵まれず、7勝14敗(リーグワースト)と負け越したが、防御率は3.66だった。クライマックスシリーズではセカンドステージの第1戦と第5戦に登板するが、第1戦では3回を10失点、第2戦では2回2/3を5失点、通算防御率23.82で2敗を喫した。同年オフ、残留交渉が決裂し退団。翌年初頭に横浜ベイスターズが獲得した。

横浜時代[編集]

2009年はシーズンを通して先発ローテーションの一員として登板したが、外国人投手としては20年ぶりの15敗を記録するなど、チーム低迷の一因となった。また、リーグを跨いで2年連続のリーグ最多敗戦投手はNPBでは初の選手となった[1]。セ・パ交流戦では、5試合に登板して5敗。これにより、24試合制となって以降では、最多勝利記録(5勝)と、最多敗戦記録を併せ持つ唯一の投手となっている(2014年現在)。9月下旬、夫人の出産を理由に帰国し、シーズン終了後に球団側が契約を解除したため、そのまま退団した。

アメリカ独立リーグ時代[編集]

2010年7月、アトランティックリーグニューアーク・ベアーズと契約した[2]

台湾時代[編集]

2011年中華職業棒球大聯盟統一セブンイレブン・ライオンズに入団。背番号は14。登録名は『格林』。同年限りで退団した。

人物[編集]

野村克也について、「尊敬している。今まで野球をやってきて最高の監督だった。思いやりをもって接してくれた」と語った。日本ハムへの移籍が決まった際には、野村への感謝の気持ちを綴った手紙を贈ったという。野村は、2007年にグリンの所属する日本ハムがリーグ優勝を達成した際、「カモられるわ、グリンはやるわ…、本当にウチ(楽天)は日本ハムの後援会だな」と皮肉混じりにコメントした。

2007年4月22日の対福岡ソフトバンクホークス5回戦(東京ドーム)で試合途中に突然マウンドを降り、そのまま降板した。この行動に対し、試合後に「二塁走者の田上秀則が不審な動きをしていたので身の危険を感じた」と謎のコメントを残している。その後、田上の『リードをしては戻る』という行動がサインを盗んで打者に伝えていると思ったと言っている。

大変な家族想いで、シーズン中も何度か家族が来日していた。家族が球場で観戦する際に、グリンはイニングごとベンチに帰るときにスタンド方向に合図を送る。

試合中はボークなどで乱闘寸前まで発展することも多いが、普段は非常に物静かである。日本ハム時代のチームメイトである森本稀哲は「散歩とかしてて偶然会ってもライアンってつれないんですよ」と語っていた。

日本ハム時代はチームメイトやファンからはグリンではなく、ファーストネームのライアンと呼ばれた。これは、グリンが日本ハムに移籍した2007年に野手のアンディ・グリーンが在籍しており、紛らわしさを回避するためである。このため、アナウンスではフルネームで呼ばれた(グリーンも同様)。球団もグリンにファーストネームでの登録を薦めたが、本人は断って「グリン」を希望したという。

横浜時代の応援歌は、名前にちなんで童謡「グリーングリーン」の替え歌となっている(大洋時代の高橋雅裕も同曲を使用していた)。

2009年9月5日の対中日ドラゴンズ19回戦(ハードオフ新潟)で、グリンは先発機会が無いことからベンチ入りメンバーから外れていたが、マネージャーが先発メンバー表にスティーブン・ランドルフと間違えてグリンの名を書き入れてしまった[3]。結局、ベンチ入りメンバーを桑原義行と交代した上でグリンが先発登板し、井端弘和を打ち取った後にランドルフと交代した。なお、試合はランドルフが最後まで投げ抜き、2-0で勝利している。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1999 TEX 13 10 0 0 0 2 4 0 0 .333 262 54.2 71 10 35 0 1 39 3 1 46 44 7.24 1.94
2000 16 16 0 0 0 5 7 0 0 .417 412 88.2 107 15 41 2 3 33 3 0 65 55 5.58 1.67
2001 12 9 0 0 0 1 5 0 0 .167 219 46.0 59 7 26 1 0 15 5 0 38 36 7.04 1.85
2003 三星 15 10 0 0 -- 1 3 1 0 .250 250 57.1 65 5 16 0 3 28 1 0 33 32 5.02 1.41
2004 TOR 6 2 0 0 0 1 0 0 0 1.000 89 20.0 19 4 8 1 3 14 0 0 9 9 4.05 1.35
2005 OAK 5 3 0 0 0 0 4 0 0 .000 82 17.0 24 5 7 0 0 15 0 0 16 13 6.88 1.82
2006 楽天 21 19 1 0 0 7 7 0 0 .500 558 127.1 143 15 36 0 6 121 4 5 62 56 3.96 1.46
2007 日本ハム 24 24 0 0 0 9 8 0 0 .529 621 155.0 129 16 33 0 6 111 4 7 43 38 2.21 1.08
2008 26 25 2 0 0 7 14 0 0 .333 699 163.1 160 18 61 1 3 99 5 5 74 66 3.64 1.37
2009 横浜 23 23 0 0 0 3 15 0 0 .167 521 118.0 135 17 35 1 4 69 5 3 73 67 5.11 1.44
2011 統一 11 11 1 1 0 6 1 0 0 .857 295 73.1 54 2 12 0 6 60 2 0 16 12 1.47 0.90
MLB:5年 52 40 0 0 0 9 20 0 0 .310 1064 226.1 280 41 117 4 7 116 11 1 174 157 6.24 1.75
KBO:1年 15 10 0 0 -- 1 3 1 0 .250 250 57.1 65 5 16 0 3 28 1 0 33 32 5.02 1.41
NPB:4年 94 91 3 0 0 26 44 0 0 .371 2399 563.2 567 66 165 2 19 400 18 20 252 227 3.62 1.30
CPBL:1年 11 11 1 1 0 6 1 0 0 .857 295 73.1 54 2 12 0 6 60 2 0 16 12 1.47 0.90
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB投手記録
NPB打撃記録
  • 初安打・初打点:2006年6月11日、対広島東洋カープ6回戦(広島市民球場)、6回表に大竹寛から左翼線適時二塁打

背番号[編集]

  • 24 (2003年)
  • 50 (2006年)
  • 14 (2007年 - 2008年、2011年)
  • 10 (2009年)

登場曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 勝ってきたからこそ許される…中日・涌井がキャリアワーストタイ&リーグワーストの12敗目 足りないのは何か”. 中日スポーツ、東京中日スポーツ (2023年9月6日). 2023年9月6日閲覧。
  2. ^ BEARS INK GLYNN Returns to States for First Time Since 2006” (2010年7月10日). 2011年11月25日閲覧。
  3. ^ www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/09/06/01.html” (2009年9月6日). 2009年9月6日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]