久我美子

くが よしこ
久我 美子
久我 美子
『サンケイグラフ』1954年8月29日号より
本名 小野田 美子(おのだ はるこ)
旧姓:久我(こが)
生年月日 (1931-01-21) 1931年1月21日(93歳)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市牛込
(現・東京都新宿区牛込)
国籍 日本の旗 日本
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1946年 - 2000年
配偶者 平田昭彦
(1961年 - 1984年)
著名な家族 三ツ矢歌子(義姉)
事務所 ワタナベエンターテインメント
公式サイト 久我美子
主な作品
映画
醉いどれ天使
また逢う日まで
白痴
にごりえ
あにいもうと
青春残酷物語』(1960年)
テレビドラマ
勝海舟
華麗なる一族
都の風
プロゴルファー祈子
 
受賞
ブルーリボン賞
助演女優賞
1956年夕やけ雲』、『女囚と共に』、『太陽とバラ
その他の賞
毎日映画コンクール
女優助演賞
1954年女の園』、『この広い空のどこかに』、『悪の愉しさ』、『億万長者
テンプレートを表示

久我 美子(くが よしこ、1931年1月21日 - )は、日本女優。身長153cm[1]。本名:小野田 美子(おのだ はるこ)、旧姓:久我(こが)。所属芸能事務所ワタナベエンターテインメント

経歴[編集]

侯爵貴族院議員久我通顕の長女。母は日本橋薬研堀町のべっ甲商、永峰セルロイド工業社長篠崎宗太郞長女與志江。久我家(こが)家は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む清華家家格であり、華族家柄である[2]東京市(現・東京都新宿区牛込に生まれる。1946年女子学習院女学校課程)在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格[2]。同期に三船敏郎堀雄二伊豆肇若山セツ子堺左千夫らがいる。1947年、女子学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビューを果たす。

1950年の映画『また逢う日まで』での岡田英次との窓硝子ごしの接吻を演じた[注釈 1]

1954年木下惠介の『女の園』の撮影中、久我と岸惠子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[3]。同年4月16日、久我、有馬、岸は「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した[4]

1961年、俳優と結婚する気はなかったが、平田昭彦からの猛烈な求愛の末に結婚した。

1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍する。

1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演[2]。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。

2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せた。

人物[編集]

1953年
1954年
1954年有馬稲子(中央)、岸惠子とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。

撮影所では本名の「はるこちゃん」と呼ばれた[5]稲垣浩は久我のファン[6]で、1957年の映画『柳生武芸帳』で竜造寺の姫君役で起用したのは、いつか折を見て『風林火山』映画化が実現した際に「由布姫」役にと考えていたからだったという。結局映画化は12年後(1969年)になり、稲垣は「私の夢は果たせなかった」と悔やんでいる[7]

また稲垣は久我について、「日本が戦争に負けたおかげで、侯爵の姫君が女優となったのだが、もし戦争に勝っていれば美子さんは尼寺の人となっていたかもしれない、そう思うと敗戦は久我家にとって幸福とは言えなかっただろうが、美子さんにとっては自由に生きる道がひらかれたと言っていいのかもしれない」とし、黒澤映画での「はる子ちゃん」は、「まる顔で、はつらつとしていた」[5]、「太い眉毛、八重歯、特徴のある声帯、どれもこれもそれまでの映画女優になかった新鮮さがあった」と評している[6]

稲垣はロケ先で久我とマージャンをしてよく負けたが、久我に「先生、お願い、上らせて」と言われると「魔術にかかったように彼女に振り込んでしまった」という。「少しも口惜しいと思わなかった、たぶん、(久我に)いかれていたのだろう」と語っている。稲垣は藤本真澄の頼みで、久我と平田昭彦の結婚媒酌人を務めている。両者の馴れ初めは、稲垣の『大坂城物語』(東宝、1961年)での共演からで、それから半年ものあいだ、映画界にも週刊誌にも気づかれなかった二人の巧妙な恋愛は、さすが東大出身と元侯爵令嬢だけあると噂されたという[7]

若き日より家柄・容姿のみならず、演技面も芯の通った内面と気品が見るものにも伝わる確かな実力があった。日本映画史を代表する数々の名監督達も、こぞって彼女を起用した(下記参照)。平田との結婚後も、そして死別後も、長年にわたって女優活動を続けたが、近年はほとんど活動休止状態となっている。

なお彼女が公卿華族育ちの名家出身ながら芸能界を志した理由は、祖父の久我常通が第36代当主だった大正時代から続く、久我侯爵家の経済状態の悪化を打開するためであった。当時の久我家は世間知らずの祖父と父親が、高利貸しに金を借りて慣れぬ事業に手を出して失敗し家屋敷を押さえられた上に[8]、さらにその窮状を詐欺グループに付け込まれ、1932年、自邸内に事務所を置かせた欠食児童同情協会の寄付金詐欺事件で新聞沙汰になり、警視庁から厳しい取り調べを受けるなど、経済的に追い詰められていた。詐欺事件以降も久我侯爵家の生活苦は変わらず、常通は、破綻した「東日本炭砿」の取締役を一時務めていたほか[9]、運送・倉庫会社の設立にも関わった[10]。常通の事業失敗により、伯母(常通長女)の三千子は当時70歳の北海道の高利貸し・五十嵐佐市に嫁いだ[8]。常通の弟で男爵久我通保の長男・久我通政も、1933年、家出後の生活苦から詐欺まがいの行為を行い警察から取り調べを受けたことで翌年廃嫡された。彼の弟で家督を継いだ次男の通武(戦後は農林省キャリア官僚として活躍)も共産思想に染まり、1934年に多くの華族子弟と共に宗秩寮から懲戒を受けた。このように戦前から久我家一族は分家も含め経済苦等による醜聞に次々と見舞われており、美子が戦後に映画界にデビューする前からすでに実家筋の評判は芳しくなかった。

美子の東宝ニューフェイスへの応募は、上記の経済的に困窮した家庭状況に加え、戦後の華族制度廃止でますます実家の生活が悪化することを憂慮し、家計を助けるため職につきたいという一心からのものであったが、実家からは久我家の「体面を汚す」と猛反対された。結局美子が「久我(こが)」姓を名乗らないことと、住民票を親類宅に移すことという条件で芸能活動を許された。漢字は同じでも本名「こが はるこ」が芸名「くが よしこ」と異なるのはこのためである。

家族・親族[編集]

久我家は、村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする平安朝の前期(10世紀)から続く公家名門である[11]師房は当時の朝廷が藤原氏一色だった時代に、他の姓にもかかわらずに、右大臣、太政大臣になった人物である[11]。以後は、戦国時代の晴通藤原尚通は実父)は通言の養子として迎え、跡を継がせている。なお、公家の家格には、第一等の「摂家」から、順に「清華家」、「大臣家」、「羽林家」、「名家」などがあり、久我家は、第二等に位する「清華家」の家格が与えられており、「清華家」の九家の中で筆頭に上げられている[11]

1873年明治6年)生[11] - 1950年昭和25年)没[11]
1982年(昭和57年)没[12]
與志江の実家は日本橋べっ甲問屋を営んでいた「篠崎商店」[13]セルロイドを扱ってかなり大きな商売をしていた商店である[13]。通顕と結婚する時のことについて與志江によれば「当時は実家が平民、嫁ぎ先が華族さまというんで、宮内省がずいぶん調べたそうです[13]。何でも親族を七代前まで調査するんだとかいわれて平民同士の結婚のように簡単にいかなかったようですよ[14]。わがままいっぱいに育って『お嫁にはいかないっ』ていってたんですが、そこに華族さまからのお話があったんです[14]。祖母が『末代までの誉れです』とすっかり感激して私に頼み込んだものです[14]」という。
現当主で道元禅師生家第37代当主[15]、当道音楽会総裁[16]、俳句結社「鷗座」所属で俳号は久我ともみち[17]
1927年(昭和2年)12月生 - 1984年(昭和59年)7月没
子どもはない

主な出演[編集]

映画[編集]

醉いどれ天使』(1948年)
『また逢う日まで』(1950年)
女の園』(1954年)
『女囚と共に』(1959年)
『女であること』(1958年)
風花』(1959年)
お早よう』(1959年)
青春残酷物語』(1960年)

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品

テレビドラマ[編集]

バラエティー番組[編集]

広告[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本の映画界では1960年代のはじめ頃まで接吻のクロースアップはタブーだった。

出典[編集]

  1. ^ タレントデータバンク
  2. ^ a b c 東宝特撮女優大全集 2014, p. 41, 文・浦山珠夫「東宝特撮を支えたリーディング・アクトレスたち」
  3. ^ 岸惠子『岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない』岩波書店、2021年4月28日、95-97頁。ISBN 978-4000614658 
  4. ^ 岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない(特設サイト)”. 岩波書店. 2022年3月15日閲覧。
  5. ^ a b 日本映画の若き日々 1978, p. 166, 「わが交遊録 久我美子」
  6. ^ a b 日本映画の若き日々 1978, p. 167, 「わが交遊録 久我美子」
  7. ^ a b 日本映画の若き日々 1978, p. 168, 「わが交遊録 久我美子」
  8. ^ a b 『華族家の女性たち』小田部雄次、小学館, 2007[要ページ番号]
  9. ^ 大正期の泡沫会社発起とリスク管理 小川功、滋賀大学経済学部研究年報 Vol.12 2005
  10. ^ 『東京經濟雜誌』106号、日本経済評論社, 1906
  11. ^ a b c d e 『日本の名家』239頁
  12. ^ a b c d e 『日本の名家』238頁
  13. ^ a b c 『日本の名家』241頁
  14. ^ a b c 『日本の名家』242頁
  15. ^ 永平寺機関誌『笠松』2016年11月号
  16. ^ (公社)当道音楽界役員等名簿
  17. ^ 「色即是空」『鷗座』2016年10月号、41頁
  18. ^ 週刊読売編集部(編)『日本の名家』読売新聞社、1987年、240頁
  19. ^ 放送ライブラリー 番組ID:002793
  20. ^ 放送ライブラリー 番組ID:002795
  21. ^ 放送ライブラリー 番組ID:002796

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]