伊福部都牟自

 
伊福部都牟自
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 斉明天皇4年3月11日658年4月18日
官位 大乙上
主君 孝徳天皇斉明天皇
氏族 伊福部
父母 父:伊福部久遅良、母:熊媛
伊比頭売、伊和塩古娘・小宮刀自
国足、与佐理、与曽布
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伊福部 都牟自(いふくべ/いおきべ の つむじ)は、飛鳥時代の人物。因幡国の古代豪族冠位大乙上

出自[編集]

伊福部氏(伊福部臣)は因幡伊福部[1]伴造[2]物部氏の一族とされる[3]

延暦3年(784年)に伊福部富成が編纂した同氏の系譜である『因幡国伊福部臣古志』によれば、父伊福部久遅良(くぢら)と母熊媛(くまひめ)との間の子で、同氏の26代目当主にあたるという。

経歴[編集]

孝徳朝の(大化)2年(646年)、初めて水依評を設置[4]、それと同時に評督に任ぜられて小智、翌3年(647年)に小黒、同5年(649年)には大乙下の冠位が授けられた。その後、斉明天皇4年に大乙上に叙され、同年正月には水依評を壊して高草郡を設置するが、同年3月11日に死去した。

なお、の設置年については、『国府町誌』が「意図的に吉祥年を選んで立評の年にあてている」と指摘するように検討の余地があり、高草郡設置に関しても『古志』には「始壊水依評、作高草郡」とあって、水依評がそのまま高草郡になったのか、水依評を法美・邑美の2郡に分け、別に新たに高草郡を設けたのかで説が分かれている。いずれにせよ、もし『古志』に記す高草郡設置が事実であれば、建郡の最古例となる。

系譜[編集]

  • 父:伊福部久遅良[5]
  • 母:熊媛
  • 妻:伊比頭売[6](いひづめ) - 同族の女か?
  • 妻:小宮刀自(こみやとじ) - 味野の伊和塩古の娘
    • 男子:伊福部与佐理(よさり) - 邑美郡郡領
    • 男子:伊福部与曽布(よそふ) - 邑美郡郡領

なお、『因幡国伊福部臣古志』の編者富成は小宮刀自腹の男子の流れを汲むという。

脚注[編集]

  1. ^ 伊福部がどのような品部であったのかは明らかではない。栗田寛『新撰姓氏録考証』による、伊は単なる接頭辞であり伊福部は吹部の意味として、笛吹を掌る職業的品部とする説、太田亮『姓氏家系大辞典』による、景行天皇皇子の五百城入彦皇子の御名代部とする説などがある。
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  3. ^ 伊福部臣の祖である武牟口命について、『因幡国伊福部臣古志』では物部氏の遠祖である伊香色雄命の子としている。
  4. ^ 当時の因幡は水依評の1評のみで他の評はなかったとも記されている。
  5. ^ 久遅良は2人の女を娶り、2男3女を生んだとあるが、その中には母熊媛の名前も都牟自自身も見られない。
  6. ^ 父久遅良の条にも伊比頭売を娶ったとあるが、これが同一人物であるかは不明。

参考文献[編集]

  • 国府町誌編さん・編集委員会編『国府町誌』国府町、1987年
  • 鳥取市『新修鳥取市史 第一巻』鳥取市、1983年
  • 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』平凡社、1992年 ISBN 4-582-49032-8
  • 佐伯有清「『因幡国伊福部臣古志』の研究」(森克己博士古稀記念会編『対外関係と政治文化』第2巻、吉川弘文館、1974年所収。後に同氏著『新撰姓氏録の研究 索引・論考篇』吉川弘文館、1984年に再所収)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]