前田利長

 
前田利長
魚津歴史民俗博物館所蔵
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄5年1月12日1562年2月15日[1]
死没 慶長19年5月20日1614年6月27日[2]
改名 犬千代(幼名)→ 利勝(初名)→ 利長
別名 通称:孫四郎、肥前守、越中少将
戒名 瑞龍院殿聖山英賢大居士
墓所 前田利長公墓所瑞龍寺(菩提寺)
野田山墓地長齢寺高野山
官位 従五位下肥前守従四位下侍従
左近衛権少将左近衛権中将参議従三位権中納言、贈正二位権大納言
主君 織田信長秀信豊臣秀吉秀頼徳川家康
加賀国加賀藩
氏族 菅原姓前田氏
父母 父:前田利家、母:まつ
兄弟 前田長種室)、利長中川光重室)、加賀殿(豊臣秀吉側室、万里小路充房室)、(秀吉の猶子、宇喜多秀家室)、与免[注釈 1]利政[注釈 2]千世細川忠隆室のち離縁。村井長次室)、長好連室、のち中川光忠室)、知好利常利孝保智篠原貞秀室)、利貞、女[注釈 3]
正室:永姫(織田信長の娘)
満姫(石姫、蓮成院)
養子:利常
養女:先勝院古那(のちの祖心尼)、(青山長正室)、永寿院青山吉次室)、竹島殿(久香院、前田直知室)
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前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。初名は利勝(としかつ)、天正17年(1589年)頃に利長と改名した。

若年より織田信長豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉の死後は政治的判断をした上で徳川家康に帰順し、江戸幕府成立後に加賀藩の礎を築いた。

生涯[編集]

出生から織田政権期[編集]

永禄5年(1562年1月12日織田信長の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる[3][4]。幼名は犬千代、初名は利勝[3][4]

初めは安土城で織田信長に仕えた。

天正9年(1581年)、父・利家が能登国を与えられた役の後、父の旧領越前国府中の一部を与えられ、知行3万3千石、越前府中城に住んだ[5][6]。信長の娘・永姫を室に迎える。

天正10年(1582年)、本能寺の変の際は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。

信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。

豊臣政権期[編集]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長の母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。

勝家の自刃後は秀吉に仕え、加賀国石川郡のうち、松任4万石を与えられた[7]

天正13年(1585年)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国富山県)が制圧されると、同国射水郡砺波郡婦負郡32万石を与えられた。父・利家の監督下にはあったものの、独立大名としての格式が認められた利長は父とは独立した家臣団を編成していた[7]

秀吉の配下として九州平定[注釈 4]小田原征伐などに従軍し、各地を転戦して功績を立てた。特に九州平定戦では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。

天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る[注釈 5]慶長3年(1598年)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。

利家死後[編集]

富山県高岡市高岡古城公園にある前田利長の騎馬銅像

父の利家は豊臣政権において、五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。

慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。

同年8月、利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、家康の勧めにより金沢へ帰国した(『三壺記』)[8]

翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため[要出典]、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長大野治長などが連座している。

なお、近年の研究においては、徳川家康の加賀征伐計画そのものが当時の「風聞」の範疇に過ぎないという見方も存在している。大西泰正は利長は当初より徳川と協調して領国を保全する立場で、秀頼の傅役の職務放棄と加賀への帰国もその一環であったが、9月に家康が大坂城入りして事実上の専権が確立されたことで両者にわだかまりが生じ、利長も徳川に従うか否かの政治的判断を迫られたとしている。また、この時期に松平信吉を利長の養子に迎える構想もあったと言われている[7]

この過程で問題の解決に奔走したのは重臣の横山長知であった。横山は越前府中時代の利長に召し抱えられた直臣で利長が前田家の家督を継いだ後も腹心として活躍したが、加賀前田家の初代である利長の父・利家とは一度も直接の主従関係を持ったことがなかった(これは利家の遺物分配の名簿に横山の名前がないことからも裏付けられる)。これに対して、利長の弟である前田利政や利家以来の宿老であった村井長頼奥村永福は利長や横山の方針に不満を抱き、徳山則秀のように出奔する者まで現れた[9][10]。また、片山延高は自分の死後に謀反する恐れありとする利家の遺言によって暗殺された[9]。さらに能登の旧国主であった畠山氏の旧臣出身の長連龍は織田信長から鹿島郡半郡を安堵されて以来、前田家の指揮下にあったとは言え与力大名としての性格を持ち続けて、前田家の家臣でありながら独自の領国支配を続けていた[11]。こうした多彩な出自を持つ家臣団の統制に利長は苦心することになる。

関ヶ原の戦い[編集]

慶長5年(1600年)、利長は金沢を出陣するが、この金沢出陣についてはその解釈が二説あり、上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説[12]、石田方の挙兵に対抗するための出陣とする説[13]である。

いずれにせよ、家康出陣中に石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。

9月11日、弟・利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上し、18日には長重と和議を結ぶ。

利政は西軍に妻子を人質を取られたと知り、秘かに妻子を取り戻してから兄と合流しようとしたものの、事態の急転によって遂に動くことが出来ずに仮病を使ったとみられているが、この戦いで戦功を挙げて母・芳春院の金沢帰還を期待していた利長の怒りは激しく、亡き利家が遺言にて利長に子が無い時は利政を後継にするように命じていた[注釈 6]にもかかわらず、利長は家康に対して利政が西軍に加担したと訴え出たのである[10][14]

北陸三ヶ国120万石の太守[編集]

関ヶ原の戦い後、弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる日本最大の藩・加賀藩が成立した。利長は1反を300歩に改め領内の再検地と丹羽・山口遺臣の蜂起に備え刀狩りを実施、122万5千石の検地高を得たが幕府は認めず、119万2760石を前田家の朱印高とした[15]

豊臣政権下の大老格の家々であった宇喜多家・上杉家・毛利家が改易および減封により家格を落とす中(小早川家も後に断絶)、前田家は徳川氏以外で唯一公卿(武家清華)の家格を維持することが許された。この家格は江戸時代も継続されることとなる。

利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現したと言われているが、実際に動いたのは母の芳春院であって、利長が助命に動いたことを示す史料は存在しない。利長は前田家領国を守ることを何よりも最優先にして利政・秀家の切り捨てを図り、その結果として120万石にも及ぶ大封を得たのが実像であったとみられている[7]

家臣団の亀裂[編集]

日本最大の大名になった利長は関ヶ原の戦いで所領を失った赤座直保永原孝治父子や浮田休閑内藤徳庵らを召し抱え、更に家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。家臣団の拡大は家康への服従以来問題になっていた家臣同士の対立を深刻にした。

尾張以来の家臣を中心とする太田長知(ながとも)の一団(中川光重篠原一孝村井長次奥村栄明神尾之直ら)と、能登・加賀時代からの家臣を中心とする横山長知(ながちか)の一団(長連龍・高山長房富田重政山崎長徳青山吉次ら)が対立し、利長は慶長6年(1601年)に19か条からなる定書を制定して喧嘩両成敗・徒党の禁止などを定めて家中の引き締めを図るが、結局は翌慶長7年(1602年)には利長自身が横山長知・山崎長徳に命じて、金沢城内で太田長知を暗殺させた。

その後、利長は横山長知・篠原一孝・奥村永福(栄明の父)の3人を筆頭家老として藩政を運営させ、利長が異母弟の利常に家督を譲った後は彼らに藩政を委ねさせた。永福の引退後は息子の栄明と本多政重を加えたが、横山は篠原一孝とも対立し、更に先の太田長知暗殺の功労を巡って山崎長徳とも対立する有様であった。慶長16年(1611年)に利長が一時病気で重篤になった際の遺言には特に「横山長知と神尾之直」「横山長知と山崎長徳」「高山長房と村井長次」の不仲は深刻であると述べて和解を求め、横山と山崎は横山の娘・せうを山崎の子・光式に嫁がせることで和解したものの他の和解は進まなかった[9][10]

慶長19年(1614年)1月、江戸幕府の命令で高山長房・浮田休閑・内藤徳庵らキリシタンの家臣が捕縛されて幕府に引き渡され、2月には横山長知が奥村栄頼(永福の三男で栄明の弟)に讒言されたことを憤慨して一族と共に剃髪致仕を申し入れると、利長や本多政重の説得にもかかわらず出奔してしまう。これを知った奥村栄頼は篠原一孝に対して利長の命令であるとして横山を討ち取るように指示するが、利長が横山を誅殺することはあり得ないと考えた篠原はむしろこれは奥村栄頼が自分を陥れる罠ではないかと疑って指示を拒絶している。

10月、横山長知は大坂の陣に出陣する途上の前田利常と越前国麻生津の陣にて会見してそのまま帰参したものの、長年の主君であった利長は既に5月にはこの世を去っていた[注釈 7]。また、翌年には横山を陥れたとされた奥村栄頼が一族と共に出奔を試みたものの父・兄が応じず、誘われた本多政重も同調しなかったために1人で出奔している[注釈 8]。家臣団の統制の問題は利長を最後まで苦しめ、次の利常へと引き継がれることになる[9][10]

晩年[編集]

男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。利常はまだ13歳で藩政を十分に行うことができないため、その後見となり、実質的に藩政を指揮していた[17]

慶長14年(1609年)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。城と城下町の整備に努めた。

一次史料では、慶長15年(1610年)3月27日付前田利長宛徳川秀忠書状で、腫物を患ったことが書かれている礼状が存在するので、この頃から病に倒れたと見られている。4月4日付で利長は秀忠宛に礼状をしたためているが、それより前に4月1日付で秀忠から再度の見舞い状が届けられている。秀忠からは越後国新発田藩主の溝口秀勝が利長の病状を確認するために派遣されている。また、秀忠の再度の見舞い状に対して、利長は4月9日付で返礼状をしたためている。4月10日付で大御所の徳川家康からも利長に宛てた見舞い状が届けられている。これに対して利長は4月18日に返礼状を出している。この時の病状は何とか収ったらしい[18]

しかし、慶長16年(1611年)に病気が再発。同年2月16日付山崎長徳宛書状で「この間はしゅもつさいほつ(腫物再発)にて」とあることから、少なくともこの頃には病気に倒れていたことがわかる。利長の病気は梅毒による腫れ物と見られている[19]

利長は、隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていく。

慶長18年(1613年)には豊臣家より織田頼長が訪れ勧誘を受けるが、利長はこれを拒否した。なお、『前田家雑録』ではこの年から病気が悪化したとしている[20]

慶長19年(1614年)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許されるが、5月20日卯の刻に高岡城で病死[2]

慶長年録』によると、死因は唐瘡(梅毒)とされている[注釈 9][2]。この死因については『当代記』にも似たような記事があるとされるが、ここでは5月10日が忌日になっている[2]

服毒自殺ともされる(『懐恵夜話』)[21]。これについて『懐恵夜話』では「さて御身付御家来の内にても、宜しき者は皆々金沢へ御帰り遊ばされ、御自身毒を召し上がられ候て御他界なり」とあり、利長が服毒して死んだと記している。ただ、『懐恵夜話』は利長の死から105年が経過した享保4年(1719年)の成立で、史料として妥当であるかどうかが問題になる[22]

享年53。法名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。高岡に葬られ、のち利常が菩提寺として瑞龍寺(堂宇は1997年国宝指定)を整備した。高岡市立博物館で肖像画等の関連資料を常設展示している。

遺物・遺産[編集]

墓所
肖像画

なお、前田利長の肖像画(魚津歴史民俗博物館蔵)は、平資盛のものと伝えられている肖像画(赤間神宮蔵)に酷似している[25]。理由は不明。

書跡
祭礼 (御印祭
  • 1609年慶長14年)、前田利長が高岡城を築城、高岡の町を開いたとき町の繁栄を図るため、1611年(慶長16年)に、金森弥右衛門ほか7名の鋳物師を礪波郡西部金屋村(現・高岡市戸出西金屋)から金屋町に移住させ、高岡銅器の礎をつくったことへの感謝と遺徳を忍び、毎年6月19、20日に行われる祭礼。利長の命日である6月20日(旧暦5月20日)には、前田利長墓所にて町内の小・中学生が、弥栄節(やがえふ)の奉納踊りを行っている[26]

官職および位階等の履歴[編集]

※日付=旧暦

  • 天正9年(1581年) - 越前国府中城主となり3万3000石を領有する。
  • 天正11年(1583年) - 加賀国松任城主となり、4万石を領有する。
  • 天正13年(1585年
  • 天正14年(1586年) - 従四位下に昇叙し、侍従を兼任。能登一国を領有する。
  • 天正16年(1588年) - 豊臣の姓を賜る[27]
  • 文禄2年(1593年)閏9月 - 左近衛権少将に転任。肥前守如元。
  • 文禄4年(1595年9月 - 左近衛権中将に転任。肥前守如元。
  • 慶長2年(1597年)9月28日 - 参議補任。
  • 慶長3年(1598年)4月20日 - 従三位権中納言に昇叙転任。利家の隠居で家督相続。
  • 慶長4年(1599年
    • 閏3月3日 - 利家が死去し、豊臣家五大老の一角として就任。
    • 12月20日 - 権中納言辞任。
  • 慶長6年(1601年) - 戦功による加増に伴い、約120万石を領有する。
  • 慶長10年(1605年)6月28日 - 隠居。
  • 慶長19年(1614年)5月20日 - 正二位権大納言追贈。

系譜[編集]

関連作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 浅野幸長の許嫁。結婚前に死去。
  2. ^ 秀吉の養女。夭折。
  3. ^ 早世。
  4. ^ 父の利家は留守居として兵8000で畿内に残留。
  5. ^ 同年発生の死者まで出した蒲生騒動に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。このため秀吉もしくは豊臣家からの新川郡の領知判物がなく(現在の前田家(「加賀藩文書」前田育徳会など)にも加増を記した記録はあるが、公儀の領地宛行状などは現存せず)、江戸時代に徳川幕府から越中国の返上を迫られる一因にもなる。
  6. ^ 利政が名乗った通称「孫四郎」は、利家・利長が2代にわたって名乗った後に利長から譲られたものである。
  7. ^ 前田利長が自分が死ねば横山長知が殉死に追い込まれる事態に陥ると考えて、そうした事態を避けるために、自身が死ぬ前に横山を意図的に出奔させたとする説もある[16]
  8. ^ 後に横山・奥村両家は婚姻関係を結んで和解、後に横山家は奥村家から養子を迎えている。
  9. ^ 『慶長年録』では「5月20日、羽柴肥前守越中外山の城において、唐瘡の煩いにて死去」とある。
  10. ^ 名前は石姫とも伝わる。法名は蓮成院殿妙侃大姉。平成13年(2002年)に菩提寺の高岡市本陽寺で、享年と没日と法名が記された坐像が発見された。生没年と法名はこれに基づく。それまでは、乳児のうちに死んだというのが定説であった。

出典[編集]

  1. ^ 見瀬 2018, p. 278.
  2. ^ a b c d 見瀬 2018, p. 248.
  3. ^ a b 堀田 1923, p. 892.
  4. ^ a b 見瀬 2018, p. 1.
  5. ^ 堀田 1923, pp. 892–893.
  6. ^ 高岡市立博物館「高岡の祖・前田利長略年譜」
  7. ^ a b c d 大西 2016, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」
  8. ^ 岩沢愿彦『前田利家』(新装版)吉川弘文館、1988年、286頁。
  9. ^ a b c d 木越隆三「慶長期加賀藩家臣団の構成と動向」棚町知弥・鶴崎裕雄・木越隆三 編『白山万句 資料と研究』白山比咩神社、1985年。/所収:大西 2016
  10. ^ a b c d 高澤裕一「前田利長の進退」『北陸社会の歴史的展開』能登印刷出版部、1992年。/所収:大西 2016
  11. ^ 石野友康「織豊期加賀前田氏の領国支配体制」『加能史料研究』第8号、1996年。/所収:大西 2016
  12. ^ 『石川懸史』第弐編 石川県、1939年、149頁。
  13. ^ 見瀬和雄『利家・利長・利常―前田三代の人と政治―』北國新聞社、2002年。
  14. ^ 見瀬和雄「関ヶ原合戦前後における前田利政の動静」『金沢学院大学紀要』12号、2014年。/所収:大西 2016
  15. ^ 慶長10年(1605年)4月8日、利長隠居・利光(のちの利常)宛「領知判物」
  16. ^ 「横山長知」家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』第3巻、新人物往来社、1988年。
  17. ^ 萩原大輔「前田利長隠居政治の構造と展開」『富山史壇』178号、2015年。
  18. ^ 見瀬 2018, pp. 190–194.
  19. ^ 見瀬 2018, pp. 194–195.
  20. ^ 見瀬 2018, p. 241.
  21. ^ 高澤祐一「前田利長の進退」高澤祐一 編『北陸社会の歴史的展開』能登印刷出版部、1992年。
  22. ^ 見瀬 2018, pp. 249–250.
  23. ^ 主な所蔵品”. 魚津歴史民俗博物館. 2020年5月8日閲覧。
  24. ^ 高岡の祖・前田利長略年譜”. 高岡市立博物館. 2020年5月8日閲覧。
  25. ^ 高尾哲史「赤間神宮所蔵「平資盛像」と魚津高畠家旧蔵「前田利長画像」の相似性について」『新國學』復刊第3号(通巻7号)、2011年10月。
  26. ^ 『先人に感謝奉納踊り 御印祭 金屋町児童しなやかに』北日本新聞 2016年6月21日20面。
  27. ^ a b 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒澤史学』49号、1996年。 

参考文献[編集]

  • 前田利祐、竹田真砂子、忠田敏男、祖田浩一永井路子安宅夏夫、松尾美恵子、小林千草千草子檀ふみ桐野作人、久保貴子、野海青児、皆森禮子『おまつと利家 加賀百万石を創った人びと』集英社、2001年。ISBN 4-08-781231-6 
  • 池田公一「大谷刑部と前田利長―北国計略と謀書の作成―」花ヶ前盛明 編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年。
  • 見瀬和雄『利家・利長・利常―前田三代の人と政治―』北國新聞社、2002年。ISBN 978-4833012041 
  • 見瀬和雄「関ヶ原合戦前夜の北陸と前田利長―慶長五年九月五日付前田利長書状―」佐藤孝之 編『古文書の語る地方史』天野出版工房、2010年。
  • 見瀬和雄『前田利長』吉川弘文館人物叢書〉、2018年。ISBN 978-4642052856 
  • 大西泰正 編『前田利家・利長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第三巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-207-0 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 前田氏」『寛政重脩諸家譜. 第6輯』國民圖書、1923年、892-894頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082716/455 国立国会図書館デジタルコレクション 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]