坂東彦三郎 (5代目)

ごだいめ ばんどう ひこさぶろう
五代目 坂東彦三郎

『川中島東都錦繪』の上杉入道謙信
屋号 音羽屋
定紋 鶴の丸 
生年月日 1832年
没年月日 1877年10月13日
襲名歴 1. 坂東鶴之助
2. 初代坂東竹三郎
3. 五代目坂東彦三郎
俳名 薪水・鶴子・薪子
浅草の大工為蔵
四代目坂東彦三郎(養父)
六代目坂東彦三郎(養子)
当たり役
『源平布引滝』「実盛物語」の実盛
『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の和田兵衛
『黒白論織分博多』(黒田騒動)の栗山大膳

五代目 坂東 彦三郎(ごだいめ ばんどう ひこさぶろう、1832年天保3年) - 1877年明治10年)10月13日)は幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者。俳名は薪水・鶴子・薪子、屋号は音羽屋

浅草の大工為蔵の子(一説に歌舞伎作者・村冠二の子とも)。天保11年(1840年)、四代目坂東彦三郎の養子となり坂東鶴之助と名乗る。天保13年(1842年)11月、中村座で『金竜山誓礎』が初舞台。弘化3年(1846年)1月、河原崎座で坂東竹三郎と改名。子供芝居で修業して力を付け安政元年(1854年)3月、市村座で五代目坂東彦三郎を襲名。

その後は江戸上方の舞台で活躍。四代目中村芝翫と人気を競い合った。容姿口跡ともによく、時代物、世話物で驚異的に幅広い役柄を誇った。『源平布引滝』「実盛物語」の実盛、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の和田兵衛、『黒白論織分博多』(黒田騒動)の栗山大膳などが当たり役。『仮名手本忠臣蔵』では由良助・師直・勘平・戸無瀬・判官など主要な役をすべてこなし、『京鹿子娘道成寺』など所作ごとに秀でていた。明治10年(1877年)10月巡業先の大阪で客死。

「名人彦三郎」「彦旦那」と呼ばれた名優で、九代目市川團十郎も「忠臣蔵七段目の由良助だけは兄貴(彦三郎)にかなわねえ」と脱帽するくらいの芸力だった。彦三郎も自信家で、好敵手の芝翫と比べられると「客はあいつ(芝翫)に呼んでもらい、芝居は俺が見せるのさ」と豪語した。

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脚注[編集]

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