佐野嘉幸

佐野 嘉幸
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山梨県甲府市
生年月日 (1944-04-01) 1944年4月1日(80歳)
身長
体重
172 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1963年
初出場 1963年5月30日
最終出場 1979年10月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

佐野 嘉幸(さの よしゆき、1944年昭和19年)4月1日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

中学時代はエースで4番打者[1]甲府工業高校では1年次の1960年秋から中堅手でレギュラーとなり、2年次の1961年には遊撃手に転向[2]。同年の秋季関東大会1回戦に進むが、作新学院のエース八木沢荘六に抑えられ敗退し、春の選抜出場を逸する。3年次の1962年には主将として夏の甲子園予選西関東大会決勝で、エース山崎裕之を擁する上尾高を接戦の末に降して夏の甲子園にチーム初出場を果たす[1]が、本大会は1回戦で高岡商に敗退した[3]

現役時代[編集]

卒業後の1963年東映フライヤーズへ入団[1]し、3年目の1965年には二塁手、遊撃手を兼ねて71試合に先発出場。1966年には岩下光一の故障で遊撃手の定位置を獲得するが、1967年大下剛史の入団で三塁手にコンバートされる。1967年5月27日阪急戦(後楽園)では1回裏に足立光宏から本塁打を放ち、チームは初回先頭打者本塁打による1-0勝利を決めている。1966年と1968年には1試合ずつ、対戦した両球団のスターティング・ラインナップの同じ打順に、すべて同じポジションの選手が揃った試合に出場。同じ記録を持っているのが関川浩一1997年に1試合出場しており、佐野と関川は同じ4月1日生まれである[4]1969年には初めて規定打席に到達した(19位、打率.268)。

1972年高橋博士との交換トレードで江本孟紀と共に南海ホークスへ移籍[1]すると、背番号3が与えられる。同年は衰えの見える小池兼司に代わる正遊撃手となり、2度目の規定打席に到達(25位、打率.256)。1973年のリーグ優勝にも貢献するが、同年の巨人との日本シリーズでは、4試合に遊撃手として先発して12打数無安打に終わる。1974年9月26日の日本ハム戦(後楽園)で6回表に小池の代打として出場し、史上177人目の通算1000試合出場を達成。

1975年途中、かつて南海のコーチであった古葉竹識監督に請われ、広島東洋カープに移籍[1]。再び大下とチームメイトとなり、同年の阪急との日本シリーズでは4試合に代打として出場し、10月30日の第4戦(広島市民)では1点を追う延長13回裏2死満塁に外木場義郎の代打で起用され、山口高志から同点適時打を放つ。二塁走者の木下富雄が本塁で刺されサヨナラはならなかったが、引き分けに持ち込んだ。1976年後半には故障欠場の大下に代わって二塁手に入り、34試合に先発出場。6月6日の巨人戦(広島市民)では金城基泰の代打で途中出場し、7回裏には小林繁から移籍後初本塁打を放つなど3打数3安打1打点の活躍を見せる。1979年5月27日中日戦(広島市民)にエイドリアン・ギャレットの代打で水谷啓昭から3年ぶりの本塁打を放ち、岡山に移った翌28日には内田順三の代打で同じく水谷から2日連続本塁打を放つ。近鉄との日本シリーズでは出番が無く、同年限りで現役を引退[1]

引退後[編集]

引退後は広島二軍打撃コーチ(1980年 - 1985年)→韓国KBOOBベアーズ打撃コーチ(1986年)を経て、帰国後は古葉の招聘で横浜大洋ホエールズに移籍して一軍打撃コーチ(1987年[5] - 1989年)、古葉の退任後は二軍打撃コーチ(1990年)を務めた。一軍時代は、寺岡孝小林正之両コーチと共に、投手として入団していた石井琢朗の野手としてのセンスに注目[6]。特に佐野は熱心で[6]、野手へのコンバートを訴える機会をうかがっていた石井に[7]「お前は早くバッターになったほうがいいぞ。絶対、投手より野手に向いてるから」[6]と初めて自ら野手転向を勧め、古葉にも「監督、石井のバッティングを見たら、これはピッチングよりもはるかにいい。何としてでも野手にしましょうや」と申し出た[7]。野手にするのなら遊撃手、石井の、身のこなしがあれば、絶対にいい遊撃手になれる、と具体的なコンバートの構想まで古葉に語っていたほどであったが、佐野の申し出に、古葉は「監督としては、新人のコンバートより何より、まず少しでも使える投手を一軍ベンチに揃えることが先決」と考え、首を縦に振らなかった[7]

大洋退団後は古巣・東映の後身となる日本ハムで二軍打撃コーチ(1991年, 1993年 - 1995年)・一軍打撃コーチ(1992年)・二軍監督(1996年 - 2000年)を務め、二軍監督時代には2度のイースタン・リーグ優勝(1997年, 1999年)、1997年にはファーム日本一に導く。

日本ハム退団後はサンディエゴ・パドレス極東地区担当スカウト[2]2001年 - 2003年[8]を経て、千葉ロッテマリーンズで一・二軍巡回コーチ(2004年 - 2006年, 2008年)、二軍打撃コーチ(2007年)を務めた。

ロッテ退団後の2009年は初めて何処にも所属せず、時折少年野球で指導する程度の生活を送っていたが、三沢今朝治球団社長からの電話がきっかけ[9]BCリーグ信濃グランセローズ監督(2010年 - 2012年)を務める。1年目の2010年は勝率.397と不振に終わったが、2011年は後期残り3試合で上信越地区優勝へのマジック2を点灯させるなど優勝争いを演じた[10]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1963 東映 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1964 21 18 17 5 2 0 0 0 2 0 1 0 0 0 1 0 0 5 0 .118 .167 .118 .284
1965 112 249 230 23 49 4 2 7 78 22 7 2 3 2 13 0 1 52 1 .213 .258 .339 .597
1966 122 341 316 39 82 17 4 2 113 23 10 3 7 2 14 3 2 47 9 .259 .295 .358 .653
1967 109 347 313 36 71 8 2 8 107 32 10 4 8 4 18 0 4 49 4 .227 .278 .342 .619
1968 100 285 269 17 49 5 0 6 72 19 3 2 1 0 14 4 1 43 13 .182 .225 .268 .493
1969 112 422 392 33 105 19 2 3 137 35 12 5 7 2 18 0 3 39 5 .268 .305 .349 .655
1970 52 169 158 12 30 4 2 2 44 15 2 3 2 1 7 1 1 19 1 .190 .229 .278 .507
1971 41 103 99 9 22 4 0 2 32 8 1 0 0 0 3 1 1 19 1 .222 .252 .323 .576
1972 南海 112 412 379 37 97 13 0 10 140 36 5 1 5 3 23 0 2 46 12 .256 .302 .369 .671
1973 109 373 338 21 89 17 2 2 116 30 2 5 6 4 25 1 0 30 10 .263 .314 .343 .657
1974 110 388 358 29 86 13 3 6 123 32 11 2 3 5 21 1 1 33 14 .240 .284 .344 .628
1975 23 28 26 2 3 0 0 1 6 1 1 0 0 0 2 0 0 5 2 .115 .179 .231 .409
広島 17 17 16 2 4 0 1 0 6 2 0 0 0 0 1 0 0 4 1 .250 .294 .375 .669
'75計 40 45 42 4 7 0 1 1 12 3 1 0 0 0 3 0 0 9 3 .167 .222 .286 .508
1976 64 159 144 12 35 8 2 5 62 14 0 1 6 1 7 0 1 25 3 .243 .283 .431 .713
1977 20 28 28 1 8 1 0 0 9 6 0 0 0 0 0 0 0 11 0 .286 .286 .321 .607
1978 19 23 21 1 5 3 0 0 8 2 0 0 0 1 1 0 0 5 0 .238 .273 .381 .654
1979 44 48 45 3 10 0 0 2 16 8 0 0 1 1 1 0 0 9 4 .222 .239 .356 .595
通算:17年 1189 3410 3149 282 747 116 20 56 1071 285 65 28 49 26 169 11 17 441 80 .237 .280 .340 .620

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 71 (1962年、1987年 - 1989年)
  • 58 (1963年 - 1964年)
  • 28 (1965年 - 1968年)
  • 4 (1969年 - 1971年)
  • 3 (1972年 - 1975年途中)
  • 36 (1975年途中 - 同年終了)
  • 7 (1976年 - 1979年)
  • 70 (1980年 - 1985年)
  • 76 (1990年)
  • 88 (1991年 - 1994年)
  • 89 (1995年 - 2000年、2004年 - 2008年、2010年 - 2012年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]