呉楚七国の乱

呉楚七国の乱

黄色が朝廷直轄の郡、ピンクが諸侯王の領地
戦争:前漢の内乱
年月日:紀元前154年
場所:中国
結果:漢朝側の勝利
交戦勢力
漢朝
など
呉楚七国
指導者・指揮官
周亜夫
欒布
酈寄中国語版
劉濞ら各諸侯王

呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)は、中国前漢紀元前154年に、呉王ほか七国の諸侯王が起こした反乱。宗室である劉氏同士の内乱であった。

背景[編集]

漢の前代であるは、地方全てを郡と県に分けて直轄支配する体制である郡県制を採用していた。これに対し漢は、秦の苛烈な法治主義への反省と長い間の戦乱から来る国力の疲弊とを考慮して、郡県制を布く地方と、諸侯王を封じた半独立国を作って治めさせる地方とを並立させた。これを郡国制と呼ぶ。しかし、秦以外の旧六国地域の士民の中には漢の皇帝を「秦王」と同列に見なす者もあり、諸侯王を王としてかつての六国(戦国七雄)の復活を願う傾向が完全になくなったわけではなかった。

その後、漢は文帝景帝時代の善政により次第に国力を回復し、自信をつけた中央政府は各地の諸侯王たちの権力を疎ましく思うようになった。諸侯王の方でも自らの領地内では完全な独立の権限を保持し、中央政府の命令を聞かない者が多くなっていた。その中でも特に呉は、製塩と銅貨鋳造によりもたらされる財力を背景とし、呉王劉濞の世子劉賢が、又従兄弟にあたる皇太子時代の景帝に些細な口論から六博の碁盤を投げつけられて殺されたいきさつもあって、諸侯王の義務である長安への参勤を取り止めるなど、独立色を強めていた。

中央でも、賈誼鼂錯は「諸侯王の権限を削っていくべきだ」と説いたが、袁盎は「反対ではないが、(皇族である)劉一門の和を乱し、匈奴などの外敵を利する」と応じるなど、諸侯王対策は必要と思われていたが、その手法には両論あった。文帝は穏健政策を取り、呉王へも杖を贈り追認の形で参勤を免除するなど穏便に当たっていたため、軋轢が表面化することはなかった。

しかし文帝から景帝に代替わりしてからは、景帝は最側近の御史大夫となった鼂錯の言を入れ、これら諸侯王の力を押さえ込むため、些細な罪など口実を設けては領地を次々に削り始めた。当然、諸侯王たちは警戒と反発を蓄積していった。

経緯[編集]

呉王劉濞は紀元前154年に、呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけとして、反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。反乱側は、劉氏の和を乱す君側の奸臣鼂錯を討つとの名目を掲げた。

呉は南の南越の兵も借りて総勢70万ともいわれる兵を集め、また趙は北の匈奴と結び、乱を大規模なものとしていった。斉では膠西・膠東・菑川・済南など分割された国のほとんどが反乱に参加したものの、済北王劉志は城壁の修復をすると偽り反乱には参加せず、さらにかつての斉都臨菑(斉王劉将閭)が反乱に加わらなかった。このため膠西王らはこれを攻めたが、臨菑が要害で落とすことができず足止めされたため、呉・楚軍のみが長安目指して進軍した。また、淮南王劉安も反乱に加わろうとしたが、これに反対する宰相張釈之の策で加わることができなかった。長安を目指す呉軍は14歳から62歳までの男子人民の根こそぎ徴兵を発令しており、兵の質は低かった。とはいえ、その兵力は数において中央政府側を凌駕するほどであり、また呉の動員は領地から上がった莫大な富に支えられていたため、景帝は強い危機感を持たざるを得なかった。

景帝は、かつて呉の宰相を務めたこともあり、直言で知られ、父の文帝も厚く信頼していた袁盎を呼び、呉国内の情報や助言を求めた。袁盎は「反乱軍は呉王の巨利に寄っただけ、また周辺も奸臣で反対しなかっただけで、この乱はすぐに収まります」と前置きした上で、人払いを願う。その後「反乱軍が鼂錯の誅殺を名目にしているのだから、鼂錯を殺すべきです」と進言した。景帝は驚き悩んだが、結局鼂錯を処刑した[1]。袁盎は呉王の甥と共に呉軍に和平の使者として出向いたが、既に天下の半分が加勢した勢いもあって呉王は奢り、鼂錯の排除も名目に過ぎず、反乱軍が矛を収めるはずもなかった。ただ燕など、中立を維持したり中央に就いたりした諸侯も、領土削減政策には不満を持っていたので、反乱の拡大をこれで食い止めたともいえる。袁盎は呉王からの将軍として厚遇するとの話を蹴って囚われ、かつて恩を与えた呉の司馬の手引きで脱出し、景帝に報告した。

景帝は、建国の功臣周勃の息子であり、文帝が「漢朝に有事あれば、軍を任せて解決せよ」と遺言していた周亜夫太尉に任じ、これに楚漢戦争で活躍した欒布を付け討伐を命じた。反乱軍は大軍であったが統率に欠け、また呉の将軍が奇襲戦を進言しても受け入れず正攻法にこだわったために、途中で梁王劉武(景帝の同母弟)の頑強な抵抗にあって足止めされていた。その間に周亜夫は、まず要衝の洛陽滎陽へ急行してこれを確保し、次いで梁・趙・斉の中間にある昌邑に入り、劉武や景帝からの梁救援の要請があってもこれを無視し、防御を堅固にして守りを固めた。その一方で、趙・斉を牽制し、反乱軍の主力である呉・楚軍へは、機動に優れた兵を使い川筋の補給路を破壊するなど、徹底して補給線を切断する戦法を取り、呉・楚軍を飢えさせた。呉・楚軍は大軍で強く、まともにぶつかっては勝ち目が薄いが、利に寄っただけに飢えさせれば戦意の衰えは早いと見てのことである。

その通りに呉・楚軍の戦意はみるみる低下し、兵のみならず将にすら脱走者が出始めた。これに危機感を持った呉王は、昌邑の方を攻めることにした。これに対し周亜夫は、備えていた通り守りに徹し、さらに西北から牽制し東南を攻めるという呉王の陽動作戦を見破り、東南に軍を集結させ、漢軍の十八番である平地における戦車でこれを撃退した。呉軍は撤退するが、周亜夫はこの機を逃さず追撃に出る。呉軍は崩壊し、呉王は軍を捨て逃れるより他なかった。

呉王は東甌へ逃れたものの、東甌王により殺害され、その首は中央へと献上された。主力の呉軍の大敗および呉王の死を知った他の王たちは、反乱が失敗に終わったことを知り、そのうちの2人は自殺し、それ以外の王は帰国したものの後に殺された。結局、乱の勃発から鎮圧までは3か月という短い期間に過ぎなかった。趙王劉遂だけはその後も抵抗を続けたが、最後は自殺した。また、臨菑を守備した斉王劉将閭は、当初反乱に荷担していたことが判明し、乱の鎮圧後に自殺した。これを哀れんだ景帝は、劉将閭の子の劉寿を斉王に立てた。

のちに梁王は、呉楚七国の乱での戦功を理由に次代の皇帝になろうとしたものの、袁盎に反対され頓挫した。梁王はそれを恨み、刺客を放って袁盎を暗殺した。

反乱に参加した王[編集]

関連系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
七王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太上皇
劉太公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
代頃王
劉喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)高祖
劉邦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楚元王
劉交
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呉王
劉濞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉悼恵王
劉肥
 
 
 
 
 
(2)恵帝
劉盈
 
(5)文帝
劉恒
 
 
 
 
 
趙幽王
劉友
 
楚夷王
劉郢客
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王
劉将閭
 
済南王
劉辟光
 
済北王
劉志
 
菑川王
劉賢
 
膠西王
劉卬
 
膠東王
劉雄渠
 
(6)景帝
劉啓
 
梁王
劉武
 
趙王
劉遂
 
楚王
劉戊

影響[編集]

この乱の後には、諸侯王に対する締めつけはさらに厳しくなった。それまで王が中央と同様に小さな朝廷を持って領地の統治をしていたものを、統治の実権は朝廷の任命した官吏である(しょう)が握り、王は単に領地から上がる租税を受け取るだけのものとした。さらに武帝期には推恩の令が出され、それまで長子相続することとなっていた領地を、他の息子にも分割して与えることができるようにした。これらの政策により諸侯王の力は衰えていき、郡国制もほとんど郡県制と同様となっていった。

脚注[編集]

  1. ^ 袁盎と鼂錯は政敵の間柄であり、劉氏の和についてなど政策でもあらゆる点で反対だったため、極めて仲が悪かった。実際に鼂錯は呉王の蜂起を理由に袁盎を殺そうとしたものの、景帝の言により隠居させるに留まっていた。袁盎は機を逆に利用し、鼂錯を殺したのである。ただし、鼂錯の殺害も反乱への対応の一環でしかなかったかも知れない。