大田黒元雄

大田黒 元雄
Otaguro Motoo
大田黒元雄(1917年)
生誕 1893年1月11日
東京府(現在の東京都
死没 1979年1月23日 (満86歳没)
東京都杉並区荻窪3丁目33番12号
出身校 旧制 神奈川県立第二中学校 卒業
ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトに師事 (ピアノ)
ロンドン大学経済学部 留学
職業

音楽評論家


配偶者 広田ちづえ
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大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。

人物・来歴[編集]

裕福な環境[編集]

1893年(明治26年)1月11日、東京府(現在の東京都)に生まれる。

大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、江戸時代には徳川幕府の御家人で、小牧(こまき)が本姓であった。元熊本藩の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった[1]

元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、

「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。私は元雄をつかまえて、「馬鹿」だなどと言って子供をいぢめたことを知らない。これも妻が良い女であったから、私が頭を擲(なぐ)らずに済むやうな子供をつくりあげて呉(く)れたのかも知れない。現在でも一時(ひとこと)だって争ひの種子(たね)もない。もう一つ幸(さいはひ)なことは、元雄夫婦の間にも争ひがないことである」

と話している[1]

元雄は、父重五郎の築き上げた裕福な環境で生涯を過ごし、黎明期の写真史に『写真芸術』同人として、福原有信福原路草石田喜一郎らと自由で重要な活動を遺し、また生涯にわたって自由な立場から音楽のみならず様々なジャンルで執筆を続けた。

若い頃の渡欧で、実際に作曲家の演奏を聴いた体験も、希有なものであったし、楽譜や資料、欧州の演奏会の情報や芸術の動向に関する最新の情報を日本に持ち込むことができたのも、この財力によるところが大きい。ガブリエル・フォーレの演奏を彼は聴いている。

しかし、それのみならず、音楽に関する専門的な教育を十分に受けていない一青年が、大正時代に、既に活躍ができたというのは、元雄のセンスと才幹によるものであろう[要出典]。また、彼は自分が得た情報を惜しげもなく提供し、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面もあった。

大森山王(現在の大田区山王)と杉並区東荻町(現在の同区荻窪)の2か所の東京の邸宅のほかに、静岡県沼津市神奈川県小田原市に別邸があった。病弱な母の転地療養先で育てられた元雄は、旧制・神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高等学校)卒業後、旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトにピアノを師事した。1912年(明治45年)に渡英し、ロンドン大学で約2年間にわたって経済学を修める傍ら、音楽会や劇場に通い詰めて本場の芸術に親しんだ。1914年(大正3年)7月に一時帰国したが、第一次世界大戦の勃発で再び渡英できなくなったため日本にとどまる。

音楽と文学社のころ[編集]

1915年(大正4年)2月、『現代英国劇作家』を洛陽堂から上梓、同年5月、松本合資会社改メ合資会社山野楽器店(現在の山野楽器)店主の山野政太郎から「作曲家の評伝のようなもの」[2]を書かないかと勧められ、ロンドン時代に集めた資料や情報をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行した。同書で、日本では知られていなかった多くの作曲家を紹介した。Mozart(モーツァルト)⇒「モツアルト」、Rossini(ロッシーニ)⇒「ロシニ」、Saint-Saëns(サン=サーンス)⇒「サン、サーン」、Fauré(フォーレ)⇒「フヲーレー」、Debussy(ドビュッシー)⇒「デビユッシイ」、Rachmaninoff(ラフマニノフ)⇒「ラハマニノフ」等、作曲家の発音表記は現在一般的ではない表記が目につくが、現在と同様の表記の方が多い。

作曲家を紹介した本は量と質でそれまでの書物の群を抜き、発行部数は少ないものの大田黒の名を一躍高からしめた。同書一冊の価格が1円50銭、同書の印税は40円であった[2]

大田黒が住んでいた自邸(大田黒公園にて撮影)

「ドビュッシーを日本で初めて紹介した」とされることが多いが、同書刊行以前に、『星の王子様』の邦訳で知られる内藤濯が、1908年(明治41年)に「印象主義の学才」というエッセイを雑誌『音楽界』(1908年9月号、楽会社)に、永井荷風が「西洋音楽最近の傾向」を『早稲田文学』(1908年10月)で紹介している[3]。大田黒は「デビュッシィ」と表記していたが、永井荷風は1908年の時点で既に「ドビュツシー」と表記している。

ただし、演奏会でまとまった作品を演奏したのは大田黒らであるとは言えるであろうし[要出典]、数度にわたって評伝やドビュッシーの音楽論集を刊行しており、日本で最初にドビュッシーの評伝らしい評伝を書いた最初の人物であるとは言えるであろう[要出典]

「日本で最初の音楽評論家である」といわれているが、これも客観的にそう断じるのは容易ではない[要出典]吉田秀和の随筆集『響きと鏡』の中には、吉田が園遊会のような席で、大田黒のことを英語で「日本で最初の音楽批評家」と紹介している場面が出てくる[4]

1916年(大正5年)から1919年(大正8年)まで、堀内敬三小林愛雄野村光一と共に進歩的な同人誌『音楽と文学』を刊行、「音楽と文学社」を設立し、同誌の中心人物として活躍した。月1回自邸で音楽の集いを開き、自らピアノを演奏し、スクリャービンやドビュッシーなど当時最先端だった近代音楽の紹介普及に尽力。この間、1918年(大正7年)に声楽家の広田ちづえと結婚している。同年来日したセルゲイ・プロコフィエフを厚く持てなした。

1921年(大正10年)11月から二度目の外遊に出発するまでに、少なくとも18冊の著書と2冊の訳書を上梓している。1923年(大正12年)3月に日本へ帰国。潤沢な資産を背景に、長谷川巳之吉第一書房を資金援助し、同社の『近代劇全集』が大赤字となった際には、当時の金で7万円という大金を出資したこともある。1940年(昭和15年)版の『日本紳士録』によると、当時大田黒が収めた所得税は1万4,086円であり、これは1996年(平成8年)の貨幣価値で約3,000万円に相当する[5]

昭和に入って[編集]

1924年(大正13年)から1925年(大正14年)まで、および1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで、欧米の各地を周遊している。評論活動の傍ら、父親の仕事の関係で、株式会社東京高級鋳物の取締役、株式会社東邦重工業(現在の東邦化学工業)の常任監査役、株式会社電業社(現在の電業社機械製作所)監査役、株式会社電業機製作所の監査役を兼務したが、教職などには一切就くことなく芸術的な自由人としての生活を貫いた。

第二次世界大戦後は、NHKのラジオ番組『話の泉』(放送期間 1946年12月3日 - 1964年3月31日)のレギュラー出演者となり、ダンディな語り口で茶の間の人気を博した。生涯の著書数は、再出版を除いて76冊、訳書は32冊にのぼる。趣味は野球相撲推理小説など幅広く、著書の内容も音楽評論以外に『西洋の汽車』『野球春秋』『ネクタイ談義』『英米探偵小説案内』など多岐にわたり、食道楽としても知られ、吉田秀和から「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評された[4]

1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章、1967年(昭和42年)、勲三等瑞宝章を受勲した。1977年(昭和52年)、文化功労者に選ばれた際、「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」と語った[6]。1979年(昭和54年)1月23日、死去する。満86歳没。逝去にあたり、銀杯三号を受け、従四位に叙された。

1933年(昭和8年)から生涯を過ごした、2,700坪に及ぶ東京都杉並区荻窪の自邸跡地は、その大部分が「大田黒公園」となった。1933年(昭和8年)に建てられた仕事場が「記念館」として保存されている[7]

墓所は豊島区駒込染井霊園

おもなビブリオグラフィ[編集]

著書[編集]

訳書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 大田黒重五郎・口述『思出を語る』(大田黒翁逸話刊行会、1936年)のp.130等の記述を参照。
  2. ^ a b 座談会「『バッハよりシェーンベルヒ』出版二十周年」(『音楽世界』、1935年10月号)の記述を参照。
  3. ^ 村上仁美「戦前の日本におけるフランス印象派音楽のイメージ形成」(『表現文化研究』、第3巻1号、2003年、神戸大学表現文化研究会)、Eiko Kasaba, La musique de Debussy au Japon, Cahiers Debussy Nouvelle serie No 10, Saint-Germain-en-Laye, Centre de Documentation Claude Debussy, 1986の2書の記述を参照。
  4. ^ a b 吉田秀和『響きと鏡』(中央公論社、1980年)の記述を参照。
  5. ^ 大田黒元雄『音楽生活二十年』巻末解説(増井敬二)p.3、(大空社、1996年)
  6. ^ 大田黒元雄『音楽生活二十年』巻末解説(増井敬二)p.5、(大空社、1996年)
  7. ^ 施設案内■大田黒公園”. 杉並区. 2011年12月21日閲覧。

参考文献[編集]