伊東祐清

 
伊東 祐清
伊東祐清/菊池容斎画『前賢故実
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 寿永2年(1183年)6月?
養和2年2月15日1182年3月21日)?
別名 九郎(通称)、祐忠、祐氏、祐兼、祐長
氏族 伊東氏河津氏
父母 伊東祐親
兄弟 祐泰祐清北条時政前室、三浦義澄室、万劫御前(工藤祐経前室、土肥遠平室)、八重姫、ほか
比企尼の三女
祐光、養子:律師(祐泰の三男)
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伊東 祐清(いとう すけきよ)は、平安時代末期の武将。伊豆国豪族伊東祐親の次男。祐忠(『尊卑分脈』)、祐氏(『平家物語』)、祐兼祐長(『曽我物語』)とも[注釈 1]

生涯[編集]

源頼朝の乳母である比企尼の三女を妻としており、伊豆の流人であった頼朝と親交があった。安元元年(1175年)9月頃、平家家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、頼朝に身の危険を知らせて逃がしている。『曽我物語』によると、自身の烏帽子親であることから、北条時政を頼るように頼朝に薦めたという。

治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親と祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。『吾妻鏡』治承4年10月19日条によると、その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けたことによる恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受けることはできないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した。『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日条によると、その後、平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にした。『平家物語』(覚一本)では、篠原合戦で伊東九郎祐氏が討ち死にしたとある。

なお、『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月15日条では、祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとあり、平家軍に加わり北陸道の合戦で討ち死にしたとする治承4年10月19日条および建久4年6月1日条の記述とは矛盾している[注釈 2]

系譜[編集]

子孫[編集]

祐清の妻である比企尼の三女は、義兄・河津祐泰工藤祐経に討たれた後、生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となった律師)を引き取り、祐清と離縁または死別した後にその子を伴って平賀義信に再嫁している(妻はその後牧氏事件で知られる平賀朝雅を生んだ)。また、頼朝は祐清から命を助けられた恩義を生涯忘れず、祐清の遺児・祐光に伊東荘を与えている。後に祐光の子孫は設楽荘や尾張へと移住し、後世へと続いている。

一方、後北条氏徳川氏に仕えた仁杉氏の系譜によれば、通説では工藤祐経の子とされる伊東祐光を祐清の子として掲載し、仁杉氏をその子孫と位置づけている[1]

日本画家の伊藤信次が昭和37年頃に調査した「寺野伊藤系譜」によれば伊藤信次は祐清の子孫であるとされている。尚、系譜作成の調査協力者には歴史家の内田旭、静岡葵文庫の飯塚伝太郎、気賀正明寺の林袋雲、三河郷土史家の清水伊三次の名前が記載されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 吾妻鏡治承4年10月19日条に祐泰とあるが、祐清の誤り。
  2. ^ 『吾妻鏡』治承4年10月19日条と養和2年2月15日条は、どちらも父に従う祐清の態度を孝道の美談としている。

出典[編集]

  1. ^ 盛本昌広「戦国期仁杉氏の動向」(初出:『伊東市史研究』第7号(2008年)/所収:盛本『中世南関東の港湾都市と交通』(岩田書院、2010年) ISBN 978-4-87294-601-7

参考文献[編集]

関連項目[編集]