一畑電気鉄道広瀬線

広瀬線
概要
現況 廃止
起終点 起点:荒島駅
終点:出雲広瀬駅
駅数 7駅
運営
開業 1928年7月24日 (1928-07-24)
廃止 1960年6月20日 (1960-6-20)
所有者 広瀬鉄道→山陰中央鉄道→
島根鉄道→一畑電気鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 8.3 km (5.2 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
路線図
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STRq
国鉄山陰本線
exSTR+r
0.0 荒島駅
exBHF
1.5 仲仙寺駅
exBHF
2.2 西赤江駅*
exBHF
2.7 西中津駅
exBHF
3.4 田頼駅
exBHF
4.0 小原駅*
exBHF
4.9 飯梨駅
exBHF
5.7 植田駅
exBHF
6.3 鷺の湯駅*
exBHF
6.6 鷺湯温泉前駅
exBHF
6.8 温泉前駅*
exKBHFe
8.3 出雲広瀬駅

*: 1946-1952年の間に廃止

広瀬線(ひろせせん)は、かつて安来市荒島駅島根県能義郡広瀬町(現:安来市)にあった出雲広瀬駅との間を飯梨川沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。

路線データ[編集]

  • 延長:8.3km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:7駅(起終点駅を含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流600V)
    • 荒島変電所、回転変流器(交流側445V直流側600V)直流側の出力150KW、常用1、予備1、製造所三菱電機[1]

歴史[編集]

広瀬鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
島根県能義郡広瀬町広瀬1952ノ2[2]
設立 1925年(大正14年)11月2日[2]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業[2]
代表者 社長 眞先哲太郎[2]
資本金 210,000円(払込額)[2]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[2]
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月山富田城[3]の城下町として栄えた広瀬は、江戸時代初頭に松江に繁栄を奪われ、国鉄山陰本線も町内を通過することはなかった。昔の繁栄を取り戻したいと考えた広瀬地区の住民が、山陰本線と広瀬を結ぶ鉄道を計画し、大正時代末期に広瀬鉄道を設立した。通例ならば能義郡の中心地安来駅を目的地とするが、資金面の問題から飯梨川を渡る鉄橋建設が困難だったことや建設距離が短くて済んだこと、そして島根県の県庁所在地・松江との往来を念頭に置いたことから接続駅を安来駅の一つ松江寄りになる荒島駅に設定した。

地形的に困難なところはなかったため建設は短期間で済み、昭和時代初頭に開業して島根県では一畑電気鉄道北松江線に次いで2番目に電車の走った路線になる[4]のだが、当初は旅客・貨物が多く活況を呈していたこの路線も時代の波に翻弄されることになった。

島根鉄道

第二次世界大戦中には国策により鳥取県米子市から南方に路線網を有し、(当時既に不要不急路線として休止状態〔後に再開されないまま廃止〕にあったが)島根県能義郡伯太町(現:安来市)にも乗り入れていた伯陽電鉄(現、日ノ丸自動車)と合併して山陰中央鉄道の広瀬線になり、戦後は独立して島根鉄道と名乗ったものの間もなく経営難から一畑電気鉄道に吸収され、同鉄道の広瀬線になった。しかし、モータリゼーションの進展や沿線の過疎化で乗客や貨物は減少し、それ故に老朽化した施設を更新することもままならない状態であった。

一畑電気鉄道の一路線になって間もなくの一畑電気鉄道の株主総会で施設の老朽化が著しく、経営状況も芳しくないため廃止してバスに転換するという決議がなされた。そのことを知った広瀬地区の住民は「道路事情が悪い」「バスでは定時運行できるかどうか疑問」「バスの運賃のほうが高いので経済的な損失も大きい」などと主張して何年にも渡って強硬な廃止反対運動を展開し、島根県にも調停を要請した。しかし、広島陸運局(現:中国運輸局)が保安監査を行ったところ鉄道としての存続は困難という結論が出たことで地域住民側も折れ、32年の歴史に終止符を打った。

なお、広瀬から南下して国鉄木次線出雲横田駅に出る構想もあったが、同じく吸収合併で一畑電気鉄道の一路線になった立久恵線(旧、大社宮島鉄道→出雲鉄道)とは異なって具体的な動きはないまま消滅している。

年表[編集]

  • 1924年(大正13年)9月25日 - 鉄道免許状下付(能義郡荒島村-同郡広瀬町間 動力蒸気)[5]
  • 1925年(大正14年)11月2日 - 広瀬鉄道株式会社設立[6][7]
  • 1928年(昭和3年)7月24日 - 荒島 - 出雲広瀬間開業[8]。当初から電化。
  • 1929年(昭和4年)
    • 4月18日 - 西中津駅開業。
    • 6月8日 - 植田駅を鷺ノ湯駅に改称届出。
    • 6月21日 - 植田駅、温泉前駅開業。
  • 1930-1934年 - 鷺ノ湯駅を鷺の湯駅に表記変更。
  • 1933年(昭和8年)12月15日 - 仲仙寺駅、小原駅開業。
  • 1944年(昭和19年)10月31日 - 伯陽電鉄と合併して路線名称を山陰中央鉄道広瀬線に改称。
  • 1946年(昭和21年) - 1952年(昭和27年) - 西赤江駅、小原駅、鷺の湯駅、温泉前駅廃止。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 山陰中央鉄道から独立して島根鉄道に改称。
  • 1954年(昭和29年)12月1日 - 一畑電気鉄道に吸収合併され、路線名称を一畑電気鉄道広瀬線に改称。
  • 1955年(昭和30年)1月1日 - 温泉前駅を鷺湯温泉前に改称。
  • 1957年(昭和32年)4月 - 一畑電気鉄道の株主総会で路線の廃止が決議。このことを契機に沿線住民による反対運動が起きる。
  • 1959年(昭和34年)10月 - 広島陸運局(現:中国運輸局)の保安監査で存続は困難という結果が示される。
  • 1960年(昭和35年)
    • 4月28日 - 島根県が示した調停案(鉄道は廃止するが跡地は地元に寄付すること、並行して通る島根県道180号広瀬荒島線の整備を推進すること)に会社側・住民側双方が調印。
    • 6月20日 - 廃止。

運行形態[編集]

1956年5月1日訂補

  • 列車本数:日12往復
  • 所要時間:全線25分

駅一覧[編集]

  • 荒島(あらしま)- 仲仙寺(ちゅうせんじ)- 西赤江*(にしあかえ)- 西中津(にしなかづ)- 田頼(たより)- 小原*(おはら)- 飯梨(いいなし)- 植田(うえだ)- 鷺の湯*(さぎのゆ)- 鷺湯温泉前(さぎのゆおんせんまえ)- 温泉前*(おんせんまえ)- 出雲広瀬(いずもひろせ)
    *印付きは1946-1952年の間に廃止
    荒島 - 温泉前間が安来市、出雲広瀬駅のみが能義郡広瀬町(現在はすべて安来市)
    飯梨・出雲広瀬両駅のみ停車場(このうち飯梨駅は交換可能駅)であり、残りはすべて停留場

接続路線[編集]

  • 荒島駅:国鉄山陰本線

輸送・収支実績[編集]

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1928 95,144 2,593 18,338 21,247 ▲ 2,909 雑損421 11,358
1929 178,475 5,795 35,203 33,435 1,768 雑損232 17,977 22,823
1930 145,632 4,569 28,808 30,019 ▲ 1,211 雑損1,052 16,092 23,659
1931 129,381 5,421 26,698 22,868 3,830 雑損6,229 14,340 19,764
1932 114,827 4,452 23,543 22,488 1,055 雑損及差損金5,428 12,156 23,650
1933 126,162 5,012 24,158 16,970 7,188 雑損784自動車6,239 10,464 11,873
1934 122,389 4,650 25,327 19,327 6,000 雑損589自動車12,739 8,354 23,699
1935 122,658 4,694 25,427 21,931 3,496 雑損償却金13,710
自動車5,565
6,912 23,702
1936 125,419 5,238 26,712 22,968 3,744 償却金19,828
自動車3,164
5,573 23,709
1937 136,023 6,331 28,681 19,964 8,717 雑損347償却金20,707
自動車4,311
4,016 20,778
1939 212,281 10,278
1941 377,262 15,634
1943 590,842 17,187
1952 414,690 12,581
1955 411千 17,646
1958 575千 13,082
1960 8千 2,572
  • 鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報、私鉄統計年報各年度版

車両[編集]

開業時に用意された車両はデハ1・2、サハ3・4[9]。貨車(有蓋2両無蓋3両)は8月に竣功届けを提出している[10]

電車[編集]

すべて両運転台の制御電動車で、トロリーポール集電、屋根はダブルルーフの木造車である。

デハ1形(デハ1・デハ2)
開業時に蒲田車輛で新造導入された車両で、台車はブリル四輪単台車21Eを装備している。前照灯は前面中央の屋根側に装備。広瀬線廃線時に廃車となった。
デハ5形(デハ5)
開業翌年の1929年に予備車確保のため名岐鉄道(現・名古屋鉄道)より譲受した、名古屋電気鉄道当時に新製されたデシ500形502である[11]。前照灯は前面中央下部に装備した、いわゆる「おへそライト」である。9月30日竣工した。デハ6入線に伴い1948年に客車代用となったが、1955年8月に廃車された。
デハ6形(デハ6)
山陰中央鉄道時代の1947年に名古屋鉄道より譲受した、元尾西鉄道デボ102のモ100形102で、広瀬線の車両で唯一のボギー車である。法勝寺線(後の日ノ丸自動車法勝寺電鉄線)に導入されたモ103(法勝寺線デハ6→デハ205)と1両ずつ配置され、廃線時まで使用された。前照灯は前面中央の屋根側に装備。

客車[編集]

客車は電車が牽引していたので、運用実態としては後付付随車であった。

サハ3形(サハ3・サハ4)
開業時にデハ1形と同時に製造された車両で、車体はデハ1形と同形だが、台車が台枠に車軸が直接軸受の付いたガージ式と呼ばれる構造の二軸車である点が異なる。廃線後はサハ3が日ノ丸自動車へ譲渡されて法勝寺電鉄線のフ55、サハ4が北丹鉄道へ譲渡されハ12となった。

貨車[編集]

ワ1形(ワ1・ワ2)
開業時に蒲田車輛で新造導入された木造の10t積み有蓋車。ワ1は広瀬線廃線時に廃車となったが、ワ2は本線(現、北松江線)へ転属し1963年に廃車された。
ト1形(ト1 - ト3)
開業時に蒲田車輛で新造導入された木造無蓋車。3両とも広瀬線廃線時に廃車となった。
ワフ1形(ワフ1)
1929年に増備した4t積み木造有蓋緩急車で、元は1883年イギリス・メトロポリタン製で鉄道省からの払い下げ車である佐久鉄道ワフ3。1937年3月31日付けで廃車(腐朽の為)となった[12]
ワフ2形(ワフ2)
1930年に増備した8t積み木造有蓋緩急車で、元は1891年イギリス・オールドヘリー製の筑波鉄道ワフ2。広瀬線廃線時に廃車となった。

脚注[編集]

  1. ^ 『電気事業要覧. 第21回 昭和5年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 戦国時代、山陰地方だけでなく山陽地方にまで勢力を伸ばしていた戦国大名尼子氏が拠った。
  4. ^ 島根県の国鉄→JRで初めて電車が走ったのはそれから半世紀以上経過した昭和時代末期のことである。
  5. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年9月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第34回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年7月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ No.31「広瀬荒島間運輸営業開始ノ件」21頁『第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道・広瀬鉄道・大正十五年~昭和三年』
  10. ^ No.32「車輌竣功ノ件」『第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道・広瀬鉄道・大正十五年~昭和三年』
  11. ^ 名鉄資料館「郊外線草創期の車両 - デシ500形とその仲間たち」『鉄道ピクトリアル』No.791 2007年7月号
  12. ^ No.44「有蓋貨車廃止ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』

参考文献[編集]

  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 11 中国四国、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790029-6 
  • 京都大学鉄道研究会、1969、「失われた鉄道・軌道を訪ねて 一畑電気鉄道広瀬線」、『鉄道ピクトリアル』(225)、電気車研究会
  • 『第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道・広瀬鉄道・大正十五年~昭和三年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
  • 『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)

関連項目[編集]