南条元知

南条 元知(なんじょう もととも、寛永18年2月27日1641年4月7日) - 元禄16年11月1日1703年12月9日))は、江戸時代前期の肥後細川家の家臣。肥後熊本細川藩初代細川忠利の四男。妻は細川家家老米田是長(長岡監物)の娘・吟。南条左衛門、長岡左近、のち道固。

生涯[編集]

養父・南条元信南条元宅の嫡孫)は豊臣秀頼の家臣から加藤忠広を経て細川家に仕えて3千石を得た。


寛文9年(1669年)、北島雲山ら藩士が藩の陽明学の禁により致仕すると、元知は甥で藩主の細川綱利に諫言したために永蟄居とされた。是長の跡を継いだ是庸(家老、1万5千石)や娘、弟の是連が居たが、連座して取り潰しの処分となり、室町時代から続く名門南条家は断絶した。