奥村幸司

奥村 幸司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県
生年月日 (1973-10-16) 1973年10月16日(50歳)
身長
体重
185 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

奥村 幸司(おくむら こうじ、1973年10月16日 - )は、1990年代後半から2000年代初頭にかけて活躍した社会人野球の選手(外野手、右投げ左打ち)である。現役最終年はヤマハに所属、背番号は39であった。

人物・来歴[編集]

三重県出身。三重高等学校では甲子園の出場経験を、法政大学では大学選手権優勝の経験を有し、学生野球のエリートコースを歩む。4年秋にベストナインを受賞。法政大の監督を務めた青木久典は高校からの1年先輩であり稲葉篤紀(1学年上)、副島孔太(1学年下)のほか同期に深谷篤(NPB審判員)がいた。1996年河合楽器に入社して力を蓄えると、1998年に初めてアマ日本代表に選出される。勝負強い中距離打者としてチームの主軸を任され、主将として臨んだ第72回都市対抗野球大会2001年)では、.474の打率を残して河合楽器の都市対抗初優勝に大きく貢献。大会最優秀選手賞の橋戸賞を獲得し、同年の社会人ベストナインにも選出された。同僚に佐藤康幸山井大介久本祐一らがいた。

しかし、同年秋に突如河合楽器の休部が発表され、奥村は同じ浜松市に本拠地を置く同業ライバルチームのヤマハに移籍。橋戸賞選手が翌年移籍するのは異例のことであったため、大いに注目を集めたが、奥村は体調不良に陥ってしまい、ヤマハでは大きな活躍を見せることなく1年限りで現役を引退した。

日本代表キャリア[編集]

  • 第13回アジア大会日本代表(1998年)
  • 4か国対抗戦日本代表(1999年第1次)

主なタイトル・表彰[編集]

関連項目[編集]