伊勢国

伊勢国

-伊勢国
-東海道
別称 勢州(せいしゅう)[注 1]
所属 東海道
相当領域 三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部
諸元
国力 大国
距離 近国
1384
国内主要施設
伊勢国府 三重県鈴鹿市(伊勢国府跡)
伊勢国分寺 三重県鈴鹿市(伊勢国分寺跡
伊勢国分尼寺 (推定)三重県鈴鹿市
一宮 椿大神社(三重県鈴鹿市)
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伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

「伊勢」の名称と由来[編集]

語源は「伊呂勢(=弟)」であり、出雲の分派としての機能から発達したという説がある。また、海に近いことから「イソ」が転じたとする説もある。

表記例としては、「伊世国」も見られる(『続日本紀』天平勝宝4年10月8日条)。

領域[編集]

明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。

沿革[編集]

日本書紀』などの倭姫命伝説では美し国(うましくに)と称された。

『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征の際に派遣された天日別命が、国津神(土着の勢力)の伊勢津彦(イセツヒコ)を追放して伊勢平定を復命し、これを喜んだ神武天皇が神の名「イセ」にちなんで命名したとされる。大和政権の勢力がこの地域にまでおよんだことを神格化したものと考える説がある[1]

宝賀寿男は、伊勢津彦後裔の国造一族の動向から、弥生時代後期に神武天皇の勢力に追われて東国へ逃れた神狭命の史実がその実態であると主張した[2]。なお天日別命は伊勢国造になったとされる。

7世紀孝徳天皇の時代に、島津国造伊賀国造、佐那県造、度逢県造、川俣県造、壱志県造、飯高県造、阿野県造の領域も含んだ伊勢国造の領域を中心に成立した。

天武天皇9年(680年)7月に伊賀国を分置した。

8世紀はじめまでに志摩国を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、熊野灘に面した沿岸部(現在の南伊勢町にあたる地域)は志摩国に属していたが、天正10年(1582年)、伊勢国司北畠信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善が荷坂峠を境として、伊勢国度会郡と紀伊国牟婁郡に編入したため、志摩国は現在の鳥羽市志摩市だけの地域となった。

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

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国府[編集]

長者屋敷遺跡(伊勢国府跡)
三重県鈴鹿市

和名抄』によれば伊勢国府鈴鹿郡に所在した[3]奈良時代中ごろの国府(前期国府)は長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町・西富田町、北緯34度53分3.85秒 東経136度29分50.47秒 / 北緯34.8844028度 東経136.4973528度 / 34.8844028; 136.4973528 (長者屋敷遺跡(奈良時代の伊勢国府跡)))とされ[4]、同地は「伊勢国府跡」として国の史跡に指定されている[5]。発掘調査では政庁および官衙の遺構が発見されているが、国府としての整備は未完成のまま機能を終えたと見られる[6]

初期国府・後期国府(奈良時代前期、奈良時代後期-平安時代)に関しては、鈴鹿市国府町付近にある可能性が非常に高いとされる[4]。同地では三宅神社遺跡・天王山西遺跡などで関連遺構が見つかっているが、中心施設は未だ検出されていない[6]

国分寺・国分尼寺[編集]

なお国分寺跡・国分尼寺跡そばでは、白鳳寺院の遺構である南浦廃寺跡(大鹿廃寺跡)や、河曲郡衙跡(狐塚遺跡)の立地が知られる[7]

神社[編集]

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社18座9社・小社235座223社の計253座232社が記載されている(「伊勢国の式内社一覧」参照)。大社9社は以下に示すもので、そのうち2社は名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]

なお、都波岐神社(鈴鹿市一の宮町)に関しても『大日本国一宮記』を基に一宮とする説が知られる。しかしこれは、椿大神社に関して「椿宮」を「チングウ」と読まれないように「椿宮<都波岐神社>」と記されたのが、都波岐神社との混同を招いたことによるとされる[3]

安国寺利生塔[編集]

  • 總見寺 - 愛知県名古屋市中区大須。

地域[編集]

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江戸時代の藩[編集]

伊勢国の藩の一覧
藩名 居城 藩主
津藩 津城

富田信高(7万石、1600年-1608年)。伊予宇和島12万石に移封
藤堂家(22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石、1608年-1871年)

久居藩
津藩支藩
久居陣屋

藤堂家(5万石→5万3000石→5万8700石、1669年-1871年)

桑名藩 桑名城

本多家(10万石、1601年-1617年)。播磨姫路藩15万石に移封
松平(久松)家(11万石→11万7000石→11万石、1617年-1635年)伊予松山藩15万石に移封
松平(久松)家(11万3000石、1635年-1710年)。越後高田藩11万3千石に移封
松平(奥平)家 (10万石、1710年-1823年)武蔵忍藩10万石に移封。
松平(久松)家 (11万3000石→(1868年取り潰し)→6万石、1823年-1871年)

伊勢亀山藩 伊勢亀山城

関一政(3万石、1600年-1610年)。伯耆黒坂藩5万石に移封
松平忠明(5万石、1610年-1615年)。摂津大坂藩10万石に移封
天領(1615年-1619年)
三宅家(1万石→1万2千石、1619年-1636年)。三河挙母藩1万2千石に移封
本多俊次(5万石、1636年-1651年)。近江膳所藩7万石に移封
石川憲之(5万石、1651年-1669年)。山城淀藩6万石に移封
松平乗邑(6万石、1669年-1717年)。山城淀藩6万石に移封
板倉家(5万石、1717年-1744年)。備中松山藩5万石に移封
石川家(6万石、1744年-1871年)

長島藩 長島城

菅沼家(2万石、1601年-1621年)。近江膳所藩3万1千石に移封
松平(久松)家(1万石、1649年-1702年)。改易
増山家(2万石、1702年-1871年)

神戸藩 神戸城

一柳直盛(5万石、1601年-1636年)。伊予西条藩6万8千石に移封
天領(1636年-1651年)
石川家(1万石→2万石→1万7千石、1651年-1732年)。常陸下館藩2万石に移封
本多家(1万石→1万5千石、1732年-1871年)

菰野藩 菰野陣屋

土方家(1万2000石、1600年-1871年)

田丸藩 田丸城

稲葉家(4万5700石、1600年-1616年)。摂津中島藩4万5700石へ移封
久野家(1万石、1619年-1871年)。但し、紀伊和歌山藩御附家老

松坂藩 松坂城

古田家(5万5千石、1600年-1619年)。石見浜田藩5万4千石に移封。領地は紀州藩領に

伊勢上野藩 伊勢上野城

分部家(2万石、1600年-1619年)。近江大溝藩2万石に移封。領地は紀州藩領に

八田藩 東阿倉川陣屋

加納家(1万石→1万3000石、1726年-1826年)。飛び地であった上総一宮藩へ陣屋を移す

伊勢西条藩 菊間陣屋

有馬家(1万石、1727年-1737年(1745年))。南林崎に陣屋を移す

南林崎藩 南林崎陣屋

有馬家(1万石、1737年(1745年)-1781年)。上総五井藩に陣屋を移す

林藩 林城

織田信重(1万石、1600年-1615年)。改易・廃藩

雲出藩

蒔田広定(1万石、1600年-1603年)。備中浅尾藩に1万3千石に移封。領地は津藩領に

人物[編集]

国司[編集]

伊勢守[編集]

伊勢介[編集]

室町時代伊勢国司[編集]

室町幕府成立後も、南朝の重臣北畠親房の子孫が伊勢国司となって南伊勢に勢力を誇り、北伊勢を治める幕府守護と対立した。5代国司(伊勢北畠家としては4代)北畠教具の代に幕府と和睦し、伊勢守護も兼ねるようになった。

武家官位としての伊勢守[編集]

江戸時代以前[編集]

江戸時代[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

志摩国守護も兼任。

戦国時代[編集]

伊勢国の合戦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「伊州」は伊賀国の別称。稀にだが、近鉄特急の阪伊特急・名伊特急のように「伊」と略している事例もある。
  2. ^ いずれも1880年明治13年)に尾張国に移管。
  3. ^ 1880年(明治13年)に尾張国に移管。
  4. ^ いずれも1883年(明治16年)に美濃国に移管。
  5. ^ 伊勢神宮首位祠宮度会氏分系。
  6. ^ 4月25日(1868年6月15日)とする資料もあるが、ここでは「角川日本地名大辞典」の記述によった。

出典[編集]

  1. ^ 稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・上野秀治西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年
  2. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2017年。
  3. ^ a b c 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 82-89。
  4. ^ a b 『伊勢国府跡19』 鈴鹿市、2017年、p. 1(リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」)。
  5. ^ 伊勢国府跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ a b 「国史跡伊勢国府跡 -三重県鈴鹿市長者屋敷遺跡の発掘調査-」 (PDF) (鈴鹿市考古博物館)。
  7. ^ a b c 「国史跡伊勢国分寺跡」 (PDF) (鈴鹿市考古博物館)。

参考文献[編集]

関連項目[編集]