土田荘助

土田荘助

土田 荘助(莊助、つちだ そうすけ、1888年明治21年)3月13日[1]- 1962年昭和37年)8月25日[1][2])は、大正から昭和時代の農場経営者(馬産)、地主実業家政治家衆議院議員

経歴[編集]

秋田県平鹿郡、のちの館合村大雄村を経て現横手市)で素封家土田万助の長男として生まれる[1][3]。仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)を卒業した[3]

平鹿郡大森町菅生田(現:横手市大森町)の土田農場を経営し、馬産に取り組み、競走馬「フレーモア」の生産者として知られた[1]。秋田県畜産組合議長、馬政協議会議員、帝国馬匹協会特別会員、中央畜産会特別議員、秋田県畜産組合長、日本競走馬生産者協会会長、地方森林会議員、秋田県耕地協会評議員、大日本山林会評議員などを務めた[1][2][3]

なお、土田が馬主であったフレーモアは、1934年に行われた第3回東京優駿大競走日本ダービー)に優勝しているが、史上初で唯一の秋田県産日本ダービー優勝馬であり[4]、また、「初の個人牧場生産馬の東京優駿優勝」、「府中最初のダービー馬」(目黒競馬場から移転した新生・東京競馬場で最初に行われた東京優駿のため)でもあった。土田が生産したフレーモアの全妹のアステリモアは、1938年の第1回阪神優駿牝馬(後のオークス)に優勝している(アステリモアは、競馬評論家大川慶次郎の父である大川義雄が馬主であった)。

政界では、秋田県会議員、同副議長に在任[1][2][3]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に秋田県第2区から出馬して当選し、次の第20回総選挙でも当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員を連続2期務めた[2]

実業界では、羽後交通取締役、羽後銀行(現北都銀行)取締役などを務めた[2]。戦後に公職追放となった[5]

家族[編集]

人事興信録4版より[6]

  • 曾祖父 - 吉太郎[7]
  • 祖父 - 吉治(明治6年没[7]
  • 祖母 - (明治17年5月没[7]
  • 養祖父 - 彦七(父の叔父)
  • 父 - 万助
  • 母 - ムメヤ(明治9年7月 - 、秋田県・照井治右衛門の次女)[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『秋田人名大事典(第二版)』391頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』413頁。
  3. ^ a b c d 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』秋田14頁。
  4. ^ 日本ダービー50年史』 52頁
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、680頁。公職追放の該当事項は「翼賛支部長」。
  6. ^ [1]
  7. ^ a b c [2]
  8. ^ a b 人事興信所編 1943, p. ツ32.
  9. ^ a b 人事興信所編 1941, p. ツ33.
  10. ^ a b 帝国秘密探偵社編 1943, p. つ14.

参考文献[編集]