佐々木宗綱

 
佐々木宗綱
時代 鎌倉時代中期
生誕 宝治2年(1248年[1]
死没 永仁5年9月20日1297年10月27日[1]
別名 四郎(通称
戒名 道光[1]
墓所 滋賀県米原市徳源院
官位 左衛門尉検非違使能登守従五位下[1]
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王久明親王
氏族 近江源氏佐々木氏京極氏
父母 父:佐々木氏信、母:野尻時光[2]
兄弟 頼氏範綱[3]満信宗綱、信雅、
加地経綱正室、吉良満氏側室、
上田佐時正室、武石宗胤正室、
久明親王側室
佐伯頼綱[1]
祐信時綱貞宗佐々木宗氏
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佐々木 宗綱(ささき むねつな)は、鎌倉時代中期の武将御家人京極氏2代当主。京極宗綱とも。佐々木道誉外孫に当たる。

略歴[編集]

宝治2年(1248年)、佐々木氏信の四男として誕生した。弘安8年(1285年)、霜月騒動で功を上げ、従五位下・能登守に叙任された[1]

弘安10年(1287年)、幕府が朝廷に対し、大覚寺統後宇多天皇から持明院統伏見天皇への譲位を促した際にはその使者となっている。正応2年(1289年)には久明親王が8代将軍に就任し六波羅探題へ向かった行列に随行している。永仁3年(1295年)に父が死去し、別家を立てた長兄・頼氏、早世した兄・範綱満信に代わり家督を継ぐ。しかし、わずか2年後の永仁5年(1297年)9月10日に死去した。享年50。

長男の祐信は意に叶わなかったとされ、次男の時綱は早世、そのため三男の貞宗が跡を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 寛政重修諸家譜
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』では、母は「鎌倉家女房 右衛門督」で兄・満信は同母兄。
  3. ^ 範頼とも。

出典[編集]