八朔

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦8月1日のことである。

新暦では8月25日頃から9月23日頃までを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。

この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実節句(たのみのせっく)ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった[1]

歴史[編集]

室町幕府において既に公式の行事として採用されたことが知られている[2]。幕府の関東地方における出先機関であった鎌倉府でも8月1日に八朔の儀式が行われており、関東の諸大名や寺社から刀剣や唐物、馬などが鎌倉公方に献上され、鎌倉公方からも献上者に対して御礼の品となる刀剣や唐物、馬などが下賜されていたことが『鎌倉年中行事』に見える。その影響か、戦国時代には後北条氏宇都宮氏でも八朔に関する記録が残されている[3]

徳川家康天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた[4]。ただし、家康の家臣である松平家忠の日記によれば、実際の入城は7月18日である。豊臣秀吉が小田原征伐後に進めていた関東諸大名の領国画定作業(「関東国分」)が8月1日に佐竹義宣の領国画定によってほぼ完了し、徳川氏の新しい領国が正式に確定されている。豊臣政権による新しい徳川氏の領国画定の日が江戸幕府の成立以降に家康の公式の入城日と解釈されるようになったと考えられる[5]

明治改暦以降は、新暦8月1日月遅れ9月1日に行われるようになった。

各地の行事[編集]

[疑問点]

熊本の八朔祭[編集]

八朔祭の大造り物(熊本県山都町)

熊本県上益城郡山都町浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭(はっさくまつり)」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されている。この祭りは江戸時代中期から始まったとされ[誰によって?]、田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。

町の中心街を高さ3〜4m、長さ7〜8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込んでいる。

祭りに合わせて放水する国の重要文化財通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は見事で、夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の観光客で賑わう。

造り物には順位が付けられ、浜町内の各町や団体が長年培ってきた技術、作品のテーマや形にアイデアや知恵を絞り、競い合っている[6]。祭りの本格的な準備は約1ヶ月前から始まり、町内各地に、造り物の山車を作る小屋や番屋が立つ。

福井の八朔祭[編集]

福井県美浜町新庄区では、五穀豊穣と子孫繁栄を願っておこなわれる。太鼓や笛のおはやしの中、樽神輿を担いだ行列が田代公会堂を出発し、日吉神社まで進む。この行列に続いて、男性のシンボルをかたどったご神体を持ったてんぐが進み、見物客の女性をご神体(長さ約60センチの木製)でつつく。このご神体でつつかれた女性は子宝に恵まれるといういわれがある。 [7]

その他の地域の行事[編集]

京都市東山区祇園一帯など花街では、新暦8月1日芸妓舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へあいさつに回るのが伝統行事になっている。

福岡県遠賀郡芦屋町では、「八朔の節句」として長男・長女の誕生を祝い、男児はで編む「わら馬」、女児は米粉で作る「だごびーな(団子雛)」を家に飾る行事が行なわれており、300年以上続く伝統行事として、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財の選択を受けている。

香川県丸亀市の一部では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習がある。丸亀を含む讃岐国を領した生駒氏家臣で、馬術の名人として名高い曲垣平九郎に因んでいる[8]

香川県三豊市仁尾町の一部や兵庫県たつの市御津町室津地区など、歴史的経緯によって本来は旧暦3月3日に行われる雛祭りを八朔に延期する風習を持つ地域も存在する。

山梨県都留市では八朔祭りが行われている。都留市の八朔祭りは毎年8月1日の八朔に行われていたが、現在では9月1日に実施されている。都留市四日市場の生出神社(おいでじんじゃ)の例祭が発展した祭りで、本祭では神輿が渡御し、附祭では大名行列や屋台が巡行する。江戸後期の天保年間にはすでに実施されており、現存する屋台後幕は浮世絵師葛飾北斎が手がけたとする伝承がある。

ゆかりの食品[編集]

ハッサクは、8月1日ごろに食べられるようになったため、この名が付いた。

関連文献[編集]

  • 澤太郎左衛門 徳川家八朔祝賀の起因(同方会雑誌第六号抄出)『舊幕府』第2巻第2号、75頁〜84頁 冨山房雑誌部 明治31年(1898年)2月20日

脚注[編集]

  1. ^ 西角井正慶編『年中行事事典』p.638 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 東京堂出版
  2. ^ 二木謙一「室町幕府八朔」『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館、1985年)
  3. ^ 山田邦明「鎌倉府の八朔」『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年)
  4. ^ 『年中行事事典』p.639
  5. ^ 柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P193.
  6. ^ その年に起きた出来事や注目された人物など、ユーモアたっぷりに風刺した造り物が多い。
  7. ^ 福井新聞 てんぐが女性追い大暴れ!客爆笑 福井・美浜で奇祭「八朔祭」(2012年9月1日午後5時29分) 福井新聞
  8. ^ 【仰天ゴハン】こねて跳ねて成長願う『読売新聞』朝刊2018年9月23日よみほっと(別刷り)

外部リンク[編集]