勝俣久作

勝俣 久作(かつまた きゅうさく、1901年 - 1968年)は、昭和期の教育者

来歴[編集]

神奈川県箱根町出身で、農家の次男に生まれる。勉強好きで、寺の住職に面倒を見てもらいながら高等小学校に通う。卒業後は代用教員をしながら猛勉強し上京、教員資格を取り旧制麻布中学校の国語教師を務める。当時の渾名は「サルマタ」[1]。教え子には吉行淳之介北杜夫などがいる。

戦後、突然学校をやめて事業を始めるも、ことごとく失敗する。会社勤めも上司とうまくいかず、生活は苦しかったが、帰宅すると仕事とは関係ない勉強をし、飲んで帰っても早朝に勉強していた。その後、代々木ゼミナール創設者の一人として副校長兼古文教師となる。1968年昭和43年)に死去[2]

人物[編集]

  • 本人は学者を志望していたが、高等小学校卒という学歴に劣等感があり、子供の教育に力を入れるようになる。吉行淳之介は「先生のおかげで国語の時間に魅力を感じるようになった」と語る。北杜夫はもともと文学作品に興味がなかったが、作文の時間、勝俣に夏目漱石夢十夜』の中から3つ4つの短文を読んでもらって面白いと思い、『夢十夜』『草枕』を読んだという[3]
  • 国文学国史を愛し、折口信夫金田一京助らが主催する研究会にも参加し、民俗学も学ぶ。1927年昭和2年)、故郷の歴史を綴った「箱根仙石原村史略」をまとめた[4]
  • 「祖先は山梨山賊上がり」と冗談をよくこぼしていた。祖先は武田信玄を抱えた「武田軍団」の一人で、軍団の崩壊で勝俣一族は神奈川県の仙石原に逃げ込み、籠付きで生活していたが「食えないから追いはぎもよくやった」というのが酒宴の笑い話[5]

家族[編集]

著書[編集]

  • 箱根仙石原村史略 (1965年)

脚注[編集]

  1. ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.136
  2. ^ “(おやじのせなか)勝俣宣夫 学者を志望し、いつももう勉強”. 朝日新聞: p. 30. (2006年4月30日) 
  3. ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.137
  4. ^ “親父の生きざま”. 日本経済新聞夕刊: p. 1. (2010年11月19日) 
  5. ^ a b “丸紅、社長に勝俣氏 「参謀の人」時代が請う(NewsEdge1)”. 日経産業新聞: p. 24. (2002年12月19日)