大和国

大和国

-大和国
-畿内
別称 和州(わしゅう)
所属 畿内
相当領域 奈良県
諸元
国力 大国
15郡39郷
国内主要施設
大和国府 (推定)奈良県大和郡山市
(推定)奈良県高市郡高取町
大和国分寺 奈良県奈良市東大寺
大和国分尼寺 奈良県奈良市(法華寺
一宮 大神神社(奈良県桜井市
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大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県大国

国名について[編集]

当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる[1][2]。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。

その後、奈良時代天平9年12月27日ユリウス暦:738年1月21日[3]に表記は「大養徳」に改められた[1]。天平19年3月16日747年4月29日[4]には元の「大倭」に改称[1]。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる[注釈 1]平安時代以降は「大和」で一般化した[1]

国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)[注釈 2]。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された[5][6](「大和」の項も参照)。

戦国時代を経ても、飛鳥時代奈良時代以来の古い寺社が権門領主として大和国を支配していたことから、安土桃山時代には「神国」という異称もあった[7]

沿革[編集]

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

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大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は皇居#歴代の皇居を参照)。

国府[編集]

国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は、葛上郡掖上(現在の御所市東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、平城京遷都に伴って8世紀に高市郡(『和名類聚抄』)の軽の地[注釈 5]に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように国府は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。

国分寺・国分尼寺[編集]

神社[編集]

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社128座85社(うち名神大社47座26社)・小社158座131社の計286座216社が記載されている(大和国の式内社一覧参照)。

総社一宮

二宮以下はない。

地域[編集]

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古代 中世 1896年4月1日 現在
曾布 添上郡 添上郡 添上郡 奈良市・天理市
添下郡 添下郡 生駒郡 大和郡山市・生駒市・生駒郡
平群郡 平群郡
広瀬郡 広瀬郡 北葛城郡 大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡
葛城 葛下郡 葛下郡
葛上郡 葛上郡 南葛城郡 御所市・葛城市の一部
忍海郡 忍海郡
宇智郡 宇智郡 宇智郡 五條市
吉野郡 吉野郡 吉野郡 五條市・吉野郡
宇陀郡 宇陀郡 宇陀郡 宇陀市・宇陀郡
磯城 城上郡 式上郡 磯城郡 天理市・橿原市・桜井市・磯城郡
城下郡 式下郡
十市郡 十市郡
高市郡 高市郡 高市郡 橿原市・高市郡
山辺郡 山辺郡 山辺郡 天理市・奈良市・山辺郡

郡名は『延喜式』による。

江戸時代の藩[編集]

  • 郡山藩郡山城):水野家〔宗家〕(6万石、1615年 - 1619年)→松平(奥平)家(12万石、1619年 - 1639年)→本多家(15万石→9万石と6万石、1639年 - 1679年)→松平(藤井)家(12万石、1679年 - 1685年)→本多家(12万石→5万石、1685年 - 1723年)→柳沢家(15万1千石、1724年 - 1871年)
  • 高取藩高取城):本多家(3万石、1600年 - 1637年)→天領→植村家(2万5000石→2万500石→2万5000石、1640年 - 1871年)
  • 柳生藩(柳生陣屋):柳生家(1万2500石→8300石→1万石、1636年 - 1871年)
  • 小泉藩小泉陣屋):片桐家(1万石→1万6千石→1万3千石→1万1千石、1600年 - 1871年)
  • 柳本藩柳本陣屋):織田家(1万石、1615年 - 1871年)
  • 戒重藩/芝村藩芝村陣屋):織田家(1万石、1615年 - 1871年)
  • 大和新庄藩:桑山家(2万石→1万6000石→1万3000石→1万1000石、1600年 - 1682年)→永井家(1万石、1682年 - 1863年)→廃藩(櫛羅藩に転封)
  • 櫛羅藩櫛羅陣屋):永井家(1万石、1863年 - 1871年)
  • 宇陀松山藩(松山陣屋):福島家(3万1717石、1600年 - 1615年)→織田家(2万8千石、1615年 - 1695年)→廃藩(丹波柏原藩へ転封)
  • 興留藩(興留陣屋):松平(藤井)家(1万石、1686年 - 1693年)→廃藩(備中庭瀬藩へ転封)
  • 竜田藩:片桐家(2万8千石→4万石→1万石、1601年 - 1654年)→廃藩(無嗣断絶)
  • 御所藩:桑山家(1万2千石→1万石→1万6千石→2万6千石、1600年 - 1629年)→廃藩(無嗣断絶)
  • 大和五条藩:松倉家(1万石、1600年 - 1616年)→廃藩(肥前島原藩に転封)

人物[編集]

国司[編集]

大和守[編集]

武家官位としての大和守[編集]

江戸時代以前[編集]
江戸時代[編集]

守護[編集]

鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説[13]、「一乗院大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説[14]、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説[15]がある。

但し、室町時代後期には宇智郡河内畠山氏[16]が、宇陀郡北畠氏[17]が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。

また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。

戦国大名[編集]

大和国の合戦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 国史に改名記事がないため時期は諸説あるが、天平宝字元年(757年)の『養老令』施行からが有力視される(上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 142-143)。
  2. ^ 『和名抄』の大和国式下郡大和郷(おおやまとごう)、現在の大和神社(奈良県天理市新泉町)付近(『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節より)。
  3. ^ 「旧高旧領取調帳」では後に大多喜県が管轄したとしているが、三河国にも飛地のあった大多喜藩は、慶応4年の徳川宗家転封より領地を上総国夷隅郡にまとめられているため、同時に奈良県に移管されたものと思われる。
  4. ^ 同年4月27日(1868年5月19日)にかけて移管。
  5. ^ 現在の橿原市大軽町と石川町の接点丈六、ここを軽の衢という。久米町、西池尻/東池尻、高取町土佐の三説ある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節。
  2. ^ 大和国(藩名・旧国名がわかる事典)(朝日新聞社コトバンクより)。
  3. ^ 『続日本紀』天平9年(737年)12月27日条。
  4. ^ 『続日本紀』天平19年(747年)3月16日条。
  5. ^ 『日本古代史大辞典』(大和書房)大和国項。
  6. ^ 上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 140-142。
  7. ^ 【秀吉と大和の城(2)】大阪の“副都”担った「郡山城」…秀吉の命受け弟・秀長が統治、強力な寺社勢力抑え100万石規模に(2/2ページ)産経WEST(2014年1月2日)
  8. ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ参照。
  9. ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。
  10. ^ 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)136コマ。
  11. ^ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 7。
  12. ^ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)p. 41。
  13. ^ 今谷明「室町時代の伝馬について」(小笠原長和 編『東国の社会と文化』(1985年、梓出版社))
  14. ^ 永島福太郎『奈良文化の伝流』(1944年、中央公論社)
  15. ^ 田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4
  16. ^ 今谷明「室町時代の河内守護」(『大阪府の歴史』7号、1976年)
  17. ^ 今谷明「守護領国制下に於ける国郡支配について」(『千葉史学』創刊号、1982年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]