大日本帝国憲法における告文

ここでは、大日本帝国憲法発布にともなう告文(こうもん)を解説する。

同日の憲法発布式典における勅語、さらに発布にあたって付された上諭とあわせて、「三誥」と称される[1]

告文[編集]

皇朕󠄁スメラワ謹󠄀ツツシカシコ
皇祖コウソ
皇宗コウソウ神靈シンレイモウサク皇朕󠄁スメラワ天壤無窮テンジョウムキュウ宏謨コウボシタガ惟神カンナガラ寶祚ホウソ承繼ショウケイ舊圖キュウト保持ホウジシテアエ失墜󠄁シッツイスルコト

顧󠄁カエリミルニ世局セイキョク進󠄁運󠄁シンウンアタ人文󠄁ジンブン發達󠄁ハッタツシタガヨロシ
皇祖コウソ
皇宗コウソウ遺󠄁訓イクン明徵メイチョウニシ典憲󠄁テンケン成立セイリツ條章ジョウショウ昭示ショウジウチモッ子孫シソン率󠄁由ソツユウスル所󠄁トコロソトモッ臣民翼󠄂贊シンミンヨクサン道󠄁ミチヒロ永遠󠄁エイエン遵󠄁行ジュンコウセシメ益󠄁〻マスマス國家コッカ丕基ヒキ鞏固キョウコニシ八洲民生ハッシュウミンセイ慶福󠄁ケイフク增進󠄁ゾウシンスヘシココ皇室典範コウシツテンパン及󠄁オヨビ憲󠄁法ケンポウ制定セイテイオモフニミナ
皇祖コウソ
皇宗コウソウ後裔コウエイノコシタマヘル統治トウチ洪範コウハン紹述󠄁ショウジュツスルニホカナラスシカシテ朕󠄁チン逮󠄁オヨビトキトモ擧行キョコウスルコトヲルハマコト
皇祖コウソ
皇宗コウソウ及󠄁オヨビ
皇考コウコウ威靈イレイ倚藉イシャスルニラサルハ

皇朕󠄁スメラワアオギ
皇祖コウソ
皇宗コウソウ及󠄁オヨビ
皇考コウコウ神祐󠄀シンユウイノアワセテ朕󠄁チン現在ゲンザイ及󠄁オヨビ將來ショウライ臣民シンミン率󠄁先ソッセン憲󠄁章ケンショウ履行リコウシテアヤマラサラムコトヲチカ庻幾コイネガワクハ
神靈シンレイレヲカンガミタマヘ

解説[編集]

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されるにあたって、これに先立ち同日朝、明治天皇宮中三殿賢所を自ら拝礼、憲法発布を奉告した。この内容が告文である。

大意[編集]

第一文段
明治天皇が皇祖皇宗(神武天皇および歴代天皇)に対し、自身の皇位継承以来、明治維新をはじめとする多事多難の時局を経て国家の独立を保持したことを奉告している。
第二文段
明治維新以降の、外国との国交の進展、および国内社会の急速な文明化を鑑みて憲法を制定したこと、その憲法の精神および目標とするところは、歴代天皇の統治のありようを基にしたものであること、憲法制定の目的は、天皇および国民による国家統治の基準を定め、国家機構と民生を安定させることにあることを奉告している。
第三文段
歴代天皇の神祐を祈るとともに、自ら率先してこの憲法に則って国を治めることを誓い、統治への神霊の加護を祈っている。

特徴[編集]

構成について
日本が欧州諸国に倣って近代化を進めるにあたり、これらの国家との相違点が、君主(皇室/王室)と国民との社会的な関係性である。欧州諸国は、各国の君主・貴族・国民の各層間の関係は支配・服従の対立関係にあり、更に王統の断絶や交替などが頻繁にあることから、君主と国民の間の長期的な連帯関係は乏しい。一方で日本においては、天皇と国民との関係は階級的な対立関係は弱く、相互の精神的な紐帯が比較的強い。更に皇室は太古の昔から途切れることなく続いていることから(万世一系)、その精神的な紐帯は血縁関係に擬制されることがある。そのため、天皇が自身(および国民)の祖先神に祈るという形式の告文が、国家の最高法典である憲法の一部分を構成するという、世界的にもまれな構成の文書が成立した[2]
憲法条文の思想について
第一文段「皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ」の部分で、明治天皇の従前の国家統治は歴代天皇の統治のありようを規範としてきたことを奉告し[3]、次いで第二文段「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ」の部分より、その歴代天皇の遺訓を明文化する目的で、皇室典範および帝国憲法を制定した、としている[4]。その具体的な内容としては、
  • 「内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ」…今後の歴代天皇が国家を統治するにあたり、その統治の基準を定めた[5]
  • 「外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ」…国民が天皇とともに国家を統治するにあたり、その基準を定めた。上述のように、国民は天皇と階級的な対立関係性は有しておらず、この国民側の「参政権」は天皇との駆け引きや脅迫などによって勝ち得たものではないため、「与ヘ」ではなく「廣メ」となっている[6]
  • 「國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ」…国家の基礎を強化すること[6]
  • 「八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ」…国民の福祉を増進すること[7]

脚注[編集]

  1. ^ 里見, p. 151.
  2. ^ 里見, pp. 160–162.
  3. ^ 里見, p. 165.
  4. ^ 里見, p. 168.
  5. ^ 里見, pp. 168–169.
  6. ^ a b 里見, p. 169.
  7. ^ 里見, p. 170.

参考文献[編集]