吉子女王

吉子女王
水戸徳川家
晩年の吉子
続柄

諡号 文明夫人
全名 吉子
徳川吉子
貞芳院(院号
称号 登美宮(とみのみや)
身位 女王→降嫁
出生 (1804-10-28) 1804年10月28日
死去 1893年1月27日(1893-01-27)(88歳)
東京都本所区
埋葬 瑞龍山(茨城県)
配偶者 徳川斉昭
子女 慶篤
二郎麿
以以姫
慶喜
父親 有栖川宮織仁親王霊元天皇皇孫)
母親 安藤清子
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吉子女王(よしこじょおう、1804年10月28日文化元年9月25日〉-1893年明治26年〉1月27日)は、日本皇族有栖川宮織仁親王霊元天皇皇孫)の第12王女。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭御簾中(正室)。第10代藩主・徳川慶篤、最後の征夷大将軍徳川慶喜の母。幼称は登美宮(とみのみや)。院号は貞芳院徳川吉子。没後文明夫人される。

来歴[編集]

有栖川宮織仁親王霊元天皇皇孫)の第12王女(末娘)。母は家女房・安藤清子[1](清瀧)。同母兄に尊超入道親王、異母兄に有栖川宮韶仁親王など、異母姉に楽宮喬子徳川家慶御台所)・孚希宮織子(浅野斉賢正室)・栄宮幸子(毛利斉房正室)などがいる[2][3]

天保元年(1830年)、当時としては結婚適齢期を遥かに過ぎた年齢(27歳)になってから斉昭との婚約がまとまり、翌年に京都から江戸降嫁した。婚約時、斉昭は31歳であったが、藩主となって約1年であり、それ以前は部屋住みの身分であったため御簾中がなかった。この婚約は姉である喬子の肝煎りで決まったと言われる。また、婚約の勅許を下した仁孝天皇は、「水戸は先代以来、政教能く行われ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁なるべし」と満足したといわれる[6]

斉昭には吉子が嫁ぐ前に側室が生んだ女子があり、結婚後も数多くの側室を持ち、計37人の子をもうけたが、夫婦の仲は睦まじかった。嫁いだ頃、義理の母となった峯寿院(8代藩主徳川斉脩御簾中)に、「自分は年齢が高く、子供を産むことは無理かもしれないので、斉昭に側室をつけてほしい」と申し出たが、斉昭は前にも増して吉子のもとに渡ったという[7][8]

斉昭との間に長男・慶篤、二男・二郎麿、五女・以以姫、七男・慶喜を儲ける。艶福家の夫によく仕え、庶子の教育にも目を配り「賢夫人」としての名声が生前より高かった。

性格は、宮家の出であるものの、豪気であった。天保5年(1834年)、斉昭が蝦夷地開拓を幕府に請願した折には、吉子も夫と共に蝦夷地に渡る決意を固め、懐妊中にもかかわらず雪中で薙刀や乗馬の訓練に励んだ。また、江戸小石川藩邸の奥庭を散歩中に這い出てきた1匹の蛇を、人の手も借りず自ら打ち殺したと伝えられている。

多芸で、和歌や有栖川流の書の他、刺繍や押絵などの手工芸、楽器では篳篥をよくした[注釈 1]。釣りも趣味であり、水戸に下向の後は城下の川でよく釣りをしていたという[10]。また、12代将軍・徳川家慶の御台所の妹であり宮家出身の吉子の動向は、井伊直弼をはじめとする南紀派の幕府首脳には恐れられていたらしい[注釈 2]安政6年(1859年)8月、安政の大獄により斉昭は水戸に永蟄居となる。その約3か月後の12月、吉子は幕府の許可を得て、水戸に下る。翌万延元年(1860年)8月に夫が幽閉のまま死去すると、ただちに落飾し、「貞芳院」と名乗る。斉昭の死後、柱石を失った水戸藩は激しい内部紛争に陥る。

貞芳院は、病弱だったという藩主・慶篤の後見を務め、夫の遺志であった慶喜の将軍擁立に尽力したと言われる[12]。だが、慶篤は元治元年(1864年)の天狗党の決起と反発する諸生党による筑波勢参加者の家人や係累への報復など藩内の対立を収拾できず、ついに鎮圧に当たる幕府直属の陸軍が出動する。保守派が優勢になり、並行して筑波勢に味方した豪農ほかが打ち壊しに遭うなど、水戸藩周辺は大きく混乱する[13]。慶篤の名代で内乱鎮静に当たった宍戸藩主の松平頼徳が江戸から大挙して水戸に向かい、この「大発勢」に天狗党が同調した点をつかれ、保守派の市川弘美の工作で尊攘派と同一視されて幕府軍に追討されてしまう。責任を問われた頼徳が切腹し、天狗党は禁裏御守衛総督の一橋慶喜を頼り、朝廷に尊皇攘夷の志を訴えるため京都に上ろうとする。慶喜は京都に入れないために討伐軍を率いて迎え撃ち、慶篤が江戸屋敷で実権を握れずに苦慮する間、京都近辺で天狗党の処刑が進むと諸生党が水戸城下で報復を、慶喜が将軍職に就くと反対に天狗党が諸生党に報復を働いた。また、戊辰戦争の勃発により、慶喜は皮肉にも有栖川宮熾仁親王に追討される身の上となった。

慶応4年(1868年)4月5日、慶篤は藩内の混乱による心労もあり病没する。すでに江戸の無血開城、慶喜の水戸謹慎などが決まった中での死であったため喪は秘され、慶篤の遺児である篤敬に代わって、欧州留学中だった徳川昭武(慶篤・慶喜の異母弟、当時清水徳川家当主)を呼び戻して藩主に据えることとなり、およそ8か月にわたり水戸藩は藩主不在となる。4月15日、慶喜が水戸城に隣接の弘道館に入るが、吉子と会うことはなかったという。7月、慶喜は静岡に移る。10月、水戸城大手門を挟んでの水戸藩士の内戦・弘道館戦争が起こり、銃弾は吉子の居室の付近にも飛んだ。

水戸偕楽園の好文亭。

明治2年(1869年)から明治6年(1873年)まで、偕楽園内の好文亭に住む。その後東京に出て、慶篤の跡を嗣いだ昭武の世話になり、向島小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に移って余生を送った[14]。武家社会の慣習上、別家に養子に出た慶喜との同居はできなかったが、親しく文通を行い、頻繁に交流していた様子が伝来する書簡から窺える。

『熾仁親王日記』によると、1873年1月22日以降、徳川吉子は兄の有栖川宮韶仁親王の直系の孫にあたる熾仁親王とたびたび訪問しあい、あるいは風邪の見舞いを遣り、同年6月には結納の祝いを、11月には親王の体調を気遣って水戸から鮭を取り寄せて贈った。有栖川宮家との親交が復活した様子が記されている[15]。1873年 (明治7年) 9月には正二位を追贈された斉昭自作の半筆を親王に贈り[16]明治天皇第一皇女稚高依姫尊が亡くなった10月の末に親王を池田慶徳邸に招くと、経慈院はじめ昭武のほか、篤敬や松平忠和土屋挙直など斉昭の息子たち、また昭武の夫人で親王に書道の手本を頼み手習いを受けた瑛姫[注釈 3]ほかを揃えてもてなしている[17]。もっぱら人やものの行き来を記した熾仁親王が金星の太陽面通過を日記に記したのが1874年12月9日で、その前日も4時間ほど小梅の屋敷を訪れて過ごした[18]。徳川吉子は長命を全うし、明治26年(1893年)に死去した。享年90。墓所は水戸藩墓所・瑞龍山茨城県[19]

諡号の「文明夫人」は、生前に斉昭が決めていたものであるという。結婚後もしばらくは公家風の「おすべらかし小袖」姿で過ごしたことを示す肖像画が残る。ちなみに肖像画に添付された斉昭の手紙などから、斉昭は「吉子」と呼んでいたと伝えられる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 降嫁にあたって宮中にあがり詠んだ歌が伝わる[9]

    「天ざかるひなにはあれど櫻花/雲の上まで咲き匂はなん」

  2. ^ 安政5年(1858年)7月の小人目付発大老老中宛上書には

    「兼々御簾中(=登美宮吉子)ニは気象も被在之、文筆達者ニ被取廻、女中向之世話は勿論、御家政向或ハ海防之議論抔まで(※ しんにょうに「占」)を被申出候程之義ニ有之候処、此度御処置之次第、殊之外御不平之由ニ而、日光御門主とは御続柄、旁以同意被成候由ニ而、京都江御上書有之候趣噂仕」

    とあり、このことから通常、御簾中(正室)が取り仕切る奥向のことばかりでなく、藩政にも深く関わり、更に国防にも関心を持っていたことが窺える。
  3. ^ 昭武夫人の瑛姫は、中院通富の娘。栄姫とも。

出典[編集]

  1. ^ 高松宮編修掛 [編]『新修有栖川宮系譜 : 高松宮藏版』高松宮編修掛、1940年、64-65頁。 
  2. ^ 西村文則「烈公夫人 貞芳院」『水戸学随筆』昭和刊行会、東京、1944年、128-138頁。doi:10.11501/1038547全国書誌番号:46001378 
  3. ^ 廣田吉崇「<研究ノート> 明治前期の「貴紳の茶の湯」 : 『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』に見る喫茶文化の状況」『日本研究』第45巻、2012年3月30日、185-236頁、doi:10.15055/00000465 
  4. ^ 芝葛盛『織仁親王行實』(1938年・昭和13年) 高松宮家。NCID BN1350785X
  5. ^ 高松宮藏版刊 (1938年刊) の複製。
  6. ^ [4][5]
  7. ^ 横須賀安枝『礫川餘滴 : 名君美談』野史臺、1892年。 NCID BA53913195 
  8. ^ 広瀬敏子「水戸烈公夫人貞芳院 (共著)」『日本婦人の道』目黒書店、東京、1945年、31-38頁。doi:10.11501/1043064全国書誌番号:46005767 
  9. ^ 茨城県教育会 編『愛誦集衍義』(和装)茨城県教育会、水戸、1939年、18頁。doi:10.11501/1437963全国書誌番号:44042091 
  10. ^ 柴桂子(著)、東京桂の会(編)「江戸期おんな考」第9号、桂文庫、1998年9月、doi:10.11501/1835480ISSN 1343-6821 
  11. ^ 『水戸史談 : 故老実歴 附・幾のふの夢』千葉 : 青史社 ; 東京 :合同出版、1974年。doi:10.11501/9640387全国書誌番号:73009085 
  12. ^ 高瀬真卿「遠山虚舟翁物語並に貞芳院大夫人の御書」『水戸史談 : 故老実歴 附・幾のふの夢』中外図書局、東京、1905年、174-181頁。doi:10.11501/764412全国書誌番号:40008204 。復刻版あり[11]
  13. ^ 高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 : 尊王攘夷運動と世直し』青史出版、2005年、180頁。 
  14. ^ 松戸市戸定歴史館 ; 徳川昭武 ; 徳川慶喜『徳川昭武の屋敷 慶喜の住まい : 松戸市戸定歴史館企画展』松戸市戸定歴史館、2011年、71-77頁。 NCID BB07329209 
  15. ^ 熾仁親王日記』 2 (慶応4至明治14年)、熾仁親王 ; 高松宮家、高松宮家、1935年、7, 11, 27, 45, 83, 202頁https://books.google.co.jp/books?hl=en&lr=&id=2bfMqC4DpW8C&oi=fnd&pg=PP17&dq=%E8%B2%9E%E8%8A%B3%E9%99%A2&ots=nGMfGH99yN&sig=PymPkFmvWMbe_g9OF6iLZNi1T7k#v=onepage&q=%E8%B2%9E%E8%8A%B3%E9%99%A2&f=false2019年6月9日閲覧 
  16. ^ 熾仁親王日記 1935, pp. 213.
  17. ^ 熾仁親王日記 1935, pp. 221–222.
  18. ^ 熾仁親王日記 1935, pp. 240.
  19. ^ 秋元茂陽「十五代徳川慶喜 : 生母吉子」『徳川将軍家墓碑総覧』パレードブックス、2008年、162頁。ISBN 9784434114885 

参考文献[編集]

  • 秋元茂陽「十五代徳川慶喜:生母吉子」『徳川将軍家墓碑総覧』2008年、パレードブックス。
  • 『愛誦集衍義』1939年、茨城県教育会 (編)、茨城県教育会。
  • 芝葛盛『織仁親王行實』高松宮家、1938年。
  • 「遠山虚舟翁物語並に貞芳院大夫人の御書」『水戸史談:故老実歴 附・幾のふの夢』1905年、東京:中外図書局。
  • 仲田昭一「徳川斉昭夫人登美宮と那珂地方」『那珂町史の研究 第11号』(991年、那珂町史編さん委員会。
  • 西村文則「烈公夫人 貞芳院」『水戸学随筆』1944年、東京:昭和刊行会。
  • 『徳川昭武の屋敷 慶喜の住まい:松戸市戸定歴史館企画展』松戸市戸定歴史館。

登場するフィクション作品[編集]

関連文献[編集]

  • 『覚書幕末の水戸藩』1974年、山川菊栄、岩波書店。
  • 『近代への曙と公家大名』〈霞会館資料第18輯〉1994年、霞会館資料展示委員会 ; 大久保利謙 ほか (編)、霞会館。
  • 『徳川慶喜』(1998年「徳川慶喜展」パンフレット)
展示図録
  • 『将軍のフォトグラフィー:写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟』1992年、松戸市戸定歴史館 ; FREE。展覧会カタログ
  • 『最後の将軍徳川慶喜:松戸市制施行五十五周年・明治百三十周年記念』1998年、松戸市戸定歴史館 ; 松戸市 ; 松戸市教育委員会 (編)、松戸市戸定歴史館。「戸定邸使者の間・従者の間復原記念」特別展図録。
  • 『鵜飼吉左衛門・幸吉と幕末』〈尾西市歴史民俗資料館特別展図録 no.51〉1998年、尾西市歴史民俗資料館。吉左衛門生誕200年記念特別展図録。
  • 『幕末日本と徳川斉昭』2008年、茨城県立歴史館