北畠治房
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北畠 治房(きたばたけ はるふさ、1833年2月20日(天保4年1月1日[1]) - 1921年(大正10年)5月4日[1][2])は、江戸時代末期の勤皇家、明治時代の司法官。旧名は平岡鳩平、平岡武夫。維新後、南朝の功臣北畠親房の末裔を自称し、北畠治房と改名した。
人物[編集]
法隆寺附近の商家の次男として誕生[要出典]。伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒[要出典]。天誅組の変が起こると師の伴林に随伴してこれに参加するが、天誅組は鎮圧され、師である伴林も処刑される。鳩平は追手を逃れて潜伏し、京都や大坂を転転とする[要出典]。この時伴林を見捨てて去ったことで恨みをかったという[3]。やがて旧知であった水戸藩士大庭一心斎らに誘われ天狗党に参加するも、早期に離脱[要出典]。戊辰戦争では尊攘派の浪士達を糾合して有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる[要出典]。
明治維新後は司法官となり、東京裁判所長、神奈川裁判所長、東京控訴院検事長、同評定官、大審院評定官、大阪控訴院長などを歴任[2]。任期中起こった小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた[要出典]。明治十四年の政変で失脚し、立憲改進党に参加[要出典]。東京専門学校(現在の早稲田大学)の議員も務めた[要出典]。1896年(明治29年)6月5月、男爵を叙爵した[4]。
1908年(明治41年)5月9日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[5]、1911年(明治44年)7月9日に任期満了となった[2]。
法隆寺近郊で余生を過ごした[要出典]。
親族[編集]
栄典[編集]
- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[7]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
- 1891年(明治24年)3月30日 - 旭日中綬章[9]
- 1895年(明治28年)12月29日 - 勲二等瑞宝章[10]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 国史大辞典
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
関連項目[編集]
公職 | ||
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先代 児島惟謙 | 大阪控訴院長 1891年 - 1898年 | 次代 加太邦憲 |
先代 野村維章 | 東京控訴院検事長 1887年 | 次代 高木秀臣 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 | 男爵 北畠(治房)家初代 1896年 - 1921年 | 次代 北畠具雄 |