唐沢俊樹

唐沢 俊樹
からさわ としき
生年月日 (1891-02-10) 1891年2月10日
出生地 日本の旗 長野県東筑摩郡山形村
没年月日 (1967-03-14) 1967年3月14日(76歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科
前職 内務官僚
所属政党無所属→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲一等瑞宝章
子女 二男・唐沢俊二郎(元衆議院議員、元郵政大臣

日本の旗 第11代 法務大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

選挙区 旧長野4区
当選回数 4回
在任期間 1955年2月27日 - 1958年4月25日
1960年11月20日 - 1967年3月14日

当選回数 1回
在任期間 1940年1月14日 - 1946年4月17日

和歌山県の旗 官選第26代 和歌山県知事
在任期間 1931年12月18日 - 1932年6月28日
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唐沢 俊樹
からさわ としき

日本の旗 第39代 法制局長官
在任期間 1939年8月30日 - 1940年1月16日
内閣総理大臣 阿部信行

在任期間 1934年7月10日 - 1936年3月13日
内務大臣 後藤文夫
潮恵之輔
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唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年明治24年)2月10日 - 1967年昭和42年)3月14日)は、昭和期の日本の内務官僚政治家。戦前は内務次官貴族院議員を歴任し、戦後、自由民主党衆議院議員第1次岸改造内閣法務大臣を務める。勲一等瑞宝章

元自民党衆議院議員で郵政大臣党総務会長を歴任した唐沢俊二郎は二男。東急観光元会長の唐沢勲は甥にあたる。

来歴・人物[編集]

長野県東筑摩郡山形村生まれ。旧制長野県松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)時代には、小さい体躯に丸々としていたので「マルサ」と綽名される。かなりの暴れん坊で停学になったこともあるが、成績は抜群であった。1908年松本中学を卒業し、仙台の旧制二高に進学する。入試の成績は一位であった。二高から東京帝国大学法科大学政治学科に進む。同期には河合栄治郎田中耕太郎土方成美永野護らがいた。1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学政治学科首席卒業、銀時計を賜る。郷里山形村は、唐沢の卒業を祝して提灯行列を催し、恩賜の銀時計小学校に飾られた。

1915年(大正4年)内務省入省。参事官室属[1]1917年(大正6年)内務省を辞し、3年間(4年間の説あり)欧米に留学し、「第一次世界大戦後の世界思潮の動向」を研究する。1920年(大正9年)帰朝し、内務省に再入省、茨城県会計課長に任命される。赴任先の茨城県では旧制水戸高等学校(現在の茨城大学)が出来たばかりで教員不足のため、法制経済担当の講師として教壇にも立った。水戸高校時代の教え子には、岩田誠最高裁判所判事)、江戸英雄三井不動産会長)、岡崎英城(衆議院議員)、柴沼直東京文理科大学学長)、小川栄一藤田観光社長)らがいる。

その後、本省に戻り、内務省警保局図書課新聞検閲主任事務官、警保局保安課長などを経て、1931年(昭和6年)和歌山県知事に任命される。1932年(昭和7年)内務省土木局長となり、土木事業の中で砂防事業に着目する。砂防は、土地収用の必要がなく、事業費の大部分が労力費であるため、当時、窮乏していた農村救済に砂防工事を重点事業とした。唐沢は、昭和7年度に府県に対する砂防事業の国庫補助を前年度25万円から300万円に増額し、7年度から3ヵ年継続事業とした。1934年(昭和9年)岡田内閣後藤文夫内相によって内務省警保局長に任命される。警保局長時代の1935年(昭和10年)大本教の大検挙に乗り出した(大本事件)。戦後、大本事件は宗教弾圧事件として、批判を浴びたが、唐沢はこれに対して、1957年(昭和32年)に、大本教という宗教弾圧ではなく、大本教が信者から集めた浄財が出口王仁三郎から右翼に流れ、右翼の活動資金となっていることを断つという目的のために実行したと言う趣旨の手記を寄せている。

1936年(昭和11年)二・二六事件の責任を取って警保局長を辞任する。その後、大日本体育協会副会長、全国篭球協会会長をしていたが、1939年(昭和14年)阿部内閣法制局長官に就任する。1940年(昭和15年)1月14日、貴族院勅選議員に任じられた[2](1946年4月17日辞任[3])。東亜研究所常務理事を経て、1943年(昭和18年)東條内閣の内務次官に就任する。内務次官としては、戦時体制に即応した地方制度改正を実施し、東京府東京市を合併し、東京都を新たに設置した。また、都道府県の上級単位として各地方に地方行政協議会を設置し、各協議会会長は内閣総理大臣の直属とした。横浜事件への捏造関与を指摘する声がある。東條内閣が総辞職すると、唐沢も次官を辞任した。東亜研究所では、大東亜共栄圏に関する資料の収集と納入を神田神保町の古書業者に命じた[4]

戦後[編集]

唐沢俊樹の胸像
(長野県山形村、清水寺境内)清水多嘉示製作

東条内閣の内務次官を務めていたことから公職追放となり、永田雅一大映社長の誘いでかつて存在したプロ野球チーム、大映スターズの会長に就任する。1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約発効に伴い、公職追放が解除される。翌1952年(昭和27年)第25回衆議院議員総選挙に旧長野4区から立候補したが、落選する。1953年(昭和28年)バカヤロー解散後の第26回衆議院議員総選挙にも立候補したが、再び落選する。

1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙日本民主党公認で立候補し、2位当選を果たす。昭和32年(1957年7月10日第1次岸改造内閣に法務大臣として入閣した。唐沢はいわゆる一年生議員でありその入閣は異例であったが、当時岸信介首相が掲げていた貧乏、汚職、暴力の「三悪追放」のスローガンのうち、汚職、暴力対策を担当する法相に唐沢を抜擢した。法相に就任した唐沢は、検察人事の刷新、斡旋収賄罪の制定に尽力した。

1958年(昭和33年)5月第28回衆議院議員総選挙で落選。この総選挙では、現職の法務大臣だった唐沢に加え、花村四郎鈴木義男牧野良三ら歴代法務大臣が落選し、法務大臣は選挙に弱いという悪いジンクスが生まれた。1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙で国政に復帰し、以後連続四回当選。1967年(昭和42年)1月29日第31回衆議院議員総選挙で当選するが、在職中に死去。76歳。

友人であった五島慶太の依頼で、五島育英会理事長を務めたほか、武蔵工業大学(現東京都市大学)、亜細亜大学の経営にも当たった。

俳人としても知られ、は樹子。ホトトギス同人高浜虚子に師事した。句集に『信濃路』(創元社、1954年)がある。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、209頁
  2. ^ 『官報』第3905号、昭和15年1月16日。
  3. ^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。
  4. ^ 鹿島茂「神田神保町書肆街考」2022 ちくま文庫 p.547

関連項目[編集]


公職
先代
中村梅吉
日本の旗 法務大臣
第11代:1957年 - 1958年
次代
愛知揆一
官職
先代
山崎巌
日本の旗 内務次官
第48代:1943年 - 1944年
次代
山崎巌
先代
黒崎定三
日本の旗 法制局長官
第39代:1939年 - 1940年
次代
広瀬久忠
先代
松本学
日本の旗 内務省警保局長
1934年 - 1936年
次代
萱場軍蔵
先代
蔵原敏捷
和歌山県の旗 和歌山県知事
官選第26代:1931年 - 1932年
次代
清水良策